第6話

 空がまだ東雲色しののめいろの頃、時折吹く風はもう春だと言うのに真冬のように冷たい。


 人の気配もひどくまばらで、まだ町全体は心地良い眠りについている。


 その中を一颯は駆け足で移動していた。

 別段何かに焦っているわけではない。単純に日課のランニングである。


 新居に住むに当たって周辺の地理を把握するという意味合いもあるが。



「はっ……はっ……」



 ランニングに決まったコースは特にない。


 心が赴くがままに、気分次第で時間もなにもかもがらりと変わる。


 今日はいつもよりなんだか無性に走りたいという気分だった。


 新居は――相変わらず立派すぎて、場違い感がどうしても否めない。


 借家でもそこは住めば都、人間慣れてしまえばどんな環境でも住み心地のよさを憶えるように、あれはあれで決して悪くはなかった。


 慣れるまでには、まぁそれなりの時間がかたったのは事実ではあるけども……。



「――、俺がドリプロのVtuber……か」



 一颯はもそりと呟いた。


 あくまでも趣味の範疇内だった活動が、よもやメインとしてなるなど夢にすら思ったことがなかった。


 自身の配信スタイルは、あくまでものんびりゆったり。


 再生数やフォロワー数など二の次だったが、事務所に所属したからにはその考えは許されない。


 果たして自分に務まるのだろうか……? 金銭的な問題でスカウトを受けたが、今更になって強烈な不安が胸中で激しく渦巻いている。


 だからと言ってここで辞退しようものならば、明日の食事をどうするか路頭に迷うこととなる。


 やるしかない……やるしかないのだが、やはり不安は不安だ。


 一颯は小さく溜息を吐いた。とりあえずやれるところまで、やってみるしかない。



「でも、やっぱあっちの仕事もないか聞いてみるか……」

「――、何があっちの仕事なの?」

「え?」



 人気のない公園にふらりと立ち寄った時、思わぬ人物との遭遇に一颯は目を丸くする。


 何故、彼女がここにいる? 時刻はまだ午前5時すぎ。起床して活動する時間帯にしては早すぎるのではないか。


 一颯は内心で小首をはてとひねった。


 その女性――“天現寺てんげんじかすみ”もどうやら同じ疑問を抱いたらしい。怪訝な眼差しをもってジッと見つめてくる。



「かすみさん……どうしてここに?」

「朝散歩をするのが私の日課なのよ。そういうアンタこそ、どうしてここにいるの?」

「……俺も朝にランニングするのが日課なんですよ。引っ越してからこの辺の地理はまだ把握してませんし、その散策もかねて」

「ふ~ん、そうなんだ」

「……それじゃあ、俺はこれで」

「あ、ちょっと待ちなさいよ」



 一颯は渋々と立ち止まった。



「……まだ何か?」

「アンタさ、事務所に入ってもう一週間でしょ? それなのに全然他のメンバーと知り合おうっていうか、そもそも顔合わせすら満足にしてないわよね?」

「それは……」

「あのねぇ、仮にも一緒に事務所専属Vtuberになったんだから、スタッフさんやマネージャーさんはもちろん、私達ともしっかり連携取っていかなきゃだめじゃない。社会じゃ連携は常識でしょ?」



