プロモーション(上)

 此処は何処だろう?


 深い闇、重い病み、それらで溺れそうになる。

 何をしていたのか、思い出せない。

 足掻いて藻掻いて、そこから浮上することだけは、そうしなければならないことだけは、分かっている。

 その為には、幾筋も射す道程の、どれか一つから抜けなければ。

 けれどその為には、捨てるのだ。

 自分が何で、何をしたくて、何をしなければならなくて、

 そして、ここが何だったのか。

 そういう荷重を、いらない順に並べて、下から断ちはなして身軽にするんだ。

 そうすれば、この大きな、ブクブク膨れ上がったぼく自身でも、越境し息をつぐことができる。


 でも、それって、良いこと、なのかな?

 一度、怒られたのに、もう一回やって、いいのかな?

 なんで、だめだって、いわれたんだっけ?

 

 ここは、どこだろう?

 なにを、していたんだろう?

 ぼくは、なんだったろう?

 

 だんだんどんどん、わからなくなる。



——あーあ、彼、全然分かっていないよね。



 だあれ?


——死体相手でも、死兵相手でも、

——彼が焦がれる少年なら、悲しむだろうに。

——壊す度に、涙を流すだろうに。


 あなたはだあれ?


——彼は、あの少年にはなれない。

——誰だって、他人にはなれない。

——そんな事も、もう分からないのかな?


 なにを、ゆってるの?


——ああ、ごめんね。

——気にしなくていいんだよ。

——君はただ、思った通りに行けばいい。

——思った場所で、生まれればいい。


 うまれる?


——そうだよ。

——誰も君を邪魔しない。

——そして、

——彼女は君を、祝福してくれる。


 いいの?

 ぼくは、

 うまれて、いいの?


——そうだよ。

——ごらん?

——あそこに、他より大きな出口があるよ。

——他より暗い出口があるよ。

 

 ほんとうだ。

 それは、したにあったから、きづかなかった。

 ピカピカしてなかったから、みえなかった。


——潜ろうよ。

——あそこならきっと、今の君でも出られるんじゃないかな?


 そうだね。

 きっと、あそこなら。


——僕も一緒だ、怖くない。

——おめでとう。ハッピーバースデイだね。


 ありがとう。

 ぼくは、じぶんをもらえるんだ。


 ぼくは、

 ぼく?


 



 私は——




——————————————————————————————————————




「ハァーッ…!ハァーッ…!」


 皇直哉はガギンと、突き刺すように大盾を置き、しばらくぶりに大きく息を吐いた。

「スゥー……ハァー……」

 調息。

 肺も気も鎮め、五感を収め、思惟を緩慢かつ広く伸ばす。

 少しばかり、身体に無茶をさせ過ぎた。だが、その痛みと傷も、手段でしかない。


「うまいこと、互角だったか…?切迫していたか……?」

 

 ある時点までは、あれの好きなようにやらせていたので、追い込まれることも出来ていた、ように思える。

 けれども、いつものように、新たな視点は得られない。

 同じ結論の再生産。世界はこんなにも、つまらない。


 あの少年のようにはいかない。

 あの少年のようになれない。

 何が無いのか。

 何が異なるのか。

 何が余計なのか。

 直哉には、分からない。


 世界中の神秘を狩り尽くし、それでも至れなかったとして、

 

 その時に彼は、どうすればいいのだろう?


「チッ…」

 直哉は焦れながらも、今の優先事項を見失ってはいない。

 もう制限する必要も無くなった煙草に火を点け、己が怜悧さを手繰り寄せようとする。

 この後レギオンの残り滓を、捕獲しなければいけないのだ。

 あれは一度死に、しかし変質して残存している。

 情報を構成する大部分、“肉体”を失って、代わりの何かで、穴を埋めようとする筈だ。

 どこか、最も入りやすい受信機へ、飛来したに違いない。

 それがまた拡散するより早く捕え、電波が遮断された部屋で、隔離してしまえば済む話だ。

 幸いここには、奴が逃げ込みやすい出口が、山ほどある。

 どれに向かうか、まずはそれを見極めて——


「ナオヤ様。お身体に障ります」


 それを持つ彼の右手が、止まった。


「二つとない玉体です。お控えになった方がよろしいかと」

 

