第6話・不思議な男

 綺咲家に来てから一月が経った。

 大分この生活にも慣れたので、精神的にも少しは余裕が生まれていた。

 あの夜から、なんどか牙呂の性欲処理をしたが、この所ぱったりと命令されない。

 おかげで毎夜ひとり慰める日々だ。

 火照りを解消するのはとても一人では難しい。

 紗羅の肉体に甘い熱がくすぶりつづける。


 最近牙呂の姿自体を見かけないが、他の下僕に尋ねたところでまともに答えるはずもなく、噂話に聞き耳を立てた結果、病に伏せているというではないか。


 ――まさか、情欲を溜め込みすぎて具合が悪くなったのか。


 だとすれば、なぜ、自分に遠慮するのだ。


 見舞いに行きたいが、下僕でましてや敵である己が、勝手な真似ができるはずもなく、悶々とする。


 ある時、酒の買い出しを押し付けられて、走り書きを眺めていると、ある文字が光ったのでびくりとした。


「なんだ?」


 ここに書かれた酒店ならどこでも良いと言われているが、ならば光ったように見えた店に行ってみようと決めて、身支度を整えて屋敷を出た。


 灯界は、縦横に等間隔で区画されているので、非常にわかりやすい道ばかりのため、初めての場所に赴く際も地図さえあれば迷わない。


 紗羅が向かったのは、この灯界で商いの中心となっている、醇甘坊“もかんぼう”である。

 地上からの客も受け入れているために、料理屋は酒店を兼ねていたり、宿泊できる部屋を用意している。

 当然、宿屋も多数存在した。


 旅籠屋“鶺鴒”《はたごやせきれい》 


 ふと鼓膜を緩やかに震わせる音色に気づく。

 三味線に似ているが柔らかく、急き立てるような激しさはない。

 音色は旅籠屋の二階から響いている。

 ちょうど外から上がれる階段を見つけたので、吸い込まれるように足を向けた。

 階段を上がると、細い廊下があり、突き当りから音色が響き渡ってくる。


 か細く太く旋律は、蛇腹のような様相を想像させる。

 ふいに背筋が、ぞくりとした。

 扉は閉ざされていた筈だが、紗羅が前にたつと優雅な動きで内側に開いた。座敷の奥に、青年が胡座をかいて座っているのが見える。

 手にはやはり楽器をもっていたが、三味線に似た別物のようだ。

 紗羅は部屋をくまなく見回してから、おそるおそる足を踏み出した。

 青年は爪弾くのをやめて、三味線もどきを傍らにおいて紗羅を見た。


「……っ」


 美しい……という言葉がでそうになるくらい、男の美貌には魅了されてしまう。

 男は長い白い髪を腰元で揺らした。

 すると白髪はたちまち銀色に輝く。

 このような髪を、どこかで見たと思い出して頷く。

 牙呂が変貌した時に見たのだと。

 青年は紗羅に笑いかけて、傍の茵に座るよう、促す。

 買い物が先だと焦りつつも、言うとおりにしてしまう。

 青年は素直だね、と紗羅を褒めて頭を撫でてきた。

 男の唐突な行為に驚いた紗羅は、サッと身を引いて手のひらから離れる。


 男は悪びれず、こりずに手招いた。

 紗羅は戸惑うが、何故か拒絶できない。


「おいで、私がお前を癒やしてあげよう」

「……貴方は、いったい」


 ――なぜ、俺はこの男から逃げられない。


 胸を穿つような感覚は、懐かしさだと認識したら、涙が溢れてきた。

 今までの辛い記憶が、脳裏で荒波のように流れていく。

 男に抱きしめられて、紗羅は嗚咽を漏らした。


 子供をあやすような仕草で、男は紗羅の背中を優しくさする。

 彼は輪という名前で、楽器は自作であり、三味線や枇杷とも違うらしい。

 何よりも、弦が見えない。

 紗羅は音楽には疎く、今は時間がないのもあり、ひと目だけ見て、あとは男にお礼を伝えて去ろうとした。 

 強く腕を握られて、心臓がはねる。


「またおいで。お前が来るとき、私は必ずここにいるから」

「え?」

「輪と呼べば良い。呼び捨てでかまわない」

「……倫」


 別段珍しい名でもないのに、口にしたら何故かひっかかり、酒を買った帰り道に何度も呟いていた。



 輪は、紗羅が鶺鴒におつかいに行くと必ずいた。

 まるで行動を監視されているようだと不気味だが、顔を合わせるたびに、紗羅の心は輪を受け入れる。

 このような事を頻繁に繰り返していれば、怪しまれるのは止む無し。


 下僕専用の躾部屋に連れ込まれた紗羅は、数人に取り囲まれた。



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