第十話 否定

「やめなさい! 燐! それ以上はあなたも危険です!」


 久世は懸命に叫んだ。目の前の異質すぎる少女をどうしても救い出したかったから。


 久世の人生の前半は、非常に七星燐と似ていた。


 久世咲良もまた特別な力を持っていた。その詳細自体は単純。


『否定』


 しかし、これだけしかないからこそ、あまりにも強力だった。彼女が否定したいと願ったもの、否定したいと考えたものは、すべてその通りに否定されるのだ。


 その力は確かにすべてを叶える己を視ることができる燐に似ている。


 否定は本質的に肯定の要素を含んでいる。否定という現象は肯定という要素なしでは存在できないからだ。故に彼女の能力はすべてを肯定すると言い換えることもできる。しかし、やはり肯定に置き換えることは不可能なのだ。


 彼女にとって不幸だったのは、結局それ――つまり本質的な部分では能力が否定だったということにある。


 肯定でないことの不幸さは、容易に想像がつくだろう。なにせ、目にしたことでも、体験した現実でも、否定しなければ始まらないがゆえに、能力の発現の原因は本人にとって肯定できない事象でなくてはならないからだ。


 最初の否定はよくある些細な子供らしいことからだった。赤子が皆一様に自分の不快を訴えるように、彼女も自身の不快を否定交じりの――本人が否定を意識したか如何に関わらず、否定の要素を含むことによって――感情によって発露させた。


 最初の悲劇である。


 以来、彼女の否定は幾度となく無意識下で行われる。その否定による事象の結末は見えているだろう。ある意味で幼さと彼女が生まれ持った性格が幸いしたと言ってもいい。被害は考えうる限り最小のものとなって済んでいる。


 また、彼女自身がその気質故に非常に優秀で善性を大いに孕んでいたことも幸いした。彼女は悲劇に自らをも陥れることはせず、悲嘆の中で己と向き合い続け、自身の能力と向き合って生きていく術を身に着けていた。


 同時に、彼女の持つ能力が強力であることも明白だったため、対特殊異能班は彼女を切り札としても扱っている。彼女が七星燐の担当になったのは必然だった。


 しかし――


 七星燐に対峙する久世は考えていた。いや、考えてしまった。彼女も結局は我々と同じであるということを。


 久世は思う、七星燐がこんなにも不安定で、こうまで利己的かつ他責思考なのもある意味では当然なのだと。記録を読み、彼女という存在を紐解いていくうちに自身と重ねていた。彼女もまた恵まれすぎたが故の被害者なのだと。


 しかし、理解もしている。彼女がこのままでいることの危険性も。彼女はともすれば私以上に危険であり、何もかもを敵にしても余りあると。だから、できれば友好的で健全な関係を築きたかった。しかし、猶予はとうにない。できる限り伸ばしたが、まるで足りず、至らなかった。


 だが、どこかで考えていた。本当に他に方法はないのかと。それが綻びだった。


 


 七星燐は攻めあぐねていた。久世の能力を知っているとは言うものの、本質的な理解には遠い。彼女は自分の殻に閉じこもってしまったがゆえに、思考が凝り固まっていた。


 土掛が久世の支援をしようと動き出したのが見えた。反射的に燐はそれを視、そしてはじく。何でもいいから手近な眼を発現させ、土掛はなすすべもなく物理的に倒れる。


 自身の背後で起こった出来事に久世は揺らいでいた。これが正しい方法なのかと。本当に七星燐を縛ることでしか、対処ができないのかと。


 そして綻びは仇となって七星燐を救う。


 燐は余計な横やりがもはや入りそうにないことを悟った。ならば危険な賭けだが、五つ目をを使ってもいいかもしれないと考えた。体に負担になることは知っている。出力が落ち、もはや五つ同時では大した力も出せないことを。同時になぜか確信するこの五つ目こそが必要な最後のピースだと。


 眼を検索し、析出し、重ねる。さらに、次の眼を探す。この考えの実行には手順がいる。即席でもできる限りの準備はしたかった。


 まずは彼女の内面を視る。きっかけはどれほど小さくてもいい。罅を広げる手段は知っている。でも、思いのほか大きな穴を見つけてしまった。


 久世が燐に対して抱く同情と諦観。燐を救いたいと思いながらも、自分の立場と自分の力が至らないことに対する無力感を悟り始めていた。もっとうまくいくはずだったと、本当はこんなことになるはずではなく、走る子供に足を差し出して転ばせるような簡単なものだったはずだったと。でも、できないから――そこを視られた。


 付け入った隙から燐は彼女を解析し、さらに彼女と全く同じ手法がとれることを思いつく。つまりまた、燐はその眼によって彼女の否定を視ることができる。


 けれど、眼を切り替えようとしたときに頭痛がした。どうにか踏ん張って立っていた足が震え、力が入らなくなり、膝をつく。


「燐! お願いだから、それ以上は!」


 久世の叫ぶ声。目の前で血の涙を流し、汗にまみれた顔で、歯を食いしばってどうにか立ち上がろうとする少女を見る。何が彼女をここまで突き動かしているのかと疑問になる。間違えているのは私ではないかと考えそうになる。彼女をこんなふうにしてしまってまで、私がここに立っている意味はあるのかと。


 久世はその時、背後で悪寒を感じた。と、思えば、背後に虚空が広がったような気がした。自分の背の向こう側にはなにもないと、体一枚を隔てた先にはもはや意味がないことを示し続ける不明な何かが広がっている錯覚を覚える。


 虚空は病魔のように久世を侵食する。そして、自身の内部に侵食しようとするそれの正体に気づく。


 これは己だ。私は自分の鏡を見せられている。それも見たくもない鏡を。


 ある意味で、これは私が否定し続けてきた自分自身。私が自分を肯定するために否定した、捨てられるはずのない自分自身。己の否定は、たった一部でも達成されれば、私自身を喪失することになる。だから、否定したつもりで、否定を細やかに裁断し、否定し直すことで、落ち行く否定の循環の中に押し込め、自分を存在させてきた。無意識下の自分の否定の作業の深淵だ。私は今、それを彼女によって見せられている。


「お前、最悪だよ」


 そんな声が聞こえた気がした。燐の声で。


 眼前の彼女を見やる。そんな余裕がありそうにはとても思えないのに、彼女は苦しみの最中で私をそうやって否定したがっているように見えた。


 だから、罅は、亀裂となり、穴となり、陥穽となり、私が落ち行く虚空を永遠に広げ続ける。私は墜落を錯覚した。


 リビングに張りつめていた分厚いようで繊細な壁は一瞬にして消え去った。久世咲良が両膝を屈したかと思えば、床に正面から転がった。


 土掛はどうにか無理矢理取り戻しかけた意識の先で、なにもできないまま倒れる彼女を見た。その先では七星燐が、足を引きずるように一歩、また一歩と進み、彼女の両親の前に立つ姿を捉える。


 何かを話しているらしいが、はっきりとしない脳みそでは言葉の理解ができなかった。ただ、二、三言交わしたかと思えば、燐は数歩後ずさりし、泣きだした。彼の意識はそこで途切れてしまった。

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