生きている内に会いましょうね

瀬野星子は、子どもをもうけないことを決めた。


左手でしっかと握った高尾ユナの右腕に、星子の左手の形をしたあざができていたとしても、星子は罪悪感を抱かないだろう。

そのくらいには疲れ切っていたし、いますぐ目の前の大通りに飛び出してもいいとすら思っていた。


右手でつかんだ傘が風に持って行かれそうになる。

それを耐えて、星子はぬいぐるみの腕を引くようにユナを引っ張る。

悲鳴混じりの叫び声がぼやけた街に響いて、通行人が少し怪訝な顔をする。


「ユナちゃんは轢かれたいの? お父さんがお迎え来るまで待てるでしょ?」


また風が吹いて、ユナの金切り声をさらって行く。

傘はユナの頭部に降りかかる雨を辛うじて遮っているのみで、星子はぬれねずみもいいところだった。



ユナの父、高尾勇気は郵便局員で、この保育園に娘であるユナを預けて仕事に出ている。

本来十七時までの預かり時間を延長してまでユナ一人のために星子が待っているのは、高尾勇気が頼み込んだためであり、また人の良い園長がそれに折れたためである。

しかし、結局割を食っているのは星子であるのだから、決定権は星子にあるはずだったのだ。


十五分までには絶対にお迎えに行きますから! と豪語する高尾は、週に二回ほど十七時半より遅れて到着する。

その度に、施錠までした保育園の前の道に立ち、待っているのが星子だ。


ユナがまた叫声のような音を立てる。

甘えて育てられたこの少女は、その通り自分勝手に、かんしゃく持ちに育っている。

加えて大雨や雷などの異常気象に対し過剰な好奇心を示す性格ぶりで、こういう日は輪をかけて面倒になる。


目の前の大通りを、車が通過する。

水たまりがタイヤに切られて、大きな幕を張る。


その絶え間ない往来の中に、突然ユナが飛び込もうとした。

星子は焦ってそれを止めた。


「危ないでしょ! もうちょっと落ち着いてくれないとユナちゃんがケガするんだよ」

「引っ張んないで! 痛い!」


星子だって引っ張りたくてそうしているわけではない。

また通行人の一人があきれ顔をして通り過ぎる。


そんな余裕があるなら手伝えよ。


星子はユナを引き寄せて、しゃがみ込み顔を近付けた。

ユナが目をそらしたので、傘を肩にかけ、空いた右手でユナの頬を握ってこちらに向かせる。

傍から見れば虐待現場だ。


「ねぇ、ユナちゃんのお父さんは遅れて来るってもう何回も言ってるよね? もうちょっとだから大人しく待っててくれないと、ユナちゃんがケガするんだよ?」

「離して!」

「ユナちゃんお願い、言うことを聞いて」

「星子先生やだ! ユカ先生が良かった!」


星子はしゃがんだまま、うなだれた。

一児の母である竹下ユカは、星子より数年若い保育士で、育児があるからと早上がりを許されている。

育児の大変さをこれ以上なく理解しているこの職場では、子どもがいるという事実が約束手形となり、多少の融通なら効くようになる。

そのしわ寄せ先は、やっぱり私だ。


そうして気を重くしている間にも、暴君は私の手から逃れようとする。

たまに微笑ましいようにそれを見るスーツ姿の女性や、舐めたようなため息を吐く老人を細めた目から見て、星子は低い呻き声を上げる。

これだって、ユナがやれば子どもの奇特な行動の一つだろうが、成人してから十年以上も経った星子がやれば、犯罪だ。


雨は一層強くなる。


肩にかかった傘は星子の頭を雨から守り、その中にユナは入っていない。

ユナが風邪を引けば、明日針のむしろに座らされるのは星子だ。


「パパの車の音だ!」


ユナがまた騒ぎ立てる。星子の腕をぐいぐいと引いて、車道に近付こうとする。

通行人の往来がユナを分けるように広がって、車の作る水しぶきに数人が犠牲になる。

些細な悲鳴が上がって、恨みの視線がこちらに向く。もうこりごりだった。


「ユナちゃん、一回保育園に帰ろっか」


ユナは騒いで抵抗するが、これを路上で管理し続けるのは無理な気がしていた。

もう十七時半はとうに過ぎているだろうし、待ち続けて都合が悪いのは星子だった。

いや、どのみち施錠済みの保育園に入ること自体がまた問題なのであるが、その責を負う方がまたマシだった。


「ほら、ユナちゃん、行こ?」


ユナはそれでも言うことを聞かず、車道の方に進んで行こうとする。

本当に高尾勇気の車があるかは雨のカーテンに隠れて分からない。


瞬間、ユナが星子の手を強かに噛む。


痛みに負けて手を離すと、ユナが雨の中に消えて行った。

人波が割れてユナの場所は分かるが、しゃがみ込んでいた星子はすぐに追いかけられない。


ボン、という低い音がした。


甲高いクラクションが数回鳴って、さっきまで止まらなかった通行人がざわざわと留まり始めた。

星子はもう一度しゃがんで、腕時計を見た。


十七時四十五分。

十七時四十五分。

四十五分だった。


ユナがいなくなって、星子は初めて傘に当たる軽快な雨音を聞いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

毎日三分間の読書時間 真槻梓 @matsuki_azusa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