デートと犬探し
高校生になってから、まだ数えられるほどしか訪れていない休日。
普段は家にいて惰眠を貪っている昼の時間帯に、俺は駅前へ足を運んでいた。
地方ではあるが県内最大の都市なだけあってそれなりに人は多い。腕を組む男女や子連れの夫婦、部活帰りと思われる学生の姿も見られた。
この人々の往来の中、果たして彼女と合流できるのか不安になりかけたがそれは杞憂だった。
少し離れた場所できょろきょろと周囲を見渡している羽角の姿を発見した。大人びた外見に反してその動きは子供っぽくあり、顔が見えなくても彼女を断定できる自信がある。
ちょうど彼女もこちらを捉えたようで、手を振りながら駆け寄ってきた。よろめく姿が少々危なっかしい。
「渡さんお待たせさせてしまったでしょうか?」
「いま来たところだ。いや本当に」
「ふふ」
いつの前にかデートの定型文をなぞってしまっていたことに気づき、語気を強めて強調するも、それ自体が悪手だったことを彼女に笑われたことで思い知らされた。挽回しなければ。
「私服見たのは初めてだけど、その似合ってると思うぞ」
「はい、ありがとうございます。渡さんも大人って感じがしていいと思います」
色々と後悔し始めている。こんなことになるなら光輝に助言を仰いでいればよかったか、いや、このことを話せば面倒な事態になるに違いない。
俺が次にかけるべき言葉を見失っていると、羽角の方から話しかけてきた。
「渡さんにお礼をするためのものだったのに、わたしのわがままを聞いてくださり、ありがとうございます」
「最近公開されたミステリー映画を見に行くんだよな」
欲の少ない俺にとって彼女の要求は願ったり叶ったりだった。あれこれ考える時間が省けた。映画を見るだけで時間が潰れるのはありがたい。
「予定の時間まで余裕はありますが、何が起こるかわからないのでさっそく向かいましょう」
「そうだな」
心の底から同意する。羽角と共に行動をすることが、俺にとっては何かが起きる予兆なのだ。
俺と羽角はかろうじて同行者と分かる距離を維持して、映画館まで徒歩で向かっていった。
券売機の前に立った羽角は振り返って俺に尋ねた。
「渡さんは何か席の希望はあったりしますか」
「どこでもいいが、前すぎると首が痛くなるから避けたいな」
「ではこの二つの席はどうでしょう」
すらりとした白い指が指し示すのは、場内の後方に位置するところだった。当然、席は隣同士である。
「いいんじゃないか、スクリーンの真ん中に近いし」
「ではわたしが支払っておきます」
羽角は慣れた手付きでポンポンと操作して入金まで済ませた。お釣りと同時に排出されたチケットの片方を手渡される。
「これが渡さんの分です」
「ああ。俺の分の料金は後で返すってことでいいか?」
俺が考えなしに提案すると
「いえ、これはわたしが渡さんへのお礼のために買ったものです。なのでお金はいりまん」
きっぱりとした物言いで断られた。
「じゃあ、せめて飲み物ぐらいは俺に買わせてくれ。それじゃないと罪悪感を抱えながら映画を見ることになる」
「そういうことなら……分かりました」
納得いってない顔ではあったが、どうにか了承してくれた。
開場時刻の少し前まで椅子に座って待ってからカウンターに向かう。
「飲み物は何にするんだ?」
羽角は頭上のメニュー表を眺めた。喉で小さく唸ってから、宣言するように言った。
「ストレートティーにします」
俺はそれからストレートティとアイスコーヒーのMサイズ、塩バター味のポップコーンを買って彼女の元に戻ってきた。
「そのポップコーンは?」
「映画館に来たら食べたくなんたんだ。一人ではたぶん飽きると思うから、気にせず食べてくれ」
「これではほとんど割り勘ではないですか!」
頬を丸く膨らませて羽角は言った。
ぼちぼち同じ映画を見ると思われる客が移動を始めていた。俺たちもそれに続き、チケットを切ってもらい、中に入る。通路の突き当りの三番スクリーン、そこが今回の会場だった。
先導する羽角の跡を追い、薄暗い場内に入る。
彼女が足を止めた場所を見て、俺はポップコーンを溢しそうになった。
黒い座席が連なる中で、この一列だけ異様な色をしていた。
中央の肘掛けが可動式になった、真っ赤なペアシート。
