懺悔室

「お前が信じる、信じないに毛ほどの興味も無いが」


 その前置きが、の証明のようなものだが、


「俺はかつて、奇跡、を、見た事がある」


 横になり、その身を預けながらの告解は、皇直哉らしからぬ、歯切れの悪さで始まった。


「当時の俺は、今より強かった。肉体が、じゃない。精神が、強固だった。奇跡や神秘といったものを断固として冷笑出来たし、人は事実と結果以外には何も得られないと、そう信じていた。それが当たり前であり、妥当か否かなどと考える余地も無かった」


 それは彼の黄金期録。

 同時に真の退屈の記憶。


「だが、その俺が弱体化する出来事があった」


 彼はそれを、言葉では伝えきれない。

 あれと同じだけ隔絶した語彙は、王である彼すらも持っていない。

 

「変身、或いは、羽化、とでも言うべきか」


 醜い地虫が、美しき蝶へと転生する。

 それと同じように、人は変われる。

 親しまれ、愛され、

 蔑まれてきた、そんな御伽噺。


 人間と昆虫では、生態が異なるのだ。

 逆立ちしても、自分以外の何かにはなれない。


「そうだ。波瀾万丈を潜っていても、人の根源は押しべて同じだ。物理的な存在としての“人間”は、肉の軛から外れはしない。神格のように、変幻自在とはいかない筈だ」


 それでも、起こってしまった。

 彼の目の前で、人が、変わった。


「何が契機だったのか、それすら分からない。あの時、確かに俺はあいつを『攻撃』していた。だが、それはあいつに、その時に始まった話ではなかった」


 他の何者にも起こらなかったことが、

 “彼”には起こった。

 それが何故なのか、直哉にはどうしても分からない。


「俺は…、おれは………、」


 分からないのだ。

 その現象が、正確には何だったのか。

 それすら、彼は掴めていない。


「あいつは、あそこに居たのに。触って、間違いなく、居ることを知っていたのに」


 そいつの存在が刹那に、出くわしてしまった。

 あの瞳は、異界だ。その入り口だ。

 認知してしまえば最後、二度と元の世界には帰れない。


 目には見えない異存があると理解した者は、日常の中でもそれを予感してしまう。

 

 たとえ五感が一切を受け取らずとも、「何かが有る」ことを否定しきれなくなる。


 “第六感”という絵空事が、頭に埋め込まれる。


 一つ認めてしまえば、その後の生がガラリと変わる。


「あの時から、俺は答えを探している」


 本当に“確実”と言える何かを。

 逆に「あの時」を否定できる何かを。

 試すだけ試し、やるだけやる。そうは言えど、やれる事は多くない。

 彼が取った方法とは、再現することだった。


「俺は、あの時のあいつと同じ場所に立とうとした」

 

 あの瞳と、同じ物を見ようとした。


「あいつは何も持っていなかった。後から知ったが、父親はおらず、祖父母は縁を切り、唯一の肉親である母親は意識不明、という境遇だったらしい。その上で、精神的支柱を取り上げられ………、よく覚えていないが、俺はあの時あいつを足蹴にしていた、と思う」


 その変化の印象が鮮烈過ぎる故か、前後の記憶が曖昧模糊として、完全に再起する事すら困難だ。

 分かっていることは、そいつがギリギリに、いやさドン底に立っていたということ。

 数少ない財を悉く流失し、身も心も追撃続きで、生命すらも稀薄となり、


 何一つ持たないからこそ、

 世界から消えかけていたのではないか。

 

 彼はそういった仮説を立てた。


「だから、俺は戦場を求めた。死地を探した。『この世の物とは思えない』と称されるものを、吟味する為に出向いて回り、同時にそれと片っ端から敵対した」


 それが正真正銘の神秘なら、彼は見えない世界を手に入れる。

 それが紛い物であったとて、敵ばかり作っていけば、“袋小路”に身を置くことができる。


 どちらにせよ、彼は近づける。

 悲願たる幽世、彼岸たる冥界に。


「それが見えるまでは死ねない。だから死にたがっているわけじゃない。死ねば確かめることが出来ない。レギオンが単なる贋作でも、真なる異能でも、俺はそれを超克する、そして所有する。それが目的だ」


 それとも、理解の外、解らないものを、求めているのかもしれない。


 だから——


「分かっています」


 頭上から、落とされる調べ。

 位置的には支配者のそれでも、力も権威も籠められない。

 寧ろ慈愛に満ちた従順。


「ナオヤ様は、生き残ります」


 上質な革製ソファの上で、今の直哉は寝転んでいるが、何よりその後頭部こそが、最も深い安寧に沈む。

 ウォルナット色で統一された中で、彼の頭が乗っている部分だけ、他より明るくなだらかな色合いに包まれる。

 その枕を構成する二つのパーツは、白く無垢な衣の中から出ており、上部から細い二本が伸びる。一つは単に添えられ、もう一つは薄茶色の頭髪を乱さぬよう、その上で頭骨内の煩悶を少しでもほぐせるよう、

 つむじ、

 頬、

 首筋、

 耳の裏、

 撫でり、

 撫ぜり、

 慰撫いぶしている、

 まめまめしく、

 繊細かつ丹念に。

 その時の心地がまた、直哉をたいそう動揺させた。

 人肌に温められた、ドロ甘いカフェオレに浴しているみたいに。


「私は、ナオヤ様が本懐を遂げる、そのお手伝いをするだけです」


——この身命の全てを使って。


「もしも私のしたことが、特段役立つこととなったら、それは私にとって、更なる喜悦となるでしょう」


 言い換えれば、「ちょっとした用途で使い潰してくれるだけでも、それはそれで幸せを感じる」ということ。

 彼女はその値打ちを、彼の道具として以上に見積もっていない。

 彼に使われないことだけを怖れ、利用されることで満たされて死ぬ。

 訳も言わずに犯し殺そうとも、皇直哉に必要な快楽だったのだと、納得して身を捧げることさえするだろう。

 

 どのようにしてこうなったのか、それはよく分からない。

 しかしその黒い瞳孔の奥を読み取ってみても、彼以外の何一つ浮かびはしない。

 本心を見通そうと、もっと、もっと深くへ。

 彼をようするような両目の、その向こう側を見抜こうと貫けば、泥沼めいてずぶずぶと咥え込まれてしまい、更に、更に更なる深みへ——


——本当に?


 本当に、そうなのか。


 この世には、


 可視化された情愛というものが、


 有り得たと言うのか。

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