全国空802便ハイジャック事件
「初めまして。お会いできて光栄です」
タクティカルベストに黒い目出し帽姿の集団の中で、唯一顔を晒した男が挨拶をする。
「我々は“琉球解放戦線”です。“女王”の命により、これを行っています」
慇懃無礼。
敬意無き低姿勢。
浅黒い肌にスキンヘッドのこの男、元より直哉を交渉の餌としか見ていないのだろう。
「今更琉球王国か?
直哉の方にも、遠慮や気後れが無い。
愉快な珍走団でも見たような反応である。
「貴方からの質問に答える義務はありません。日本政府が大人しく要求を呑めば、無事に解放されます」
「自由になって、それで次のご主人様はどこかね?中国か?韓国か?アメリカか?」
圧倒的優位に立つハイジャック犯に対し、挑発的物言いを続ける直哉。
俯いたままカタカタ
「どう仰られようと、この場合では単なる野次でしかありませんね。生殺与奪は、こちらが選べます。それをお忘れなきよう」
さて、揉め事や荒事に自ら突き進むこの男、皇直哉はこういった事態に慣れっこである。
ただでさえ敵が多い立場で、時には自分から喧嘩を売っていくのだから、当然と言えば当然である。
しかも弾丸が当たった経験まであるとくれば、その肝を冷やさしむるのは甚だしく困難と言える。
その事に、この勢力がどこまで気付けているか、だが——
——見込みゼロ。ああ、イラつくな。
彼らの茶番に付き合う破目になるという憤懣と、余計な怪我や悪評をこさえないようにという判断。それらが彼の気性を挟み撃って嘆息させる。
——うんざりする。
彼らの排除が最優先事項なら、徹底的かつ速やかに実行してやるのだが。
「我々が欲するのは、身代金と陛下への面会の場です。それさえ叶えば何事も無く——」
「待て、『陛下』だと?」
僅かだが、そそられる語が出て来た。
「お前ら、天皇と会って何を話すつもりだ。言っとくが今のあいつには、統帥大権なんぞありはしないぞ」
「あの方が単なるお飾りに成り下がっているのは、我々も承知の上。であればこそ、お飾りとしての働きをして頂くまでです」
分からなくなってきた。
「琉球」の名は定めしブラフだ。彼らがこの国の中に立てようとしている、新たな勢力圏を指す為の合言葉。
でなければ、わざわざ日本の象徴に追認させる必要などない。
国連にでも言い募れば済む話だ。
あくまで国内で効力を発揮するような、そういった類のお題目。
その看板の裏からは、何がまろび出て来るのか?
「どうです?貴方にはここで反抗することによる実利などございますまい?言うまでもないことですが、人質としての価値は貴方が最上位。ですので見せしめとして利用されるのも、最後の最後ということになります。人気取りに必死な政府は、まず間違いなく貴方を見捨てられません」
「確かに、正しい見解と言えるだろう」
「というわけで、どうぞご協力下さい。なあに、少しばかり旅程が伸びるだけですよ」
「………そうだな、お前達が何を目指すのか、見てみたい気分はあるな」
放っておけば、この国を割るような騒乱に発展するやもしれない。
何だか楽しみになってきた。
ここは一つ、泳がせてみるというのも「へえ?」
声は、
窓がある方から聞こえた。
「助けないんだ?」
直哉はその揺らぎを気取られぬよう、悠々とした動作で外を確認するように、左方に顔を向けていき、
ガラスの向こう側に、彼が座っていた。
あの日と同じ制服姿。
月日を経ても変わらず少年のまま。
笑いながら傍観している。
透き通った鏡面のような瞳で。
「彼らは、君を犠牲者の最後尾に据える。つまり君が彼らの行為を見過ごせば、彼らは君の前に何人か殺しちゃうわけだ」
それは既定路線。
なんなら、開口一番にそこから始めることだってあり得る。
日和見主義者には、これ以上ない示威行為だからだ。
「君が行動を起こさなければ、死ぬはずじゃなかった人が死ぬ」
——黙ってろ。俺は関係ない。
「別にいいんだ。君を責めるつもりなんてない。自分の命は大事にしなくちゃ」
分かっている。
あの少年なら、こんなことは言わない。
こんなに強気に在った事などない。
けれども、
「でも僕は、そうなったら悲しいと思うんだけど——」
——君は違うんだ?
——僕とは、違うままなんだ?