羽角さんはその片側に座り、動かない俺を見て不思議そうな顔をしていた。
「どうかされましたか?」
「いや何でわざわざペアシートを買ったんだ? 普通の席で十分だろう」
世間一般的にはカップルや家族が使うものと認識されているはずだ。彼女がそれを知らないはずがない。そして俺たち二人の関係はそれとは程遠いものだ。
「この席ですか? あっ、これもわたしのわがままになってしまいますね。今まで誰かと二人で行く機会に恵まれなくて、ずっと使ってみたいって思っていたんです。料金も変わらないですし……もしかして嫌だったりしますか?」
「いやびっくりしただけだ。よく見たら特別感があっていいな」
彼女の疑問が悲しみに移り変わる前に、それらをまとめて一蹴する。
「はい。今からとても楽しみです!」
その効果があったのか定かでないが、満面の笑みを返してくれた。
慎重に腰を下ろして飲み物を渡す。しかしここで大きな問題が発生した。ペアシートの真ん中の肘掛けはものを置けるつくりになっていないため、ポップコーンを中央に配置するのが構造上難しくなっているのだ。
「こうしてはどうでしょうか」
それを見かねたのだろう、羽角はとあることを実行する。
席の間の肘掛けを上に取っ払ったのだ。
「それで容器をわたしたちの身体で挟むんです」
羽角は俺に体の位置を真ん中に寄せるように指示し、自身も同様にずらした。
少々安定性にかけるが、気をつけていれば容器を倒してしまう心配はないだろう。
「これで問題ありません!」
問題がないわけがない。
このサイズの容器を体で挟み込むということは、それだけお互いの距離が縮まるということでもある。息遣いや体温などが意識しなくても伝わってきてしまう。
それは指摘することは……できなかった。
向こうは気にしていない様子のため、俺が指摘してしまえば、意識していると思われてしまう。これは俺が我慢すればいい問題だ。
しばらくして映画の上映が始まった。だが全く集中することができない。一挙手一投足に細心の注意を払う必要があるため映画どころではないのだ。
エンドロールが終わり、アナウンスと共に証明が徐々に灯っていく。
他の客が動き始めても、俺たちはしばらくそのままでいた。
「わたしはやっぱり、映画を鑑賞するのは一人の方が向いているかもしれません」
それが羽角の最初の感想だった。
「まったく同じ意見だ」
半分以上残っているポップコーンに目を落としながら、俺も彼女の意見に同意する。
それから映画館を出るまで、どちらも、一言も言葉を発さなかった。
映画館を出た俺たちは同じ区画にある本屋に来ていた。
これは誰が提案するでもなく、無意識的に足を運んだ場所がここだったのだ。
「せっかくなので、色々見て回りましょう」
最近はめっきり電子書籍に頼っていた俺は、たまには本を手に取るのも悪くないと考え、彼女に同意し適当にほっつき歩くことにした。
新刊や受賞作が平積みされている箇所を流し見しながら、俺は羽角に聞いた。
「そういえば昨日読みそびれた本があっただろ? その本の場所を教えてくれないか?」
「わたしの本棚にあったものですよね、分かりました」
熟れた足取りで本棚の間を縫うように進み、いくつかの本を提示していく。
「これと、これ。あとこれもそうです!」
提案されたものの中から直感で一つ選び、手に持った。さっそくレジに向かい、購入する。
「え、もう買っちゃったんですか?」
「少なくとも羽角は面白いと思っているんだろ? なら読む価値がある」
面白いか面白くないかは自分が実際に読んでから決めればいい。それが俺の持論だ。
「羽角は何かないのか? 俺にできることならなんでもするぞ」
大きな本屋から本を集めるのはそれなりに重労働だったはずだ。お返しにできることがあるなら、した方がいいだろう。
「では、少し趣が変わってしまうのですが……」
羽角は顔の横の黒髪を耳にかけながら言った。
「私といまから犬カフェに行きませんか?」
「いつか行ってみようと思っていたのですが、なかなか一人で行く勇気がなくて」
羽角は地図をみながら目的地に向かっていた。スマホを確認する度に律儀に足を止めるものだから、時間がかかっている。
タイミングを見て羽角に尋ねた。
「ドックカフェは聞いたことがあるが、犬カフェとはなんだ?」
