熱烈歓迎
ゴぉン、
ゴンゴぉン。
外壁を叩く。
珊瑚礁でも擦ったか?
だとしてもおかしな響きである。
一点に執拗に重ねながらも、まるでノックのように控え目。
移動中の潜水艇の、同じ場所に何度も接触。
そんなことがあるだろうか?
ゴぉン、
ゴンゴぉン。
ああ、分かった。
音だけがあって、それ以外が感じない。
とすると打たれているのは、彼の頭蓋であるのだろう。
「なんだ、何の用だ」
『おおい、ちょっと、何してるんだい?』
姿は無くとも、気配と声は色濃い。
すぐ外に、居る。
居ないヤツにとって、水圧も無酸素状態も苦にならない。
「何をしているか、聞いているのはこっちだ」
『君が一番大切なものを忘れて、置いて来てるのが問題なんだよ?』
「ふぅん?つまり何の事だ」
『とぼけちゃって。あの女の子のことさ。君は一緒に、連れて来るべきだったよ』
面白い事を言う。
これまで聞いた中では、最も間の抜けた指摘と言える。
「俺にあれが必要?冗談だろう?確かに神経を宥めるのに使いはしたが、それ以上は無い。特別性なぞない高級枕だ。維持費と管理が煩わしいから捨てた、それだけだ」
『特別だよ。少なくとも君にとっては。我知らず守ろうとして、大事に保管しようとして、危険から遠ざけちゃうくらいには』
その声は心配しているようで、挑発しているだけにも聞こえた。
「どこがだ?あれにこれ以上何ができるって?」
『君の荷物を、共に背負う事が出来る』
彼がこれまで簒奪した全てを。
『足に縋る亡霊は残して、支えとなる杖を放るなんて、正気の沙汰とは思えないな』
潰される。沈められる。そうならない為に、隣に伴うべきだと。
「調子に乗らせれば、あれもいずれ俺の敵になる。俺の与えるものに飽いて、上乗せして奪おうとする。欲が尽きないからこそ、人間は人間だと言える」
『折角の祝福が、呪いに変わらなければいいけど』
「あれが呪ったところで何も起きん」
それの言うことを信じてはいけない。
こいつにとって、彼は敵だ。ずっと彼の、
だから、素直にアドバイスをくれるわけがない。
こいつは、彼の不幸をこそ望む。そうに違いないのだ。
だから、
だったら——
「そのつまらない意地で、後悔しないようにね?」
振り返ったつもりだったが、ただ顔を起こしただけだったらしい。
窓の外はとっぷり暮れており、けれども街は眠っていない。
方々でサイレンやクラクションの
「坊ちゃん?そろそろ着きますよ?」
警部の言葉も心なしか震えていた。
この事態の渦中に向かうのだから、逃げ腰になるのもむべなるかな。
それに彼はこれから、政府が大急ぎで拵えた囲いを超えて、内部に狂王を放つのだ。
その行いは常軌を逸しており、自分が何をしているのかも見えなくする。
それが正しいのか否か、その判断を留保して、ただ言われた事をやる仕事モード。
そんな自動人形こそが、今の彼である。
「正気の沙汰とは思えませんがねえ……」
「お前に正気を担保させる程、俺はナイーブじゃあない」
「へっへっへ、それはまあ、そうでしょうとも」
検問らしきものが見えて来た。
どうやらそこが、人がギリギリ確保できた、踏み込ませない線引き(ライン)らしい。
尤も、奴らがその気になれば、ひょいと跳び超えていけるだろうが。
千家が到着していないらしい事が、その認識を裏打ちしている。
その見えざる手は、こんな小さな庭に収まらなくなって久しい。
「じゃ、坊ちゃん。幸運を」
「……どいつもこいつも」
「運」など不要。
勝敗はついたのだ。
彼のぼやきを理解せず、またそうしようともせずに車を降り、警部は自衛隊員らしき男達に、思い詰めたような顔で話しかける。
不審に思いつつも、相手が警察官だと分かると、ほんの少しだけ警戒が緩んだ。彼が目をかけていた部下が、住民の避難を助けようと逃げ遅れ、まだ中にいるのだと言う。気の毒な話であった。
だが決まりは決まり。
その中へ入る事を許せば、それがパンデミックを拡大しかねない。