彼が言われたくないことを、
気付きたくない本心を、
こいつは口から出してくる。
——やめろ。
——お前なんかいない。
——居る筈が無い。
「どうかな?君はずっとそう信じて、だからあの時に動けなかったんでしょ?」
嗚呼、
その言葉には、
たった一理だけを、見出だしてしまう。
無いと思っていたものを、
明瞭に認識してしまったから。
彼が、間違っていたから。
「本当に、僕はここに居ないと、言い切れるのかな?」
こいつは、
いつだってそうだ。
痛い所を執拗に突き、
気付きたくない理屈をくっつける。
「どうするの?見捨てるの?」
それとも、
「ああ分かったよ…!」
やってやるよ。
「助けてやるよ……!」
やりゃあいいんだろ。
この機内の乗客も、
この場を囲む罪人たちも、
全部残さず生きたまま。
それで道が開けると賭けて。
——————————————————————————————————————
厭だ。
もうイヤ。
なんでこんなことに。
こうなるなんて聞いてない。
こんな筈じゃなかったのに。
こわい。
こわいよ。
「ひぃーッ……、ひぃーッ………」
歯の間を通して拍動をか細く刻む。
二十指を握り締め根を張るように固定する。
動かず聞かせず晴れを待つ。
誰の目にも留まらぬように。
それが向けられれば、誰だって首に縄を撒かれた罪人となる。
彼女の周りを閉じる数人。
誰かが少しでも、指先一つ力んでしまえば、きれいさっぱり水の泡。
吐き気がする。
食道をせり上がるのは、血反吐だろう。
ずっとそう。
ずぅっと、そういう場所で生きて来た。
気の休まる時など無くて、
朝も夜も、魂の渡し守に見つからぬよう、身を屈め息を殺して。
そうでもしないと、知らぬ間に止まっていそうで不安だったから。
警戒も緊迫も片時も手放せない。
それで延命し、摩耗してきた。
嫌いだ。
鉛を振り撒く武器が。
その程度で破損する人体が。
持ち手にその気が無くとも、ついうっかりと軽く奪っていく。
あの日から、そうだった。
まるで関係ない二つが、ぶつかったのが偶々その場所だった。
それだけの、くだらない話だったのだ。
川で遊んでいた友達は、敵兵と勘違いされ撃ち殺された。
彼女を庇いながら逃げていた両親は、誰かのヘタクソな狙いによって足を奪われた。
二人を置き去りに走った先には、穴ぼこだらけの顔見知り達と、それを為した道具の隊列。奴らはいつでも彼女のことを、転がされた彼らと同じに変えられる。
その時彼女は自ずから、その身を親の仇達に委ね、
髪の先まで略奪され、村で唯一生き残った。
なら、その後も上手くやらなければ。
生き抜いて果てなければ。
じゃなきゃ彼女は、単に汚いだけの
卑しい卑しい恥知らずだ。
無駄にしちゃいけない。
生きなくちゃ。
理由を見つけなくちゃ。
それからの日々を思うと、あの時撃ち殺されるのが正解だった、そうとすら思える。
彼女は、自分が持つなけなしを売り払った。
自らの身一つの価値を底上げしようと、やれることはなんでもやった。
情報を全て頭に叩き込み、技術を手足に捩じ込んだ。
幾つもの戦場に運ばれ、させられる事はいつも同じだ。
彼女を殺せる牙達に、喉元を差し出し甘嚙みさせる。
少しでも身震いし興を削げば、たちどころに噛み千切られる。
お腹の中が、いつも重苦しい。
それは彼女の代わりに死んだ人々と、彼らの体に埋め込まれている鉛の重さだ。
それを抱える事が耐え難く、それがあるから終われなかった。
苦い。
溺れそうな程に苦い味が、喉奥まで浸透する。
何度水を潜っても、生臭さが取れることはなかった。
そうして戦利品であり褒賞となったそのお人形は、
ある武装勢力の持ち物となった時、他より少し使えるという理由で、
とある国への“事業拡大”、その一員の候補になった。
その国には銃が、
彼女を閉じ込める鎖が無いのだと言う。
そこには法があり、
それが命を守り、殺しを縛るのだと言う。
楽園、
そうとしか聞こえない。
そこしかないと思った。
将来に確保された残り時間を代価にしてでも、今戦って勝ち取らなければ。本気でそう考えた。
心身から最大限を引っ張り出した。
使える物は全て利用した。
彼女を気に入っていた男をけしかけ、ライバルを潰していった。
判断を下す立場の人間には、何をすることも許した。
情報を握り、有利に立ち回り、
やっとの思いで手にした立場が、散弾銃男の使いっ走り。
別名、子ども達の敵。
馬鹿だ。
そりゃそうだ。
自由も平和も、あるわけないだろうに。
何を浮かれていたんだろう?
本当の独りぼっちになっても、内臓の沈殿は軽くならず、死にたくない浅ましさも変わらなかった。
その基盤もあっさり壊され、彼女を守る者は居ないのに、恨む人間は山ほどという、結果だけが残る。
それでもまだ生きようとして、
なんとか出来ると一縷に縋って、
唯一の道を拓いて、
それで——
——それで、どうなった?
彼女は結局、あの日と同じ状況に戻って来た。
考えずに人を殺せる機構の群れに、こうやって詰められ殺されかける。
——やめて。
——こっちを向かないで。
——指を掛けないで。
——出て行って。
つらつら連ね積もらせども、
聞き入れられることはない。
これまで変わらずそうだったように、
ちっぽけな彼女は、黙殺される。
顔は広く知れ渡っても、実行力は持たない彼女は、
例えば恰好の見せしめ役となる。だから最初に殺され得る。
じゃあどうすれば良かったのか。
大人しく死ねば満足なのか。
偶さかあそこに居たから暮らしを壊され、
運よく弾が当たらなかったから呼吸が続き、
図らずも逃れた先に銃砲が追いかけて来た。
そう、全ては偶発的。
誰かの意志によるものではない。
予測も回避もできやしない。
正しさも努力も関係ない。
泣き喚くか祈るくらいしか、
意味ある行為を残せないなら、
今までの惨憺は何だったのか。
やめてよ。
もうヤダよ。
誰でもいい。
足りないなら信心を尽くしてやる。
欲しければ魂でも売ってやる。
だから、
お願いだから、
偶然ではない意図の上で、
誰か——
「ああ分かったよ…!」
迷える少女は顔を上げる。
暗い荒野を手探りで行く中で、
燃え盛る野火が太陽に見え、
射した光へ飛び込んでしまう。
「助けてやるよ……!」
外の空を見ながら、そいつは小さく呟いた。
彼は彼女を見ていなかったが、
アクテの声が、
初めて誰かに届いたようだった。
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