「その名前の通り、猫カフェの犬バージョンです!」
チンチラやフクロウといった異色のものもあるらしい。
犬と言われればどうしても人懐っこい印象がある。果たして、たくさんの犬がいる空間でカフェとしての体裁が保てるのかどうか疑問に思えた。
「この建物にあるみたいです」
犬の顔の形をした看板が、入り口の前に置いてあった。
おそらくここのことだろう。
歩調を速めた羽角は浮足立って店内に入っていく。
俺もそれに続いた。
「ごめんください」
若者の間ではあまり聞き慣れない言葉で羽角は受付に声をかけた。
すぐに店員らしき人物が奥から出てくる。
「あら、いらっしゃいませ」
羽角の朗らかな笑顔が効果的だったのか、暖かく対応してくれる。
どちらも初めての入店だったので、受付で詳しい説明と注意事項を聞くことになった。
まとめると、この店では入場時間に比例して料金がかかっていくとのこと。また犬の餌を購入することでより犬と触れ合うことができるらしい。ドリンクは一定金額を支払うことで飲み放題になる。
料金は、何時間も滞在するわけではないのなら、カラオケ程度で済みそうだ。
満を持して、犬が待つ部屋へと移動する。
「わぁ~~~」
多種多様な犬が俺たちを出迎えてくれた。
動き回るもの、寝そべっているもの、じっと餌を貰えるのを待っているものなど、個性も豊かであった。
店内には三組ほどの客がいた。ひとまず席を確保したいところだが、羽角の持つササミに目ざとく気づいた個体が駆け寄ってくる。
もう片方の手にあるドリンクに蓋が付けられていなかったら、溢れるのは必至だったろう。
「渡さん! 助けてください!!」
そうは言うものの、表情は非常に楽しそうである。
それから小一時間のあいだ、犬とのふれあいを堪能した。
流れが変わったのは、羽角が店員の一人にある質問をしたときだった。
「すいません。さっきからシラスちゃんの姿が見えないんですが、どうしたのでしょうか」
店内の壁面には、それぞれの名前が写真つきで貼ってある。おそらくそれを見て気が付いたのだろう。
シラスちゃんはその名前が表すように白い毛並みが特徴の犬だ。『とても人懐っこいです』と吹き出しに書かれている。
「本当ですね。どこにいってしまったのかしら」
店員が確認を終えて戻ってくるも、姿が見当たらないようだ。
「店員さん!」
羽角はきらきらとした眼差しで店員に呼びかけた。
「その件、私に任せてもらってもいいでしょうか」
ラストオーダーは過ぎており、俺たちの他に客はいなくなっていたため、ひとまず閉店させることになった。
犬が各自のゲージに入れられ、ずいぶんと広く感じられる店内で、俺と羽角は店員――店の代表とテーブルを挟んで話し合っている。
「では、いままで一度も逃げ出したことはなかったということですね」
「はい。対策は十分にしていたので大丈夫だとばかり……」
俺たちがここに入る時、二重扉を通ってきた。それぞれ手動で鍵を開けた上でドアノブを捻る必要があったため、犬が逆立ちをしたとしても自力で脱走することは叶わないだろう。
「換気の際に窓から逃げ出した可能性はどうですか?」
「常に閉めているのでないと思うわ。換気はいつも換気口から行っているの」
窓枠に空いている換気口は間違っても犬が通れる大きさではない。
「となると可能性は一つです。誰かがこの場から連れ去ったのです」
「そうなのでしょうか」
店員さんはまだ現実を受け止められていない様子だ。まさか自分の客に犯人がいるとは思いたくないのだろう。
「わたしたちがここに入ったときは間違いなくシラスちゃんはいました。ですので犯行が行われたのは、それ以降だと考えられます」
思い返せば、最初に駆け寄ってきた犬の特徴がシラスちゃんに一致していた。
「わたしたちより後に来たお客さんはいなかったので、その時店内にいた三組の内の誰かが犯人でしょう。それぞれの店内と受付での様子を教えてください」
店員は頷き、ゆっくりと話し始めた。
「実はあの三組は常連さんですの」
「え」
「なので疑いたくなったのですが、仕方ないですわね」
ぽつりぽつりと語られる情報を羽角はメモしていった。
一組目は近くの会社で働くOL。
お金が足りないため犬を飼うのが難しい。しばしばここに癒やしを求めて訪れているらしい。
