第5話

 今の心境を語るならば、最悪の一言に尽きよう。


 会議室でのやり取りは一颯が思った以上に、あっさりと終わった。


 契約書の内容は――さすがは有名事務所とだけあって、待遇は悪くはない。


 一般企業であくせく働くのと、アイドルとして活動して同等稼げるのなら断然後者の方がいいに決まっている。


 むろんこれも立派な仕事の内だ、楽だなんて最初ハナから思っちゃいないが、心から楽しんでやれると言うのはやはり大きなアドバンテージになる。


 それはさておき。


 会議室を出てすぐに一颯は深い溜息を胸中で吐いた。



「……何か言いたそうな顔してない?」

「いえ、別に。大丈夫です」

「……ふん」



 よりにもよって、何故あの社長はこの娘を案内役に任命したのだろうか? 当の本人に至ってはすさまじく嫌悪感を示していたのに、あれで気付かないとなるともはや鈍感という言葉では説明がつかない……。


 もはや悪意すら感じる天然さだが、悪い気がしないのは彼だからだろう。一颯は思った。


 いずれにせよ、空気は最悪以外に相応しい言葉を、自分はまるで思いつかない。



「――、それでこっちが撮影スタジオ。ウチのチャンネルは……って、どうせきちんと見てないわね」

「えぇまぁ、恥ずかしながらまったく……」

「はぁ……なぁんでアンタみたいな奴をあの社長はスカウトしたのかしら」

「それはこっちの台詞ですよ……」

「……まぁいいわ。とにかくこのドリプロに入ったからにはしっかりとやってもらうからね!」

「やるからにはこちらも真剣にさせていただきますので、その辺りはご安心を」

「ふん、どうだが……」



 刺々しい口調に、一颯はただ苦笑いを浮かべるしかなかった。


 満足に会話できたかと言えばそうではないが、現在ある情報から考察してどうやら“天現寺てんげんじかすみ”はなかなか執念深い性格の持ち主であるらしい。


 たかがゲームでボコボコにされたからって、そんなに怒ることのほどなのか? こればかりは過去の配信を見てみないことには定かでないにせよ、よくその配信スタイルで数多くのフォローがついたもんだ……。


 一颯は不可思議そうな顔で小首をはて、とひねった。



「――、それよりアンタ……ライバー名はどうするの?」

「え? あぁ、それならこのままでいきます」

「え? このままってどういうこと?」

「いえ、ですから本名ですよ。戌守一颯いぬがみいぬき……一颯の方は漢字じゃなくて、ひらがな表記にしますけどね」

「は!? ア、アンタそれマジで言ってんの!?」



 その言葉を発したかすみの顔は、ひどく困惑した面持ちだった。


 まぁ、彼女がこう反応を示すのも無理はない。


 インターネットの世界で個人情報を晒すことほど、現代において恐ろしいものはないと言っても過言じゃない。


 だから偽名を使うのは当然で、身バレを極度に防ぐように務めるのだから、その反対を実施する自分はさぞ愚か者として映ったに違いない。


 一颯はふっと小さく笑った。


 そんなことは言われずともわかりきっている。わかった上でやっているのだから。



「アンタそれだけは絶対にやめときなさい! リスナーの住所特定能力は半端ないんだから!」

「まぁ、なんとなくは理解できますけど……」

「ちょっとこれは社長と要相談ね……こんなことで私達まで巻き込まれたんじゃ、たまったものじゃないわ」

「はぁ……それじゃあ、面倒だけど適当に考えますかぁ」

「アンタさぁ、もうちょっと自分のこと大事にした方がいいわよ?」

「……別に、大丈夫ですよ」

 自分のことを大事にするのはもう飽きた。そもそもその資格すらも、もう手元にないに等しいのかもしれない。

「……アンタ、何かあったわけ?」

「人に聞かせるような話じゃありませんので。大丈夫です、オンオフはしっかりと弁えますから」

「だったら、いいんだけど……――それじゃあ次は、マンションの方に案内するわね」

「え? マンション?」



 一颯は小首をはて、とひねった。


 どうして事務所専属のVtuberとなるだけでマンションまで案内される必要があるのだろう……そんな話は社長も、契約書にだって一度も出てこなかったが。


 わけがわからない、という心情をくみ取ったのだろう。かすみが小さな溜息の後に口を静かに切った。



「ドリプロ所属のVtuberは基本、事務所指定のマンションに住むように言われているの。これはいざと言う時に連絡や対応ができるための配慮で、家賃だって会社が4割負担してくれるから損はないわよ」

「え、そ、そうだったんですね……」



 予想外の一言に一颯は内心で滝のような冷や汗をかいた。


 実は資金面の理由で借家からの退去を余儀なくされた。


 事務所負担というのは、金欠状態にある現在いまの自分にとっては正に地獄に仏と言ってもよい。


 あれこれ考えず、今すぐにでも移住するべきではないか……! なんの問題もなかったら即断できたのに、そうとできない理由がどうしてもあった。


 他になにか手はないだろうか……。一颯は沈思した。



「とりあえず、空き部屋があるから中を見てから考えれば? 近くに住んでたら別に移住は強制じゃないし」

「……俺の今住んでいるところ、ここからかなり遠いです」

「だったら、今すぐにでも見た方がいいんじゃない?」

「そう……ですね」



 ここは素直に、かすみの提案に乗った方がよさそうだ。


 移住するか否かは、件のマンションを見てからでも遅くはあるまい。一颯はそう判断した。


 判断してから移動してすぐに、一颯は唖然とその目を丸くした。


 まず第一に、予想字ていたよりもずっといい物件だったことに驚きを禁じ得ない。


 都内でも一番高級と謳われるほどの高層マンションで、家賃は軽く30万円を超える。


 一介の人間であれば、住めなくはないがリスクがあまりにも高すぎて容易に手が出せないのは確かだ。


 そんなマンションに超人気Vtuberとはいえ、かすみや他の先輩Vtuberが住んでいると言うのだから、驚かない方が無理というもの。


 そして、外観でこれなら内観も立派なのは確認するまでもない。


 空き部屋に入室して早々に、一颯は再び唖然としてしまった。



「3LDKの一室で、インターネット環境から防音までばっちり。私はこっちの広い部屋を主にはしん部屋として使ってて、後は寝室と客室って感じで使ってるわ」

「…………」

「――、? どうかしたの?」

「……マジでみなさん、ここに住んでるんですか?」

「そうよ」



 あまりにもあっけらかんと言ってくれる……。一颯はひくり、と頬の筋肉を釣り上げた。


 借家を例えるとしたら砂で作ったお城で、ならばここは難攻不落の城塞に匹敵する。


 セキュリティー対策はもちろん、配信するのにこれほど最適な環境もなかなかない。


 ここまでいい物件を前にしては、住むか否かの悩みなど、その価値は路傍の石にまで下落する。


 悩む必要なんてどこにあろう……こんな好条件を逃す手はない! 一颯は即決した。



「かすみさん……」

「な、なによ」

「俺、ここに住みます。とりあえずここで頑張ってみます」



 一颯はそう答えた。その言葉に迷いは微塵もなかった。

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