 あの少年が、姿を変えたのか。

 とうとうそんな、凝った嫌がらせまでやり始めたか。それが正しいなら、気が滅入る話だ。

 

「ご覧下さい、ナオヤ様」


 だがもし、もしも、

 それが響くのが、彼の内からでなく、


「これで全ては、あなたの麾下きかです」


 まやかしなく、

 その背中越しに聞こえているのなら。


「ナオヤ様」


——これから先、あなたは人の想いを知って——


——黙れ

——そんなものは、無い

——いい加減に、目を覚ませ

 直哉は、ゆっくりと、

 自分でも理解が及ばぬ程に、恐る恐る、

——折角の祝福が、呪いに変わらなければいいけど

 彼は後悔しない。

 これまでそうだったように。

 これからそうなるのだ。


 あの時を除いて。


「あぁ………。わたしは、あなたのものです………」


 そんなもの、

 無いのに、

 なんで、

 みんな、

 それがあるみたいに、

 言うんだろう?

 

 ほら見て。

 彼女はそこに居るし、

 何も持っていない。

 みんなが言うようなものは、

 何もないじゃないか。


 直哉は見た。

 少女が、

 アクテが、

 目蓋を下ろしながら、精一杯に色づいた細身を搔き抱く。

 両の手に巡っていた力みが徐々に抜け、落ち着き、空気の流れすら、緩やかになって、


 彼女が、目を開け、顔を上げた。


 時間が、とうとう動かなくなった。



 その目と彼の目が、

 二つの目線が、合——


 

 そこには、深淵があった。

 宇宙よりも海底よりも、

 近くて不知覚。

 深くて奈落。

 誰もが知っていて、誰にも分からない。

 混ぜ潰された、黒。

 光も重力も、三千世界をあまねく吸い込む、純粋無垢な本物の黒色。


 彼の一瞥もまた、飲みこまれた。

 吸い込まれ、何度も上塗りされる内の、一筆へと成り下がった。


「………?」


 皇直哉は、解らなかった。

 少女が、どうなってしまったのか。

 何故って、もし見たままの事が起こっているなら、

 それはそのまま、

 言うなれば、

 彼が長年追い求めてきた場所に、

 次元に、

 位格に、

「至った」のは、

 彼でなく——


「馬鹿な」

 笑う。

「ありえん」

 嗤う。

「そんなことが」

 そんなものが

「起こる筈が」

 あるはずが


「ナオヤ様」


 少女はただ、忠実に報告するだけだ。


「レギオンを、掌握しました」


 「掌握」。言い換えれば、生け捕り。

 直哉はそれを狙い、実行するつもりだった。

 先を越された?彼の策より手際良く?

 そこじゃない。

 問題なのは、少女が彼の虚を突いた点でなく、


 彼女が、自らを捧げた事だ。



「“女王”を失い迷える豚は、必ず私を次のホストに、メインサーバーに選ぶと、その自信がありました」

 

 「だって私は、ナオヤ様の駒なんですから」、それは論証になっていないが、少女から生まれ出る理由ならある。


 受信体にとって重要なのは、面積である。

 例えば一昔前の携帯電話が、アンテナを伸ばせるようになっていたのは、高さを確保しているのでなく、広さを拡張する為である。

 ここで言う「広さ」とは、大きさとは、レギオンに一目でよすがと見なされる、それだけの懐の「広さ」。

 レギオンに実体が無いのなら、彼らに触れる為に必要なのは、敏感さだ。

 触れた「情報」を、取り溢さずに受け取る能力。それが高い程、彼らに気付かれやすくなる。出会いやすくなる。

 

 アクテの感覚野は今、空前の鋭敏さへと、研ぎ澄まされている。

 磨き抜かれている。


 一度に取得する量が、他を圧倒しているのだ。

 だから自然と、レギオンをも掌得しょうとくした。


 しかし、

「ペテン、だ」

 理に照らせばかなわない

「お前では…、他に勝てない…」

 単純に、世界と触れ合う表面積を考慮するなら、彼女はむしろ不利だろう。劣勢の敗戦。劣るとも勝らない。どのようにして、関門を越えたか。

 答えは、

「今のあなたですよ?ナオヤ様」

 そこにある通りだ。

「こんな簡単なことに、英明なナオヤ様が気付かれていない。それが、答えです」

 一寸先が見えないのは、抜けているから?暗いから?