精算の際はトイレに入っていたため、少し遅れてから受付に回った。
二組目は中年の会社員。
家族にアレルギー持ちがいるため動物を飼うことができず、よく仕事帰りに来ている。帰るために席を立ったのを見ていたため、スムーズに支払いが行われた。
三組目は母親と児童の親子。
団地に住んでいるため、規定で飼うことができない。親子ともに動物好きで、特に子供は犬から懐かれているという。母親がお金を払っている間、子供は外にでていた。
「わたしたちが入ったとき、受付の奥から姿を現されましたが、その先はどこに繋がっているのですか」
「実はカフェのスペースと繋がっているのよ。もちろん対策はされているわよ」
親子ほどの年の差がある羽角の質問にも丁寧に答えていく。それからいくつかの質問をして羽角は頭を下げた。
「話していただき、ありがとうございます」
「こちらこそ話を聞いてもらえて気が楽になったわ」
「あとはわたしに任せてください。明日にはシラスちゃんを連れ戻してみせます」
胸を叩いてみせる羽角を微笑んで見守った店員に見送られ、俺たちは犬カフェを後にした。
駅前に戻り、夕食がてらファミレスに入った羽角は、席に座ると同時に口を開いた。
「犯人は分かりました!」
羽角の叫び声が満席に近い店内に響き渡る。
メニュー表で彼女の頭を軽く叩いて黙らせる。
「ひとまず料理を選べ、話はそれからだ」
自らに非があると自覚しているのか素直に従ってくれる。店員を呼んで注文し終えると、羽角はすぐさま続きを始めた。
「犯人は、一組目のOLさんです」
「どうしてそう思ったんだ?」
何事にも理由があるはずだ。まずはそれを聞く。
羽角はメモ帳を取り出して言った。
「これは振り返りやすいように犬カフェの店員さんが話してくれた情報をまとめたものです。よく見てください。OLさんだけ犯行する時間的余裕があったのです」
OLが受付に来た時、店員はトイレに入っていたと証言している。精算の前に犬を外に連れ出す時間があったかもしれない。
「それに、OLさんだけが自宅で飼うことが許されています。他の二組は家族の事情やルールなどによって犬を飼うのが困難と判断できます」
会社員は家族がアレルギー持ち、親子は団地住みで動物を飼うのが許されていない。盗んだところでどうしようもないだろう。
「加えてOLさんが犬を飼うために一番の障害だったのがお金です。盗めば一円もかかりません。以上からOLさんが犯人だとわかります!」
それが単純明快な彼女の結論だった。
「どうでしょう、渡さん」
俺は少しの間考えてから口を開く。
「もう一度よく考えてみないか? 特にお金の部分とか」
「お金ですか?」
「ああ。本当にお金の問題は犬を盗むことで解決できるのか?」
俺はブックマークしていたブラウザの画面を羽角にみせた。
「話を聞いている間、俺は色々と調べてみたんだ」
「犬を飼うのに必要な経費……ですか?」
羽角がサイトの見出しを読み上げる。
そこには犬を飼うことで発生する諸経費が表にまとめられて紹介されていた。
「これを見れば分かると思うが、犬本体の値段なんて一年間の費用から見ればそこまで大きくないんだ。病気をすればもっと跳ね上がる。それに諸経費の一部は次年度以降も継続的に必要になる。犬の寿命が十年以上と考えたら犬本体の費用はあってないようなものだろう」
「犬を飼うことを考えているのなら経費のことを考慮しないはずがありませんね。ということはOLさんではないのでしょうか」
「まあ盗めたとしても自力で飼うのは難しいという話だ」
この店はドリンクバーやサラダバーのセットを注文すると、バイキング形式で好きなものを食べることができる。俺は悩む羽角のその場に置いて、自分の分を持ってくることにした。
野菜を適当に盛った皿に和風ドレッシングをかける。コーンポタージュをコップ型の器に入れ、慎重に席へ戻ると、羽角は未だに思い悩んでいた。
「では誰がどうやって犯行したというのでしょうか」
テーブルに皿を置きながら助言する。
「人と方法を一度分けたらどうだ? 別に犬を盗むこと自体はあの三組とも全てできたと思うんだ」
「全てがですか?」
「そうだ」
俺が思うにこの事件はそこまで複雑ではない。
「受付で怪しい様子が見えなかったからといって、犬を盗んでいない理由にはならないだろ?」
