第3話・覚めぬ悪夢
刃が胸元を斬るのを、紗羅は呆然と眺める。
牙呂の刀の切っ先が食い込んだ肌は、痛みよりも熱さを与えた。
赤い飛沫が飛び散り、世界が回り始める。
眼前には、鬼神のような形相をした牙呂がいた。
紗羅の意識はそこで途絶える。
虚ろな世界をさまよう紗羅は、どこからともなく聞こえる読経の声に、身体の芯が冷えていくのを感じた。
――ここは、どこだ。
足元は水浸しで、裸足の裏が針にさされるように痛む。
読経は、前方にそびえ立つ山々から轟いていた。
非常に厳粛でかつ耳障りな低い声が重なり、地獄にでも落とされそうな雰囲気に身が震える。
濃霧が広がり、冷気が満ちていく。
「わっ」
足元の水がどんどんせり上がり、やがて紗羅の身体を飲み込んでしまう。
――氷に閉じ込められたかのようだ!
紗羅はもがき叫びながら目を覚ました。
「うわあっああっ!?」
「沙羅!? お、起きたのね!」
「……は、母上?」
歯の根があわず、奇妙に音をたてながら震える紗羅を、母が抱きしめる。
母の身体は熱いくらいで、安堵の気持ちが広がった。
しばし背中をさすってもらうと、ようやく寒さにふるえていた肉体が、温もりを取り戻す。
紗羅は牙呂に胸元を斬られた時を思い出し、慌てて胸元を触るがそこには包帯が巻かれている。
母が抱きしめたままか細い声で、あれから何があったのかを教えてくれた。
「貴方は命の危険にさらされて、いっとき、牙呂が拘束されて尋問を受けたけれど、すぐに開放されて。今は、あの人が……父上が尋問を受けているわ」
「父上が?」
何故父がと問う前に、ある考えが浮かび、身体がまたもや震えだす。
当主の息子が罪をおかしたのだ。
誰がその責を負うのかは、掟が定められている。
父の末路を想像するだけで気を失いそうになった。
母はブツブツと、震える声音でひたすらに同じ言葉を繰り返す。
「貴方は何もわるくないわ、悪くないわよね、そうよ、悪い夢だわ」
「……っ」
母の言葉が、呪詛のように脳内に響く。
“悪夢なのだから覚めれば元通り”
心を壊しかけた人間の、現実逃避の言葉は、紗羅に無限の恐怖を与えた。
その日から母は寝込み、紗羅は部屋にこもり、寝台の中で身を丸めて過ごすようになった。
五日目の朝。
柊夜家に、綺咲家からの使者がやってきた。
出迎えたのは、長年柊夜の屋敷守を努めている男、柳(やなぎ)である。
皺が刻まれた顔を、沈痛な面持ちで歪めて書簡を紗羅に手渡した。
身を寄せる母と共に震えながら目を通す――想像通りの記述に視界はぼやけた。
“柊夜一族当主、柊夜勝成(まさなり)を絞首刑に処す”
事細かに記された日時や場所など頭に入らず、ただ、“父が処刑される”
その言葉が脳裏で踊り、現実に絶望した。
明後日。
紗羅は血縁者として、また、罪人である責務として、父の処刑を見守るべく、処刑場にやってきていた。
それからの記憶は曖昧だった。
父が処刑される様を見る前に、牙呂にもあったし、処刑を見守る観客から罵詈雑言をあびせられもした。
だが、父が首をつる前に紗羅を見た瞳だけは、はっきりと覚えている。
うつろで諦めきった目。
強欲で狡猾な父の顔は消え去り、死を受け入れた、ただの男の姿であった。
柊夜一族は、綺咲一族の監視下に置かれるようになり、罪人であり、子息である紗羅は、綺咲一族の下僕として、生涯仕える罰を背負うこととなった。
父が処刑されてから一月後、雑務に一段落がついた紗羅は、綺咲一族の当主、牙呂にお目通りのため、彼を訪ねた。
「入れ」
使用人が扉を開け放つ。
鈍い音を響かせて開ききった扉の向こうは、銀色の屏風で囲まれた大部屋であり、その中心に当主は佇み、罪人を見据えている。
紗羅はまともに彼を見れず、自らの世界に閉じこもり、思いを巡らせていた。
――さあ、いえ。俺は、本当に誰かに操られて剣をふるったのだと。
――なぜ、父を処刑した? 俺は悪くないのに、父が命を落とす必要などなかったのに。
ドン!
「……ぐぼっ」
突然の衝撃に背中から床にたたきつけられ、口から生あたたかい液体が吐きでた。
真っ赤だ。
血が出たのは、胸を思い切り蹴られたためだった。
――あつい、いたいい……!
喉や舌もしびれている。
身体の感覚が麻痺した紗羅は、這いずりながらもがき苦しむ。
牙呂に胸ぐらを掴まれ、顔を寄せて睨まれて、低い声音で言葉をかけられた。
「死ななければ何をしても良いと、一族で取り決めた」
「か、かろ、ほんとうに、あの時、腕が、勝手に……うごいたんだ」
「……ならば! 何故嘆願もせず、母子そろって引き込もっていた!? 貴様が意図的に父上を殺したと、認めたようなものだろう!! 虫けらが!!」
憎悪をたたきつけられた紗羅は竦みあがった。
涙が溢れ、牙呂を見ていられず、目をとじて、嗚咽をもらす。
自分は操られていたのに。悪くないのに。
そんな自分への哀れみの気持ちよりも、父が自分のために犠牲になったこと、そして、牙呂に冷たい言葉をあびせられる状況に耐えきれない。
「俺が、直々に躾けてやる……覚悟をしておけ、紗羅」
胸ぐらから乱暴に手をはなされ、放りなげられた。
「う、うゔ」
「とっとと立て! 我が一族の掟から叩き込んでやる!」
――かろ、みずからなんて、なぜ。
疑問を飲み込み、重たい四肢をひきずりながら起き上がると、鋭い痛みに頬がひきつる。
牙呂の傍にゆっくりと歩いていく。
そのあいだも、心臓は激しく脈打ち、胸中は、切ない想いで満たされていた。
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