 そんなことは言われなくたってわかっている。あまり人を馬鹿にするな。一颯は内心で毒づいた。


 正直なところを言えば、かすみとはあまり関わりたくなかった。


 彼女の性格がどうこうではなく、単純にあまり関わることで余計な部分を知られることが怖かった。


 元より俺――戌守一颯いぬがみいぶきは周囲と気さくに関わってもよい資格がない。


 それを重々、他の誰よりもずっと理解しているから一人の方が気楽なのだ。



「まぁいいわ。今日は社長からも言われているし、逃げられないって思うことね」

「え? どういう意味ですか?」

「今日は事務所にくるように言われてるでしょ? その時に私も含めてアンタの先輩となるVtuberが何人か集まるから。そこで顔合わせするわよ」

「げっ!」



 一颯はあからさまに嫌そうな表情かおを示した。



「げっ、って何よ。げっ、て……」

「いや、そこまでしてもらわなくてもいいかなぁって……」

「駄目に決まってるでしょうが! アンタ本気で何言ってんの!?」

「いや、そんなこと言われても……」

「と! に! か! く! アンタも専属Vtuberになったからには責任とプライドを持ちなさい! いいわねっ!?」

「あ、はい……」



 事態がどんどん面倒なことになりつつある、そんな気がしてならない。一颯はがくりと肩を落とした。



「――、ん?」

「どうかしたの?」

「……いや」



 一颯が視線を横に移動しながら言う。


 いくら人気がない公園とは言っても、朝っぱらからぎゃあぎゃあと喚けば誰か一人ぐらいは文句を言ってきてもなんらおかしくはない。


 だから視線の先にいる男がそうだと思っていたが……どうやらアレは違う類らしい。


 一颯が異変に気付いたのは、ほんの一瞬の違和感だった。


 かすみも男の存在にはとっくに気付いている。


 気付いた瞬間、咄嗟に視線をそらした。


 表情もさっきと比較して心なしか強張っている。


 恐怖を抱いているのは明白で、しかし表に出さないとは後輩の手前だからか……。


 仕方がない。一颯は小さく吐息をもたした。



「……ストーカーの類ですか?」

「えっ……!?」

「顔、いつになく怖いですよ?」

「……最初は気のせいだって思ってたんだけど、もう一週間ぐらいかな。あそこにいる男の人、いつも私のこと見てるのよね」

「知っている人物ですか?」



 一颯の問い掛けに対して、かすみからの返答は――否。首を静かに横に振った。



「本当は朝の散歩が日課だって言うのも嘘。夜にしてたんだけど、あの男の人につけられるようになったから、朝早かったら大丈夫かなって思ったんだけど……」

「…………」



 どうやら本格的に参っているらしい。


 どれだけ強気に振る舞っても、この娘も一介の女性であることに相違ない。


 怖いものは怖い、それは女性だからではなく、人間として抱いて当然の感情だ。


 ならば彼女の恐怖をどうしてやればいい? しれたことだ。さっさと取り除いてやればいい。


 一颯は「ちょっとそこで待っててください」と一言残して、颯爽と動いた。


 向かった場所は、あえて言う必要もなかろう。


 近付いた途端、男が目に見えてはっきりと動揺の感情いろを示し、くるりと踵を返す。



「逃がすかよ」



 一颯は一気に地を蹴った。


 あっという間に距離を詰めて、そのまま男をねじ伏せる。


 遠目からではよくわからなかったが……なるほど、如何にもやりそうな風貌をしている。


 一颯は深い溜息を吐くと、男の手首を強くひねれば、家畜を絞め殺したような気に食絶えないぐぐもった声がもれた。



「ななな、なんなんだよお前――」

「一度だけしか言わない――今後彼女の前に現れてみろ。その時は俺がお前を容赦なく殺す」

「ひっ……!」

「どうする? 嘘だと思うのならこの手首、完膚なきまでに破壊してやろうか?」



 ぎろりと一颯は男を睨んだ。


 その視線は氷のように冷たく、刃のように鋭い。


 さながら獲物を狙う猛禽類を彷彿とする眼光を前に、男の顔色はたちまち青ざめていった。


 それからはなんとも呆気ない結末だった。


 情けない悲鳴と共にドタバタと逃げ出す姿は――よくよく見やれば、小便をもらしている。


 見るに堪えない無様な後姿をしばし見送って――



「ア、アンタ何者なの?」



 ぱたぱたとやってきたかすみの顔にはもう、恐怖の感情いろは微塵もない。


 代わりに激しい驚愕が色濃くあるが、さっきと比べれば断然マシだ。


 一颯は小さく口角を緩めた。とりあえず、適当に言い訳しておかないと……!



「昔、陸上に所属してたんですよ。走るだけなら誰にも負けない自信はあります」

「そ、そうだったのね……。で、でもその……あ、ありがとう」



 そう謝礼の言葉を述べたかすみの頬だが、なんだか心なしかほんのりと赤い。一颯はそう思った。

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