「どういうことですか?」
「例えばだ、誰かが周囲の目を盗んで二重扉の外に犬を移動させたとする。カフェと受付の死角になる位置に犬を待機させ、何食わぬ顔で料金を支払うんだ。その後で犬を抱えて外に出れば、盗みが成功したことになるだろう」
ここで重要なのは客と店側で受付までのルートが別であることだ。客は二重扉の使用を強いられるが、店員はその限りではない。カフェから受付に繋がる特別な通路があるのだ。これは店員が言っていたことだ。
「待ってください。わたしたちの時もでしたが、店員さんは客が外に出るまで見送っていたはずです。渡さんが言うようにはできないと思います」
「外に出た後で、また中に戻れば同じことができるだろう」
「そうしたらまたすぐに店員さんが……ッ!?」
どうやら思い出したようだ。
店員は常に受付で待機しているわけではない。おそらく呼び鈴をならすか、彼女のしたように呼びかけることで呼び寄せるシステムなのだろう。
「……犯行は誰にもできた、ということですね。 で、ですが皆さん動機がありません。それぞれ犬を飼うのに障害を抱えています」
羽角は口早に話していく。そこには僅かに動揺が滲んでいるようであった。
OLが金銭面。会社員が家族。親子が家。といったところだろうか。
「次は人の話だ。動機が薄いのもそうだが、そもそも盗むという発想に至るのがおかしいんだ」
俺は画面ををスワイプして別のサイトを表示させた。
「今日行った犬カフェは、犬カフェの中でも保護犬カフェだったんだ」
「保護犬カフェ?」
スマホを彼女に向けながら説明を加える。
「飼い主をなくした犬が新たな飼い主を探す場所。そこが保護犬カフェだ」
「そうだったのですね。どうりで……」
羽角は悲しげに目を伏せる。
「ここで注目すべき点はこれだ。里親になるのを望めば、実質ゼロ円で犬を買うのと同じ値段で飼い始めることができるんだ」
ワクチン代といった犬を飼育するのに欠かせない料金を払えば、格安で飼い主になれてしまう。気に入った犬がいれば申請すればいい。犬を盗むことで得られるメリットがこれにより消失する。
「つまり犬を盗んだ犯人は考えなしの人間だったということだ」
と、そこまで言い終えたところで、ようやくお目当ての料理がやってきた。
美味しそうな匂いが漂ってくる。
俺と羽角は食事を終えたあとで、駅前でとある約束をしてから分かれた。
翌日の日曜日の早朝、俺は昨日と同様に駅前で羽角と合流した。
街の人々はまだ寝ているためか人数が少なく、すんなりと合うことができた。
「羽角。目星はついているか?」
「任せてください! バッチリです!!」
羽角はそう言うと、ポケットから一枚の紙を取り出した。分かる人にはすぐ分かる、この街の地図だ。白魚のような白く細長い指で地図を体の前に広げた。
「あの犬カフェの付近にある団地に一通り目印をつけてきました。中でも半径一・五キロメートル圏内のものには赤く丸で囲んであります」
軽く確認すると赤い印は二つだけ確認できた。
「で、どっちに行くんだ?」
当然、二手に分かれることはできない。団地は一人で見張るには広すぎる。広く守って取りこぼすぐらいだったら、片方に絞って確実に潰した方がいいだろう。
「こっちです」
羽角は迷いなく答える。
「言葉だけじゃ分からないだろ」
言ったあとで気づいた。両手を目一杯使っている羽角には、指で示す余地がない。一言謝り、反対側から支えた。
ようやく自由になった手で、羽角は宣言する。
「出発です!!」
拳を突き上げた羽角は、ひとりでにズンズンと歩き出す。意趣返しとかではなく、彼女の逸る気持ちがそうさせたのだろう。
地図を畳んだ俺は後ろからついていった。
そう、俺たちが犯人であると睨んだのは団地に住む親子――の片割れである子どもだった。
◇
日曜日ということもあり、まだ市営バスが運行されていなかったため、俺たちは徒歩で目的地に向かうことになった。
筋肉が生み出す熱エネルギーによって、早朝の肌寒さが緩和されていく。
もう十五分も歩けば、着込んだ下着の内側に汗が滲むようになった。
「もうそろそろ着きます」
前方の通りの左側に、同じ形状の建物がいくつか連なった団地が見えてくる。
