第8話

 清々しいぐらい青空もすっかり、まるで上質な天鵞絨びろうどの生地を敷き詰めたような夜空へと変わった。


 散りばめられた無数の小さな輝きが生地を美しく仕立て上げ、中でも特に金色の満月が一際冷たくも神々しく輝いていた。


 都会の中心部よりやや離れた場所にあるとだけあって、夜になると周辺は一気にしんと静謐せいひつに包まれている。


 不気味に響く自分の足音に、恐怖する人間もきっと少なくはあるまい。一颯はふと思った。



「今日はなんか、どっと疲れたなぁ……」



 誰かに言うつもりは毛頭ないが、けれども愚痴を吐かずにはいられない。


 今までは好きな時間、好きなタイミングで配信していた。


 それが個人勢の強みであり、自由気ままさを好む自分にもっとも性に合っていた。


 無所属でなくなったことで、これまであった自由がほとんどなくなった。


 戌守一颯いぬがみいぶきは――名をがらりと改め、“|夜野(よるの)いぶき”として今後活動する。


 一颯いぶきがそのまま起用されたことはありがたく思うし、キャラのコンセプトは奇しくも自分に通ずる部分が極めて多かった。


 あの社長、本当に偶然なのか……? あそこまでそっくりなキャラクター像になることなど、果たしてあるのだろうか? 一颯は沈思した。


 とにもかくにも、通ずる部分が多いとだけあって演じやすいのは確かに事実でもある。


 ポロッとリアル事情を出さないようにしなければ……!



「――、あー疲れた」



 一颯はベッドの上にどかりと倒れた。


 今日のスケジュールはある種、過去一番の忙しさだったかもしれない。


 発声練習から演技力の指導、そしてコンプライアンスについての研修……などなど。


 一日という時間が驚くほどあっという間にすぎさり――現在、午後八時前。ようやく解放されて自宅へと帰宅した。



「もうすぐで本格的活動開始かぁ……あっ!」



 大事なことをすっかりと忘れていた……! 一颯はバッと飛び跳ねる様に起きた。


 パソコンの前に座って急いで起動する。


 自分は、最底辺Vtuberだった。それでも数少ないながらも大事なリスナーがいた。


 そんな彼らとの関係が終わることは少々、惜しくもあるが何事もケジメは必要だ。


 一颯は配信を開始した。Vtuber戌守一颯いぬがみいぶきとしての、最後との配信である。


 しばらくして、見知った名前がぽつぽつと画面に表示された。



『いぶやん久しぶりー!』

『いぶやんのゲリラ配信奇跡にこれたw』

『いぶきちゃん……今日もきゃわわです!』



「あー、急な配信で悪い。でも、今日はどうしてもやらないといけなくなった理由があるんだ」



 一颯は息を整えた。


 一応今後の活動方針として、現在のチャンネルは削除するよう段田弾だんだつよしから言われている。


 ここでもしっかりとコンプライアンスを守っていればよかったのだが、好き勝手地元の話なんかもしていたのが仇となった。


 こんなことになるぐらいだったら、もっとまじめにやっておけばよかった……! 


 後悔先に立たず。どれだけ嘆き悔いたところで過去が変わらないのは、とうにわかっているだろうに。


 一颯は自嘲気味に小さく笑った。改めて見るとコメント欄がいつになく騒がしい。



『え? なになに? どうしたの?』

『なんか、結構ヤバめな感じ?』

『嫌な予感しかしないんじゃが!』



「さすが、これまでずっとこのチャンネルに来てくれたリスナー。察しがいいな――結論からいうと、今日でこのチャンネルを完全に封鎖することになった。つまりは引退、アカウントも削除するってことになる」



 包み隠さず真実を打ち明ける――ドリームライブプロダクションに所属したことは内緒だ、これは社長直々の命令でもあって、余計な混乱や憶測を招かないためだ。


 そして、いざ引退を宣言するとなるとなかなか感慨深いものがある。


 一颯はふっと口元を緩めた。寂しい、なんて感情を抱くなんて自分らしくもない……。



『えっ!? マジで引退するの!?』

『いぶやん! 今日はエイプリルフールじゃありやせんぜ!』

『おいおいマジかよ……』



「突然の報告になって本当に悪いと思ってる。詳しいことは言えないけど、ちょっとリアル事情のせいで活動の継続が困難レベルじゃなく、不可能になってしまったのが引退の原因だ――これまでこんな拙いチャンネルと配信に付き合ってくれて、本当に感謝する。改めて……ありがとう」



 言いたいことは言った。


 引退ライブ配信は最初から予定していなかったので、最後の配信はたった数分という極めて短い時間で幕を下ろした。


 これで、本当に何もかもが終わった……。一颯は小さく吐息をもらした。



「…………」



 これまでの思い出がふと、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。


 辛いことは不思議と一度もなかった。


 アンチコメがくるかと思いきや、きたのはすべて明るいコメントばかり。


 フォロー数は少なくとも最高と言える視聴者に確かに、自分は恵まれていた。


 そのことを改めて実感して、削除のボタンを押すのをほんの少しだけ、ためらってしまった。


 そうするって決めただろ、一颯……! 自らに強く言い聞かせ、そしてマウスのクリックを静かに押した。



「――、これで本当に終わったな……」



 今日ここへきていないリスナーも、他のリスナーがきっとうまく伝達してくれるだろう。


 最後まで他力本願ではあるが、ここは素直に甘えることにする。一颯はそっとパソコンの電源を落とした。


 どれだけ懐古の情に浸っていただろうか――不意に、チャイムの音が鳴った。


 こんな時間に人が来るなんて誰だ……? モニターを覗くと、そこには何故か今日顔合わせした面々の姿があった。

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