第7話・幻のような幸せに
紗羅は綺咲家のあらゆる者から嫌われている。
主を殺した男なのだから当前であろう。
皆の視線が痛い。
紗羅はうつむいて、視線を靴先に向けた。
下僕の一人が声を荒げる。
「お前! 一人でコソコソ何をしている!? まさか、牙呂様まで殺めようと画策しているのではあるまいな!?」
「は!?」
物騒な言葉に驚いた紗羅は顔を上げた。
彼は律地(りち)という名で、この綺咲家に来た時から目をつけられている。
他の二人も、普段から何かと紗羅にちょっかいをだし、嫌がらせをしてくる。
本来であれば、今すぐにでも殺したいのを我慢しているのだ、嫌がらせくらい自然だろう。
それでも、紗羅には彼らに殺意などない。
ましてや、なぜ、好いている男を殺められようか。
大きく顔を横に振って否定の意を示す。
三人の後ろに控えた他の下僕や、使用人達も疑いの眼差しでこちらを見やるが、やがて顔を背けると、まとまって出ていった。
律地は紗羅を睨みつけ、吐き捨てる。
「隠し通せると思うなよ!」
体格の良い律地が、乱暴な足取りで部屋を出ていく。
響く足音が遠ざかり、ようやくゆっくりと呼吸を繰り返した。
何故あんなふうに疑われたのだろうと、答えが見つからず、不安がつのる。
翌日、久しぶりに牙呂に呼び出され、風吹の間にむかう。
鼓動が早まるが、背中には冷や汗が伝う。
例の文字の書かれた壁の前に、牙呂が立っている。
見慣れた簡易服だが、久しぶりに顔を見れた喜びに胸が震えた。
床を踏みしめる足音が、やけに耳に響く。
眼の前にくると、ようやくその顔色がはっきりと見えた。
すっかり血色がよくなり、あの夜叉のような姿が幻のようである。
安堵の息をつく。
「仕事をこなすのには慣れてきたようだが、寄り道をしていると、皆が不満を抱えているぞ」
「知ってる、忠告された」
素直に答えると目を丸くする。
意外そうだ。
そんな些細な表情の変化にさえ、紗羅の胸はときめく。
視線を泳がせて、己の非を謝った。
「悪かった気をつける」
そっと目をやると、牙呂の表情は和らいだ。
胸が弾むのを感じて、変な声をあげぬように気を引きしめた。
拳をにぎりしめていたら、気持ちが落ち着いてきて安堵の息をつく。
「今夜、あの場所で過ごすからな」
「……っ!」
その言葉がどんな意味なのかを瞬時に理解して、かっと頬が熱くなり、心臓は爆発しかねんばかりに脈打つ。
思わず胸を手でおさえると、肩に手を置かれて息を呑み、顔を向ける。
「あ……」
牙呂の凛々しく、端正な顔が間近にせまった。
一瞬、時がとまったかのような錯覚を覚えて目眩までするが、足に力を込めて倒れるのは免れたものの、牙呂に怪訝な目をされてしまって、顔を背けてしまう。
――なんか変だ。
牙呂の態度が軟化したような気がする。
明らかに下僕達の目の色とは違うのだと感じるが、疑問に思う。
夜は、言われた通りにあの小屋で、牙呂と過ごしたのだが、慰めろとは命令されず、ただ身を寄せて眠りについた。
紗羅は星空の下で誰かに呼ばれている。
いつもの夢だ。
“鶺鴒で待つ”
「……ん」
背中にぴったりと寄り添うぬくもりに声を上げそうになり焦る。
牙呂と並んで眠っていたのだと思い出して、小さく笑った。
なかなか寝付けずに、身じろいだら寝れないと怒られた。
いつの間にかしっかりと眠れていたので、頭がすっきりしている。
ふと、夢の中で、鶺鴒で待つという声を聞いたのを思い出す。
もう少し牙呂の傍にいたいが、行かなければ。
――牙呂。
頬に指を添えて、唇を重ねたい衝動をこらえ、静かに小屋から立ち去った。
紗羅は、鳥のさえずりが穏やかに朝の訪れを告げる町中を、足早に歩いていく。
ふいに違和感を覚えて立ちどまるが、まわりの一族の掃除当番の下僕達が黙々と仕事をしているだけだ。
紗羅は息をはくと、旅籠屋鶺鴒へと向かう。
優しい人が待っている。
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