数十年前は白く小綺麗であっただろう壁面は、今は至るところに蔦が蔓延り、年季の入った様相を呈していた。
敷地の入口にたどり着く。
「わたしたちが入ってもよろしいでのでしょうか?」
「別に悪いことをしにきわけじゃない。堂々としてれば怪しまれないさ。それに探偵は事件現場に無断で乗り込んだりするんだ、これくらい可愛いものだろう」
「それもそうですね!」
軽い冗談だったのだが、羽角は本気で納得のいった顔をして、団地のエリアに足を踏み入れた。
まずは離れたところから様子を覗って、作戦を立てる。
「この団地は五階建ての建物が六棟あるようですね。わたしが一から三番の建物を担当します。残りは渡さんにお願いできますか?」
「分かった」
親子の名字すら判明していない状況で、一軒一軒回って特定しに行くの無謀だ。直接犬を探そうにも時間と人手が足りない。そこで相手が家から出てくる瞬間を狙って見張ろう、というのが今回の作戦である。
「一人で出てくる子供を発見したら、スマホで連絡してください。すぐに駆けつけます」
早朝という時間を選んだのは、親の目を盗んで家を抜け出すには最適な時間帯だと考えられたからだ。親が寝ている内に犬の様子を見てこよう、と子供が考えるのは自然である。
「とりあえず六時半までだ。その時間になったら一度ここに集まろう」
「分かりました。では張り込みを開始します!」
羽角は意気込んだ面持ちで自分の持ち場に向かった。
それを見送った俺は踵を返し、反対側に足を運ばせる。それから自分が担当する三棟に目を向けた。
やはり休日の朝は誰もが寝ていたいようだ。人が出てくる気配が全くない。ほとんどの窓は暗くなっていて、カーテンから光が漏れ出る様子はなかった。
「半々といったところか」
俺はそう呟くと、今度は近い位置に目を向けた。建物の間はコンクリートが敷かれており、地方の生活に欠かせない車を停めるスペースになっている。生垣や観葉樹がそれらを囲むように配置され、緑に覆われているため、犬を匿う場所には困らないと見える。
定位置から全てを監視できないため、行ったり来たりしながら待っていると、唐突にポケットが震えた。
『こどもを見つけました』
どうやらリーチになったようだ。次々に送られる情報を頼りに進むと、車の影から羽角が手招いているのが見えた。忍び足で彼女のもとに向かう。
「こちらです」
囁き声が差す方を見れば、小学校低学年ほどの男の子が、ちょうど外に出てきたところだった。左右に首を振って人がいないことを確認すると、素早い動きで移動を開始する。
「追いましょう」
「ああ」
少年に気づかれると警戒されて家に戻ってしまう恐れがある。小声でやり取りした俺たちは、息を殺しながら少年の後を追っていく。
敷地内にある小さな公園の奥に進んだ少年はそこで足を止め、その場でしゃがんだ。
その隙きに、土管の中に身体をねじ込む。
「おい、狭いから離れてくれ」
高校生となり、心身ともに成長した俺たちは子供のようにはいかない。移動速度を重視したがゆえに、お互いの身体が絡まり、密着してしまっていた。
だというのに羽角は俺の身体を押して前に行こうとする。
「ずるいです! わたしにも見せてください!!」
「せめて声を抑えろッ」
もみくちゃになって半ば思考を放棄しかけていた瞬間、動物の鳴き声が響き渡った。
「ワンっ」
俺と羽角は動きを停止させた。おそるおそる土管の端から頭を出すと、先程の少年が真っ白な毛玉とじゃれ合っているのが見えた。
隣では羽角が神妙な面持ちでその光景を眺めている。
「……シラスちゃん」
羽角がつぶやいたのは俺たちが探している犬の名だった。
土管を出た俺は中に手を差し伸ばす。
「よし、今のうちに近づくぞ」
「……あっ、はい!」
ぼんやりしている羽角の手を取り、外に引っ張り出す。
少年の背後まで歩いた俺たちは、刺激しないように穏やかな口調を心がけて話しかけた。
「ねぇ、シラスちゃんは君が飼っている犬なんですか?」
こういうのは羽角の役割だ。年の離れた相手なら女性の方が話しやすいに違いない。
振り返った少年は驚きに目を見開かせ、しどろもどろになった。だが羽角が追及することはなかった。答えが返ってくるまで微笑みを浮かべ続ける。
ややあって、少年は俯いたまま口を開く。
「……ちがいます」
