第4話・愚者は欲望に抗えない
牙呂に連れて行かれた場所は、実に広大な部屋であった。
高い位置に飾られている木札には、“風吹の間”と書かれている。
壁には、黒い羽のような模様が縦横無尽に描かれていたが、よく見るとなんと文字であった。
達筆すぎて模様にしか見えなかったのだ。
紗羅は牙呂の意図がわからず、壁の前に立ちつくす。
深いため息をついた牙呂が、紗羅の隣に立つと、壁に手を当てた。
目線をこちらに寄越したので、お前も壁に触れろという意味らしい。
強い視線に射抜かれて、高鳴る鼓動を感じつつ、壁の文字をなぞるように手を当てた。
その瞬間、視界が揺れて、脳内には初老の男の声が流れ始める。
厳格な物言いで語るその内容は、どうやら壁に書かれた“綺咲一族の歴史”らしい。
力強い声音のせいか、脳内がしびれるような感覚に怯える。
牙呂が右肩に手を置いてきた。
驚いて壁から手を離すと、険しい顔つきで忠告される。
「今日一日ですべて聞け。覚えているかどうか、明日確かめるからな」
それを言われた紗羅は、驚愕の声を上げてしまう。
「明日!? い、一日では覚えられない!!」
「ならば努力しろ、俺は部屋の隅で監視してやる。声をかけるまで休むな」
「な、なんだと」
文句をつらねようしたが口を噤む。
あまりの横暴な要求に、怒りが湧き出て、久しぶりの自分らしい感情にあわや立場を忘れるところであった。
紗羅は文句を飲み込み、壁の文字に意識を集中させる。
背中に牙呂の視線を感じて、途中でなんども気が散るが、声をかけられるまではどうにか気力を保った。
結局休憩は一度きり。
それに付き合う牙呂の根気にはとてもかなわない。
疲れ果てて壁を背にしていたら、いつの間にか眠っていた。
眠気が覚めぬまま、ずるずると壁に背をつけたまま起き上がり、あくびが出る。
ぼんやりした頭で室内を見回す。
蝋燭の明かりで照らされた文字まみれの壁は、不気味な一匹の怪物に見えて息を呑むと後退りした。
ふと、風吹の間には自分だけしかいないと気づく。
紗羅は、開け放たれた扉を見て部屋を出た。
廊下も蝋燭で照らされている。
人の気配がない。
風音かと思った物音が、どうやら人の声らしく、声がする廊下の奥へと歩きつづける。
蝋燭が途切れた場所で、声ははっきりと聞こえてきた。
紗羅は薄闇の中で夜目を頼りに、壁を触ってみると、突然光がはしり、壁をすり抜けることができた。
「……な、なんだ」
戸惑いながらも足を踏み出してあっと声を上げる。
踏み入った場所には、こじんまりとした家屋が建っており、傍には池もある。
家屋は地味な見目ながらも、決して掘っ立て小屋ではなく、開かれた戸口から見えている柱を見るに、立派な隠れ家なのは、一目瞭然であろう。
何故戸口は開かれたままなのか……紗羅は、牙呂と鉢合わせする可能性に胸を弾ませながら、勇気を出して声をかけた。
「誰か! おりませぬか!」
その呼びかけに答えるように、確かに声が返ってきたのが聞こえた。
何やら呻くような声音で、嫌な予感がする。
土間に入り、靴を脱いでゆっくりと狭い廊下にあがった。
「誰か……誰かおりますか?」
「あがああっ」
「……っ」
――何だ今の声は!?
恐怖心から足を止めたが、すぐにゆっくりと歩き出す。
声の主はようやく見つかった。
小さな部屋で白髪の男が倒れ込み、呻いていたのだ。
その顔を見て驚く。
「か、牙呂!」
「ぐ……っあぁああああああっ」
牙呂は何故か、両手足を縛られた状態で畳の上に転がされている。
髪の毛が真っ白だとおもいきや、よく見れば、窓から差し込む月明かりにより、銀にかがやいていた。
瞳も同じような色に変わっていて、なんとも不思議な容姿である。
だが、体格も顔つきも、牙呂なのは変わらない。
暴れている彼が心配で近寄ると、その下半身の盛り上がりに気づいて、思わず悲鳴を上げた。
このように怒っているならば、当然かもしれないが、しかし、妙である。
牙呂は紗羅をまるで認識していない様子だ。
その顔は赤く、呼吸が乱れている。
激しい欲情に苛まれて苦しんでいたのだ。
――まさか手足を縛っているのは、誰かを襲わせない為か!?
この様子では、確かに誰彼構わず襲いかねない。
勇気を振り絞り、顔を覗きこんで話しかけた。
「牙呂、大丈夫か? 俺がわからないか?」
牙呂はますます苦しそうに呻くだけで、まともな言葉を発せない。
火照る肉体の辛さは、同じ男として理解できる。
気を張って、胸に手を当て、深呼吸をした。
――しかたない、しかたないんだ。
なんども心中で言い訳を繰り返す。
心臓はいまにも爆発しそうだが、今は牙呂を助けることが先決だ。
無意識に生唾が口腔内にたまり、飲み込む。
痕跡を残すわけにはいかないと我にかえる。
これだけはやめねばとは考えたが、他に良い案もなかった。
紗羅は荒い呼吸を繰り返す。
愛しい男の熱を解放した紗羅自身も、恍惚の海に沈んだのだった。
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