 それとも、


 見ようとしていないから。


「目を瞑ってしまわれたのですね。私如きお見苦しい物を、あなた様の欠けなき望景ぼうけいに入れないように、その炯々けいけいたる両の御眼おめを」


 そう、意識もしくは無意識が、見なかったことにしてしまったから。


「皆さん、いつもやっていることでしょう?」

 受容器官が手に入れた情報を、全て意識上に浮かべていたら、人の正気という湖は、瞬く間に埋め立てられる。故に人間の脳は、取捨選択をする。多くの些末事を無意識へ沈め、必要なものだけを水面から掬い上げる。これは人間を縛る限界ではない。此岸の質量に捻り潰されないようにする、生存の為の機能である。この生態こそが寧ろ、彼らの一歩を後押してくれるのだ。


 それは、人間に限らない。必要は拾い、不要は捨てる。生命はそうやって、狭き門に体を割り入れ、生き延びてきた。


 ところがけれども、彼女は違う。

 全部だ。全部を覚えている。

 恐れを知らないかのように、指先に触れた煤塵すすちりさえも、大事に大切に併せ吞む。五感の安全装置が外れ、逆に自ら吸収する勢いで、


 外界を、体感する。


 小さな身体でも、その全身が感覚器官ならば、処理機関と化していれば、


 並のヒト科の脳レベルでは、サイズも質も太刀打ちできない。

 

 少女はそのようにして、誰よりも本物に近い世界を得ている。


「お前は、こわくないのか?」

「こわい?何がですか?」

「ここに、確かにあるものが」


 皇直哉という、悪逆非道クスィーズが。


「ナオヤ様が?こわい?私が?」


 「なんと、それは面白いです」、小さな口をその手で隠し、慎ましやかにクスリと笑う。

「何が、可笑しい………!」

「だって、ナオヤ様、ヘンなこと、仰るんですもの」

「……あ………?」

 少女の顔の穴二つ、真っ暗な真空を向けられて、直哉は舌先も動かせなくなる。


「私はナオヤ様のこと、少しもこわくなんてありませんよ?」


 こんなにも愛しい。

 こんなにも愛おしい。


「今でも私が怯え続けてるって、そうお思いだったんですか?」

 「それとも、思いたかったのですか?」、彼女の目尻も口角も、ニマリと波打ち揺れ曲がる。

「な、に、……?」

「ナオヤ様も、男のプライド、お持ちなのですか?」

 「女の子には、こわがられていたいのですか?」、貌の下半分は両手で隠され、それでも覆い切れない愉悦が、少女のおもてを歪み伸ばす。

「私がこわくて、私への心情が変わるのがこわくて——」


——私から逃げ出した、か弱いあなたが?


 王は、奴隷を、支配、しなくては——


「本当に、カワイイです」


 愛慕と憐憫でもって、少女は直哉に、屈辱的な抱擁を与えた。


「こわがりなナオヤ様」


 肌と肌は触れ合わなかったが、直哉は包み込まれたのを感じた。

 

 丸吞みにされた、そういう感触だけがあった。


 今の距離では、互いに手を真っ直ぐ張っても、届かない。それくらいの遠く。

 なのに、「抱かれた」と、思った。


 生きたまま蜘蛛に啜られるような、痺れるような惨たらしさがあった。


 思い知らせ、なくては。

 彼女は今、直哉を下に見るような、不敬を働いた。

 痛みで教育するか、さもなければ極刑が適正。

 やれ。近寄り、捕らえ、吊るしてしまえ。


 その判決が下りながら、しかし彼は執行しない。

 届けば殺せる。その首に手をかけ、絞めるか斬るか。簡単だ。力の差は歴然。

 だが体が言う事を聞かない。

 彼が動かないのを良い事に、彼女がきに囁く悔しさ。からさまに小馬鹿にして、それでも大丈夫だと見縊られるいかり。


 それよりも、

 そうだ、直哉は、

 恐れおののき、竦んでいた。


 半生で、二度目。

 腰が、抜けていた。

 

「……ない………」


 量子に至るまでもが少女に吸引され、渦のように現実が巻き立つ。


「お前は、いない……」


 こわがらない人間なんて。

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