それは己の罪を認める発言だった。
羽角は少年の頭を撫でる。
「えらいです。正直に言えるのはすごいことです」
小学生とは往々にして悪事を犯す存在である。そして悪いことをしたときに素直に認められる人間は思ったよりも多くない。
その点で言えば、この少年は称賛に値するといえる。
「ですが、犬をお店から持ち出したのは悪いことです。ちゃんとお店に謝りましょうね。だいじょうぶです、わたしも付いていきますから」
それから羽角は満面の笑みを浮かべた。意図したわけではないのだろうが、少年は羽角の笑みに当てられて活力を取り戻したように見えた。
その後、少年の親に話を付けた俺たちはシラスちゃんを連れて犬カフェを訪れた。
少年の母親――何度も頭を下げられた――の申し出を羽角が断り、自らの手で返却するのを望んだからだ。
受付の前シラスちゃんを抱えて立った羽角は、その奥に呼びかける。
「ごめんください!」
昨日と同じく営業スマイルで出迎えてくれた店員は、羽角の胸元に視線を落とすと、その表情を驚愕に染めた。
「まあ!」
驚きのあまり声も出せないようだ。
羽角は得意げに言った。
「依頼の遂行を報告しに参りました!」
シラスちゃんを受け渡した俺たちは、カフェスペースで報酬として貰った飲み物を片手に、店員と話し合っていた。
「――子どもがシラスちゃんを連れて行ってしまったのです」
羽角が今回の件の詳細を語り終えると、店員は安堵のため息をついた。
「あの子が持って帰ってしまったのね。でも盗んだ先があの親子の元で良かったわ」
彼女の発言が気になった俺はそのことについて尋ねる。
「盗まれたのに、良かったとはどういうことですか?」
「あなた方には言っていなかったわね。シラスちゃん実は既に里親が決まっていて、あの親子の家に行く予定だったのよ。新築の一軒家にね」
この言葉で色々なことが見えてきた。あの少年はシラスちゃんが自分の家に来るのを知らなかったのだ。いや、知らされなかったと言うべきか。おそらく親が誕生日プレゼントとして少年にそのことを伝える予定だったのだろう。
故に少年はシラスちゃんに会えなくなるのを恐れ、犯行に及んでしまった。誰にもバレなかったのはただの幸運によるものだろうが。
「では、わたしたちのしたことはありがた迷惑だったのでしょうか?」
それについては考えるまでもない。
「それは違うぞ。羽角のしたことは間違いなく正しい。考えてみろ、このまま事が進んでいたらお店は心配を抱え続けることになるし、あの子どもの誕生日が悪い思い出に変わってしまう。最悪、犬を飼う計画自体が取り止めになった可能性もある」
「それなら良いですけど……」
いったい羽角が何を憂いているのか分からない。
頭を抱えていると、店員さんが助け舟を出してくれた。
「たいじょうぶですよ。たぶんあなたはシラスちゃんの体の傷を心配しているのでしょうけど、あの親子は私が見る限り決してそのようなことをする人間ではありません」
「本当……ですか?」
羽角の目に光が灯る。
俺には見抜けなかったことをこの女性は当たり前のように理解していた。
「ここは何かしらの理由で家に住めなくなった子たちが集まる場所。そして彼らが新しい飼い主を見つける場でもあるのよ。シラスちゃんはあの親子に飼われたいと言っていた、だから私は許可したわ。そこは責任をもって私が管理するから安心しなさい」
その言葉は的確に羽角の憂いを取り除くものだった。
俺は勘違いしていたのかもしれない。
彼女は、羽角夢来は名探偵になりたいという思いが先行して、様々なことに首を突っ込んでいるのかと思っていたが、むしろ逆で自らが抱えるどうしようもない思いを解決する手段として名探偵という存在を求めていたのだろう。
常人なら気づかないか無視してすぐに忘れてしまうようなことを、彼女は延々と悩み続けてしまう。
だから探偵が必要だった。
と、そこまで考えて俺はとんでもないことに気づいてしまう。
今回俺が犬探しをしたのは、犬を心配したわけではなく、お店を助けようとしたわけでもなかった。彼女への協力という建前で推理を行い、それを披露するのを楽しみにしていただけだったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます