第十五話 未友
私――柏木未友が生まれ育った場所のことは、正直に言えば思い出したくもない、世界の掃きだめみたいな場所だ。どれほどの最低を見せつけられても、実際に体験し続けたあの部屋に勝るものはないと確信できる。
私は家族のこと、自分を産んだ両親のことは微塵も尊敬していない。彼らは最低を煮詰めた濾したような存在だ。
生まれたときから最悪は始まった。虐待と育児放棄。ありふれていて、親になれば誰でもできる、この世でもっとも悪辣なこと。私はそれをされてきた。父親は母の前だろうと関係なしに浮気を繰り返し、金を無心し、なければ殴る蹴る。その暴力と罵詈雑言は私にも飛び火した。そんな父親のせいもあるのだろう、母親は常に家を空けていて、小学校に上がるころには戻って来なくなった。
周囲の助けが全くなかったわけじゃない。常に絆創膏や青痣を拵えていた私を見て、学校の先生は心配してくれた。でも、なんというか、私は私で父親や母親の血がきちんと流れていたということだろう。つまり父親譲りの身勝手さと、母親譲りの一人で抱え込む質が、私を周囲から遠ざけた。
いや、言葉が悪い。遠ざけたのは私自身だ。私が彼らを拒んだのだ。
誰にも頼りたくなかった。こればかりは自分でさえどうかしていると思うのだが、自分一人であの空間に立ち向かおうとしたんだ。あの最悪に、なぜか私は私で意固地になった。心配をしてくれる友人にさえ強気な態度を貫き、善意を無下にし続けた。私のことは私がやる、そう信じてやまなかった、愚かな私という存在があった。
だから、次第に私は見放されてゆき、一人ぼっちになった。帰っては殴られ、罵られ、追い出される日々。立ち向かうと称して、一人で戦うために、私はいろんなことから逃げ続けた。なるほど、やっぱり血は譲れない。
けれど、そんな私が意志を通すことができたのは、単に私自身の人格が破綻していたからじゃない。私には意志を通すことができるだけの特別な力があった。
それは決まって私が窮地に陥ったときに現れる。
何せ私は子供だ。どれほど信念を保とうとしても周囲に味方が存在しなければ、簡単に折れてしまう。いや、信念なんて言ってはみたがそんなに上等なものでも高潔なものでもない。何かを抱えていなければ生きていくことすらままならない弱々しいものだ。
だから、力が必要だった。
母親が消えてから、父親の負の感情は私が一身に背負うことになった。言葉も暴力も激化していき、命の危険さえ感じることもあった。ただ、そんな一線を越えそうになる瞬間に、私はどうしようもないと思いながら強く願ったことがある。
――私はここで終わるわけにはいかないから、やめてくれと。
そして、思い直したように父親は振り上げた手を止めた。何も言わずに部屋の隅まで歩き、うずくまってから、思い出したように暴言を再開する。原理は理解していなかったから、神様が助けてくれたのだと思った。あの頃の私は、それでも私の理念が高潔なものであることを信じていたから。
正体に気が付いたのは、それそれでなんてことはないある夏の日の夜中だった。深夜のあの家に、私の居場所はない。父親が何人目かもわからない女性を連れ込んでは、私を追い出していたから。
次第に私も慣れてくるものだから、女性が来る頃に合わせて、何も言わずに家を出た。出るときでさえ、オレを置いていくのか、なんて言われたものだが、無視してとっとと出てしまえば被害は最小限に抑えられる。酒を飲んでいてどうせ明日には忘れているのだから、私が明け方ころにそっと帰ればなにを言われることもなかった。
そのころ、巷では連続放火魔の騒ぎでもちきりだった。私が済んでいる地域という狭い範囲で不審火が相次ぎ、怪我人も出ていた。そのせいもあってか、正直なところ夜は出歩くのが難しくなりつつはあった。人では少なくなっているから、幼い私は目立つし、加えて警察もいつも以上に厳しく深夜でさえ巡回している。行くことのできる場所は限られていた。
近所の人気のない公園。そこしかない。電灯などはなく、灌木は高さがあり、陽が沈めばとてもじゃないが子供だけで遊ぶには暗すぎる場所に私は赴いた。ここのベンチに座り、持ってきたバッグから夕飯代わりのお菓子と、宿題を、月明かりの下でしていた。
けれど、その日は新月が近づき、特に暗くなっていたから、教科書の字もあまり読めず、結局、なにもできないままでうずくまっているしかなかった。その時だった、公園の通りに面した家が燃え始めていることに気が付いたのは。
誰のものかは知らない、けれどもう見慣れてしまったそれが、赤々と周囲を照らしながら燃えていた。そして、その家の玄関口から黒い影が出てくるのが見えた。状況から見て、すぐにそれが最近の連続放火魔の正体だと気が付いた。
私は正義に飢えた心と好奇心の狭間で揺れた。どちらにせよ、正体が気になっていた。だから、ゆっくりと近づいた。隠れるつもりもなかったから、人影も向かってくる私に気が付いた。夜闇とは言え、あまりにも小さな背格好の接近に、怯える必要もないのだろう。人影は臆することもなく、私へと歩み寄った。
燃える家屋の前で、逆光に照らされた人影は、らしいというかフードを被っている。それから、たぶん笑みを浮かべて言った。
「いいね。幸運だ。最近は人を直接燃やしてみるのもいいと思ってたんだ」
容易くその後の想像がついたのに、私は立ち去らなかった。自然と恐怖もなかった。ただ、手に火をつけた男のぼうとした顔が見えて、こう言ってみたくなった。
「あなたは、そのまま突っ立ていた方がいい」
って。
これが私の始まり。
その後、連続放火魔の事件は解決して、それに合わせるように、彼らがやってきた。私の力について調べさせてほしいと。そのための援助もすると。
私はあっさりと折れた。あれほど一人で立ち向かうと意気込んでたくせに、なぜか彼らの提案にすんなりと乗った。わからない。自分でも不思議だと思う。でも、ちょっと頭をひねれば、それらしい理由は思いつく。つまり、私に必要なのは、一人立ち向かう勇気ではなく、場所だということ。やるべきことは変わっていない。部屋を出ても、部屋に戻れる。そして、あの掃きだめと最後まで向き合えると思ったんだ。
そして、ひとつ、増えたというか、気が付いたこともある。どうやら、私は鉄でできた正義感というものが好きらしい。だから、彼女に初めて出会ったときは、正直、彼女のことをあんなにも好きになるとは思っていなかった。
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