第十四話 内証

 窓ガラスに穴が開いた。指が一本通るかどうかの小さな穴だった。


 状況を飲み込むには随分と時間がかかった。ただ、右腕からじんわりと、痛みを伴った熱が駆け上がって来るのを実感する。


 見れば、そこにも穴が開いていた。ガラスに開いたものと同じ、小さな穴だ。その周囲の布に温かいものが広がっていく。その正体が自身の血液と理解したのは、痛みとほんの少しの寒気がしたからだ。


 咄嗟にそこを抑えながら、床にへたり込んだ。と思えば、もう一つ穴が開き、背後で乾いた音がする。


 撃たれたと気づいたのはその時だった。ようやく、私は理解した。そして、逃げおおせているなんて夢を見ていたことを恥じる。わかってたことじゃないか。今までだってそうだったと、散々見せつけられておいて、私は何で向こうが待ってくれているなんて都合のいい妄想をしていたんだ。


 背後で玄関扉が開く。大きな物音は明らかに未友のものじゃない。


 まずい。やっぱり、協力なんて、してもらうべきじゃなかった。


「大人しくしろ! 警察だ!」


 扉に備え付けられた曇りガラスの向こうで、黒い影がいくつもうごめいている。


 ああ、そうだ。時間の猶予さえ、私にはない。動き出したら最後、私が待ってと願っても向こうは勝手にやって来る。ヤツらはそういうモノだ。なら――


 視ればいい。視たくないものにはベールをかけて、視たいものだけを視ればいい。例えば、そう、今そこに迫っているヤツらのどうしようもない苦しみ顔を。そう、願ってみようと思ったはずなのに。


 扉は思いの外丁寧に、ゆっくりと開けられた。一番前に立っていたのは、出ていった時の姿と変わらない未友だった。


「もう、終わりにしましょう、七星燐」


 携帯を右手にぶら下げ、久世咲良あのおんなのように、貌のない顔で私を侮蔑するように見ている。


 後ろには重武装で黒ずくめの人間たち。衣服には「POLICE」という白い印字が見えている。


「な、に……?」


「あなたは最初から追い詰められていたの。随分時間がかかったけど、これが正しい選択だわ」


 ぶら下げられた携帯から、雑音がする。よく聞けば人の声のような気もする。


 未友はそれを放り投げ、私の前へとゆっくり歩き出した。


「あなたを抑え込めるのは私しかいない」


 しゃがみ込み、目線が合う。彼女の両手が私の頬に触れた。冷たく滑らかな指先はほほを赤子のように撫でている。


 彼女の顔が近づいてくる。そして、その額が、私の額へと接触する。


 瞬間、風景は切り替わった。


 刹那の瞬きののち、そこは未友の部屋ではない、広い、見覚えのある場所に変わった。


「……私の、家?」


 リビングだった。家族で団らんを過ごした場所。母親と衣服のことで話をした場所。父親と映画のことで話をした場所。そして、何度も怒られ、しまいには別れの発着点となった場所だ。


「そう。話には聞いていたけど、やっぱりあなたはここに囚われているのね」


 どこからともなく現れたのは未友だった。いまだ床にしりもちをついたままの私を見やり、それから部屋を一瞥した。


「座りましょう。その方が話もしやすいでしょう?」


 未友が手を差し伸べる。私は自然とそれを握り立ち上がった。でも、握った手は見知った未友のものとは何か違う気がした。


 私はいつものように、テレビの正面。二人掛けの広い場所に座った。意識はしていなかったけど、当たり前にしてきた行動を体が覚えていた。未友は少し迷ってから、わずかに距離を置いて私の隣に座った。


「ここが、あなたにとっての思い出の場所なのね」


 座ってそうそうそんなことを言った。


「なんだかよそよそしいね、未友」


「そうね。でもこれが普通。これがいつもの私です」


 未友の顔を見る。いつもは顔を向ければ目を合わせてくれるのに、今は正面を睨んでいた。


「それで、えっと、なに?」


 私は顔を逸らし、目を伏せて聞いた。聞かなくちゃいけない気がして、でも答えは聞きたくはなかった。けれど、もはやそういうわけにはいかないこともわかってる。


「なにとはなに? ……そうね、でも、敢えてそう聞いたのだから、適切な答えを返しましょう。私はあなたの知る柏木未友ではない」


「その喋り方、なんか、いやだな」


「そうですか?」


「うん、はい……。なんていうか、いやなことを、思い出すので……」


「そうですか。では、せめて、燐、とだけ、あなたのことを呼びましょうか」


 私は黙る。声にすら重なり、あの顔がちらつく。


「では、燐。私がどんな人物か、ここまで話せば見当はついていますね?」


「……はい。ヤツらの仲間、なんですよね」


「そうです。私は現在、対特殊異能班に研修という名目で配属されています」


「研修、ですか?」


「はい。まだ学生なので」


「それは本当だったんですね」


「いいえ。高校生では流石にありませんよ。大学の二年生です」


 ああ、と頷きながら横顔を盗み見た。やっぱり、大人びた輪郭や目鼻立ちは、年相応を表していたのだ。となれば聡明さも、立ち振舞の落ち着きようも納得できる。


「それで、えっと、私を捕まえに来たんですか?」


「そういうことです」


「初めて話しかけてくれたあの日から、そのつもりだったんですか?」


「そうですよ」


 彼女の告白がなされた時点で、当たり前の事実だが、どれか一つは否定してくれるんじゃないかと思って聞いてみる。そしてたぶん、そのたびに落胆するのだろう。


 私がこんなことを考えているのは、結局、未友のことを諦めきれないからだ。私はまだ、親友である未友が幻想ではないことを信じたい。でも、そんな思いはやすやすと無視されて、事実は痛いほど深く突きつけられる。


「……幻滅しましたか? ですが、これから話すことはすべて事実です。せめて――――いえ、いいでしょう。やめておきます。やはり、話す権利はありませんね」


 となりの座面の沈み込みが消えた。腿に伝わる感触で未友が立ち上がったことを知る。


 視界の端で影が動き、足先が映りこむ。それは私の前で、つま先をこちらに向けて停止した。


 目の前に立っている。私には彼女を見上げることができなかった。


「燐には二つの選択肢があります。このまま私に身を委ね、大人しく投降し、私たちとともに来ること。そうすれば命の保証はなされます。もう一つは抵抗をすること。もし、こちらを選択するのなら一切の猶予はなくなります」


 彼女の言葉の最後の一音が聞こえると、あたりは静かになった。当たり前だが、これは彼女が見せている幻想の類。どれほど現実に寄せようと、結局は作り物で、あるはずのものは見えてこない。


 いや、心象風景と言ったか。なら、見えないのではなく、私が視たくないのか。どちらでもいい。ただ、目の前に立つ彼女を、失いかけている、本当は最初から失うことすらできない彼女を、私はせめて手放したくないと、まだていたいと、思っていた。


「未友は、どっちを選んでほしい」


 顔はそれでも上げられなかった。上げるのは最後だけにしようと思った。


「……それは、燐、あなたが選ぶことです」


「ごめん。でもやっぱり無理だよ。私は未友とまだ一緒にいたいけど、未友はそうじゃないんでしょ?」


 ――答えが、返ってくることはなかった。

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