トゲアリトゲナシトゲハムシ
トゲアリトゲナシトゲハムシがいるんだったら、この北条佑と言う人間は指定時間あり指定時間になし指定時間ムシである。
自分でもよく分からない。シテイジカンアリ、シテイジカンニナシ、シテイジカンムシ、とつぶやきながら、奈々は四階まで続く薄暗い階段を上っていた。
これで四回目の配送である。
築五十年ほどになる四階建てマンションにエレベーターはなく、奈々は今まで三回階段を使って同じ荷物を運んでいる。
その荷物も軽ければいいのであるが、両手で抱えなければならないほど重く、中には潰れた野菜でも入っているのか、箱の底がぬれて気持ちが悪い。
送り状を見てみるに、送り主は北条佑の親類であるようだ。
北条弓と丁寧な字で書かれている送り状からは、こんな根性の悪い、階段往復をさせる人間など想像できない。いいかげん顔を拝んで見たかった。
やっとの思いで四階に到着し、奈々は四〇三号室のインターホンを鳴らす。
最初の配達で北条佑が出てこなかった時は、悲しいことに慣れっこであったため、あまり気にも留めなかった。
二回目から心の雲行きが怪しくなり、三回目はこのインターホンをしこたま連打した。
それでも出ない北条佑は、それでも律儀に配送時間を指定してくるものだから、人間性を疑う。
沈黙が響く。
インターホンを鳴らすために一度床に置いた段ボール箱はきっと砂利で汚れているはずだから、持つ気にもならない。
奈々はそれを持ち上げる風にその場にしゃがんで、それから目を閉じた。
箱から中身の腐った臭いがする。
このまま置き配ということで放置しても良かったが、仮にも生鮮食品である。
無下にしてしまえば、不利益を被るのは配送業者の方だ。
長いため息を吐く。
羽虫が段ボール箱に寄って来たので、手慰めに潰して殺した。
瞬間、四〇三号室の扉が開く。
見れば、下着だけを着用し、タオルを首にかけた男が玄関に立っていた。
「お疲れ様です! すみません、行けるかなって思って風呂に入ってました」
心底申し訳なさそうな顔をして手を合わせる佑を見て、奈々はパンケーキのような苛立ちを覚えた。
パンケーキでも、スフレパンケーキ。ふわっとして、少しどろっとした、どうしようもなく甘美なささくれ。奈々は立ち上がって無言で送り状を突き付けた。
「何回も持ってこさせてすみませんね、ありがとうございます」
言ったまま、佑は黒色の短髪を拭いている。
奈々はサインを求める声を出すのすら面倒に思えて、送り状を突き付けたままでいた。
佑はちらとそれを見て、すぐに視線を奈々の顔に戻すと、うれしそうな顔をしながら、「上がって行きます?」と聞いてきた。
「仕事中です、上がりません」
「そう言わずに。こう何度も階段を上ったら、疲れちゃうでしょ。お水がいいですか、紅茶がいいですか」
「上がりません、サインをください」
北条佑は少し考える仕草をしてから、にっこりと笑って奈々を見た。口角の上昇が必ずしも上機嫌を示すわけではないと、奈々は知っていた。脅しだ。
「上がって行きなよ」
「いいえ、結構です」
「分かった、それならば荷物は受け取らないでいいかな、君に負担を強いるようで申し訳ないけれど、こっちにはこっちの事情があるってことで」
笑顔の中の視線は鋭かった。
北条佑の意図は、奈々にも理解できた。
きっと今までの再配達は本当に嫌がらせではなかったのだろう。
この人の態度から、本当に他人を何とも思えていないことがありありと見えていたし、その通り荷物の存在を忘れていたに違いない。
玄関先から見える台所がきれいなところを見ると、親類からの野菜も北条佑にとっては面倒以上のなにものでもないのだろう。
しかし、今回の受け取り拒否は、確実に嫌がらせだ。
奈々のなにがこの男の興味を引いたのかは分からないが、とにかく思い通りにしたいという純粋な欲望だけは薄ら見えていた。
奈々は佑の足を見る。風呂上りだからか、素足だった。
ならば大丈夫だろう。奈々はなに食わない風を装いながら、段ボール箱を勢い持ち上げ、階段の方へ駆けて行った。
北条佑の小さい悲鳴が聞こえる。それはそうだ。濡れた段ボール箱の底に付くほどの砂利は、当然素足には刺さる。
奈々の配達用のスニーカーならば、コーナーでなくても差は付けられる。
階段を坂道のように駆け下がって、奈々は配送車に荷物を押し込んだ。
後ろを伺い見て、北条佑の影がないことを確認する。
運転席に入ってエンジンをかければ、あとは人より早い文明サマだ。
再配達申請を、北条佑はすぐに出すだろう。
しかし、なんてことはない。この荷物は配達キャンセルになる。
配送期限を過ぎてしまえば、この荷物は送り状の送り主に戻される。
腐った荷物が届く、その衝撃たるや。
道を右に曲がって大通りに出る。次の配送先は、きっと大丈夫だ。言い聞かせて進んでいた。
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