第5話・触れられぬ心
呆然としていた紗羅は、呻き声に意識を引きずり戻された。
雄の独特のニオイに酔いつつ、しゃがむと、身じろぐ牙呂の手足を縛る縄をほどこうと掴んだが、ふいに縄が縮まり、手が宙を泳ぐ。
牙呂が呻きながら目を開けたのを見て、紗羅はとっさに部屋から飛び出て逃げようとするが、身体に何かが巻き付いて引きずり戻されてしまった。
地面にこすれた部分が、擦りむけて血がにじむ。
痛みに顔をしかめながら、元の部屋に放り投げられた。
「俺に何をした!?」
「か、牙呂」
怒りに震える牙呂の手には、縄が握られている。
伸縮自在な上に、操るのは得意らしい。
ならば、自分で己の手足を縛ったのだろう。
――余計なことをしたな。
紗羅は、牙呂に何を言われるのかが心配でたまらず項垂れた。
お互いの息遣いだけが、やけに耳にびびく。
「見たんだな、俺のあの姿を」
「……っあ、ああ」
見てないと弁明すれば良かったのに、紗羅は馬鹿正直に答えてしまう。
何より、今の紗羅には、牙呂に嘘などつけるはずもない。
牙呂は深いため息をつくと、己の下半身に目をやり、険しい表情を浮かべた。
何をされたのかを理解した様子に、紗羅は狼狽えて、謝る。
「すまない……! あまりにも苦しんでいるから、熱を……吐き出せば、楽になるかと」
頭を床に押し付けて許しを請う。
罵声を浴びせられる覚悟をしたが、何もおこらないので顔をあげると、牙呂は真剣な面持ちで腕を組み、考え込んでいた。
ふいに腕を解くと、紗羅に話しかける。
「これからは、俺の性欲処理もしろ」
「……は?」
なんと言われたのか、いまいち理解できずに戸惑うも、確かめる勇気が出なくて俯くのが精一杯だ。
今夜は休め、仕事については明日教える、と命令されて追い出された。
眠れないと思っていたが、疲れていたのか、その夜は、朝まで目が覚めることはなかった。
朝日に目を覚ました紗羅は、廊下のあちこちから聞こえてくる声や、足音に胸騒ぎがして、寝台から飛び出て部屋の戸を開く。
忙しなく歩くのは下僕達である。
紗羅を見つけた三人の下僕達は近よってきて、様々な雑用を言いつけた。
彼らは下僕とはいえ、綺咲家の者は上質な衣を着用している。
紗羅も引けを取らない格好はしていたが、今日を堺に、ますます質素な衣に着替えざる負えなくなった。
麻でできた衣はうごきやすいよう、袖をしぼり、裾は短い。
それに軽いので、見た目は地味だが気に入った。
仕事は掃除や買い物が中心ではあるが、つい先日まで下僕にかしづかれていた紗羅に、まともにこなせるはずもなく、失敗しては先輩達に叱られて、挙げ句部屋に閉じこもる事態に陥った。
「お前! 食事抜きだからな!」
扉越しに意地悪な言葉を吐き捨てられた紗羅は、疲れ果てて、空腹のまま眠りについた。
“紗羅”
――誰だ?
“牙呂は嫌な男だろう、早く気持ちをお捨て”
――何だって?
高い声音だが、男の声だとわかる。
声はしきりに牙呂の悪口ばかりいうので、紗羅は頭にきて叫んだ。
「黙れ! いい加減にしろ!」
「俺はまだ何も言ってないが」
「は!?」
突然聞こえたのは、まごうことなき牙呂の声だった。
戸が開いた途端、牙呂が中に入ってきて、腕を掴んだ。
紗羅は困惑と驚きで硬直する。
昨夜の出来事を思い出して途端に心臓が高鳴り、体の中心があつくなって焦る。
「顔を赤くする必要なんてないだろ、単なる性欲処理行為だ。お前だって自慰くらいするだろ」
紗羅は絶句して押し黙るしかない。
牙呂のあの変化は、気が狂う程の情慾が原因なのだろうが、自分が相手なのは問題ないのだろうか。
大きく息を吐いた牙呂は、沙羅のとなりに座り、視線を向けると口を開いた。
「早速、我が綺咲家の歴史を聞かせてもらおうか」
「え!」
この状況で、覚えているかと確認するだなんて、信じがたい。
つい顔を背けて部屋の中を見回してどうにか逃げ出せないかと思案するが、戸口はしっかりと施術されており、覚悟を決めるしかなさそうだ。
渋々うなだれながら、覚えている限りの出来事を声に出して、しどろもどろに話す。
覚えていない内容が多くて、牙呂になんども睨まれては注意された。
やがて喉がかわききり、牙呂が竹筒をくれたので遠慮なく受け取る。
喉を充分に潤したら、中身が空になり、しまったと後悔した。
紗羅は牙呂から目を逸らして、水をいれてくると叫んで部屋を出た。
この地下には下僕の部屋が連なり、壁は薄いが、
紗羅の部屋だけは隔離されている。
いろんな意味を想像していたら、またもや体が熱くなってしまい、顔を振って気を取り直した。
食堂は奥の突き当りにあるが、暗闇に溶けているので、安心して竹筒に水を補給できた。
一時的につけた蝋燭の灯りを消して、自室に戻ると、寝台に牙呂がつっぷしていた。
慌てて近寄り、息を確かめた。
手のひらにあたる呼吸に安堵する。
やはり、疲れているのだ。
あどけない寝顔は、まだ少年の幼さが残る。
そっと指を頬にふれかけたとき、身じろいだ彼が寝言をつぶやいた。
「父上……」
――!
涙を一筋流して父を呼ぶ様に、沙羅の心は千々に乱れる 。
よろけて後ずさり、手から竹筒を放す。
床に鈍い音を立てて落ちた竹筒から、水が溢れ出して床を濡らす。
「ごめん、ごめんなさい……」
抱きしめて涙を拭いたい衝動にかられるが、自分にそんな資格はない。
紗羅は部屋の隅で膝をかかえて蹲ると、牙呂につられるようにして泣きじゃくった。
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