離れ島にて
その島は、地図には載っていないらしい。
首都東京から太平洋側に少し。
「危険な海域」として立ち入りは常に制限され、通りがかっただけでも敵意を向けられる。
事実上の密室たるその場所に、海上をゆく
暴君、皇直哉。
その専属運転手、
新参にして最弱、アクテ。
三名が乗ったボートが、ボウボウと波を掻き分け惨劇の舞台を目指す。
「だから!お前には選択権は無い!おい聞いてるのか?分かったらその足で情報を取って来い
いつも通りにスーツとベスト姿の直哉。
電話口に反論させず、恫喝だけ置いて断信。
その事について悩みも悪びれもせず、会話そのものが無かったように話題を切り替える。
「いいか?一つ言っておく。お前が成果をだせなければ、今度こそ俺達の関係はおしまいだ」
「はい」
「はん、意外だな。好奇心が強いタイプには見えなかったが?」
「お役に立たせてください。それで私は勝手に満足します」
頭の後ろで髪を一つに結わえ、半袖長ズボンの動きやすい服装をしたアクテ。
それに言い含め、再度契約内容の確認をする直哉。
彼女からの提案を受けての行動。
少女は、王と共に登壇したいと嘆願したのだ。
昨日役立たずだったことに焦った点数稼ぎか。
逆に彼を突き崩そうという裏切りの為の材料探しか。
だがそれまで見せてきた、追い詰められた草食獣のような言動は、訳は知らぬが鳴りを潜めている。
いっそ不気味と言えるほど、裏が読めない。
どういった企図にしろ、彼の神経を逆撫でしてまで通す、その手法は賢明ではない。
怒りを買えば、野垂れ死ぬだけだ。
そんなことは赤子でも、猿でも分かること。
彼女は
「旦那様ぁ?私ぃ、思うんですがぁ」
運転席からのんびり喋り、会話に参加する命知らずその2。
「その女の子純粋にぃ、旦那様の御力になりたいだけなのではぁ?」
「黙ってろ千家。てめえの鈍い頭じゃ回るだけカロリーの無駄だ」
「へぇえい」
主人からの怒気を気にした様子もなく、壮年の男は制帽らしきものを被り直す。
丈の長い外套を纏い、髪も短く刈り上げられた、皺だらけのせむし男。
幼少期から直哉の“足”である彼には、王の癇癪など慣れっこであった。
「あと何分だ?」
「………」
「おい聞いてるのか?」
「『黙ってろ』ってぇ」
「クビを切られたいのか?」
「10っ分もあれば着きまさあ。ほぉら、見えてきましたよぉ」
白の空、灰色の海、
そこに浮かぶ黒い形は、水墨画の一枚のように。
「“
曇り空の下に現れた、隠された島。
今は所有者も亡く、棄てられた場所である。
こうして分け入る事も可能となってしまった、
そうも思わせる趣きがある。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか……」
この場合は、「どちらでも良いからさっさと出て来い」という意味である。
上陸。
ザザンと波音が漂う。
比較的大きな桟橋が設けてある。
使われなくなって、それでも長い時を経ているわけではない。
けれど寂れたような物悲しさが、既に一面霧のように立ち込めていた。
彼らを作った父が、もう戻らないと知っているかのように。
「どうぞぉぉお」
召使いが捧げ持つ、四角く大型のバックパック。
「ここで待ってろ。すぐ戻る」
「へぇい、へい。10年でも100年でもぉ」
主が荷物を受け取ると、千家は船体に寄りかかり、懐から文庫本を取り出す。
間を置かず没入し活字を追う姿に、直哉は小馬鹿にしたように一瞥をくれる。
「面白いか?それ?」
「今はぁ、小カトがゲッリウスからの賞を辞退したところでさぁ」
彼が右手に持つのは、プルタルコスの『対比列伝』。
王に問われども、姿勢も正さずペラペラと読み耽る。
直哉は意外にも咎めず、そのまま整備された道を歩き出す。
暫くは密集した木々の狭間を通る。おおかた森林浴でも楽しむ為のルート設定だろう。
千家に苦い顔をしていたアクテも、慌ただしく後ろに続く。
「………嫌味な奴め」
少し離れて船が見えなくなってから、顔に掛かる蜘蛛の巣を払って毒づく。
「はい?」
「マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス。奴がさっき読んでいたのは、そいつの章だ」
「カエサルと敵対していた?あのブルータスの叔父の?」
「清廉潔白が行き過ぎて、強きに抗し自滅した愚物だ」
それを熱心に、有難がって読んでいる。
「『お前を皇帝だとは認めていない』、そう言いたいんだろうな」
アクテは仰天する。
「どういう人なんです?ナオヤ様の手足では?」
「あれは親父からのお下がりだ。そしてあの男も匙を投げた難物だ」
面白そうだったから、無理を言って彼の専属とした。
態度が敵対的でも表立って攻撃はしてこない、困った従者である。
「そうなんですね。だとすると、あの人もしっかり見ておかないと……とすると…………使い勝手が悪い……」
まただ。
この少女は、直哉の「趣味」を即座に受け止めてしまう。
そんな度量があるようには、見えなかったのだが。
瞬刻、脳裏にはあの雑な笑顔。
この少女もまた、ああいった異常の中にあるのか?
それはそれで、彼の目的にとっては悪くないのだが、
——なんだ?この胸騒ぎは?
「ナオヤ様?」
不安そうに見つめてくる子どもを認め、彼女を凝視していた自らを自覚し、彼は自らの考えを棄却する。
考え過ぎだ。
このように顔色を見ながら、尻尾を振るしか能がない、単なる犬だ。
「余計な事を考えるな。お前は処分されないかの心配だけしていろ」
顔を上げ、前を向き、
「着いたぞ」
さあ、と、
行く先が開けた。
そしてそれと対峙する。
「
戦の神の名を負って、
地を拓き大いに幅を利かせ、
天に鋭角一つ突き出す洋館。
日差しがあれば煌びやかなのだろう建物は、
暗雲に巻かれ、
色は褪せ、
光を吸って
禍々しく映えた。
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