現時点で、既に未確認生物兵器の被害は甚大だ。国民の生命をこれ以上、危険に晒すなどあってはならない。厳しい決断だが、少数を犠牲にせねばならぬのが、民主主義国家だ。
暫くの押し問答があったが、回答は当初から一歩も動かなかった。
警部も彼らの職務への理解を示し、最終的には折れてくれた。
何事もなく、円満な話し合い。
去っていく警部の車を眺めながら、隊員は「おや」と首を傾げる。
さっきまで、助手席に誰か乗っていたように見えたが。
すとん。
その重量を担ぎながら、音を立てずに着地。影の中を泳ぎ、静かにバリケードを登攀、会話に集中したウスノロ共は、抵抗なく彼を通してしまった。
千家を始めとする“プロフェッショナル”達から得たものは、正面衝突力だけではない。こういった息の潜め方、人目の盗み方もまた、鍛え上げている。
動きやすさは、何事にも優先される。
足止めや拘束というものは、時間の無駄でしかないからだ。
国家に捕縛されたとて、そこから抜ける術は有る。互いの資産が、無為に費やされて終わりだ。結果が同じなら、要らぬ過程を、わざわざ挟むこともあるまい。
暗い
市街地には灯り一つ無く、閑古鳥すら鳴くのを控える。
光が無いから影も無い。ここは、生まれる前の泥濘。
そこに沸き立つ泡の弾け方で、世界の“次”が整形されていく。あれが言っていたのは、そういうことだ。
彼は受け入れない。相容れない。
たかが泡ぼこ、まぐれ程度で、
道を決めるなど有り得ない。未知を啓くなど許し得ない。
だから、彼は教授しに来た。親切にも知らしめに来た。
彼の敵となったなら、絶対確実100%、
その心身は滅びるのだと。
——………………
十字路。
じわりと上がる明度に、
近いとも遠いとも言えない、中途半端な距離にある街灯の一つ。ひたひたと明滅し、輝きが増していく。最終的には従来よりも、寧ろ強いくらいの光量を放つ。
その逆光の中を、影法師が一つ、これまた無音で歩く。
行進でもなく急ぐでもなく、スタスタと平常平熱で近付いてくる。
友と言葉を交わしに来るような、ともすればそのまますれ違うような、余所者が見えていないかのような動き。
しかし直哉は、闘争の匂いを纏い始める。
ライトを背にする者が、1人から3人になった。横から合流。支流が本流と交わるように。
更に8人になる。黒く照らされる彼らは、同じ歩調・同じ歩幅だ。
変わらない。加速も減速もなく、最初からその人数だったかのような素知らぬ顔で、13人ともが彼の立つ方角へ進む。
右側で、街灯が点滅。左も同じく。それぞれに10以上。注意は前方に向けながら、背後を目で確認。予想した通り、
その顔形すら判然としない人垣を前に、直哉はトントンと軽くその場で跳ねて、全身の
ストレッチを終えた彼はクラウチングスタートの姿勢を取り、
ドンッ!
即座に最高速!
しかし正面から走り来る人間など、彼らの動体検知の前では、通行止めが容易である。
キャッチャーが自分に投げられたボールを掴むように、その一直線的攻勢を止めようと腰を据え、
視覚による追尾が遅れる。
彼が一回、路面を真後ろにでなく、左斜め後ろへと蹴った。右上に自身を飛ばした彼はそこにあった石垣からまた跳び、敵の肩を借りて足場としながら“壁”を超える。
突然の変化球は、緩急という意味でも、効果覿面だった。
逃がさないようにと足下から手が生え迫るが、彼はそれらを可能なだけ踏み潰した。
直哉は群衆共を一顧だにせず、彼のお相手との逢瀬へ向かう。
「時間稼ぎにもならないノダ」
電信柱の下に立ち尽くす、一つだけ攻撃に加わらない木偶の棒。その隣を通過した時に、彼の耳へと吹き入れられた
「やはり、私自らが打って出るべき」
彼らは、彼を待っている。
「やるわよ?楽しみね」
対戦相手が、遊びに来てくれたのだから。
そのようにして、居住区画は突破された。
皇直哉は、再び黒い不明瞭の中へ。
神秘を否定する為に、
神秘をいただく為に、
たった一人で、万軍への強襲を開始した。
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