4
ひんやりとした石壁に背中を預けて、座る。
お尻が冷えるので、エプロンを畳んで敷いた。
夜は長い。はるか上にある格子窓の先に、夜空が見えたので、星を数えてみる。寒い。雪の季節じゃなくてよかった。けれど、寒い。
――給仕の格好のまんまだもんな。
軽装だ。動きやすいシャツ、くるぶしの見える、短めのパンツ。
頭巾をはらり、と取ってみる。これを首に巻くだけでも違うか、と試すと、自身の頭の熱で暖かかった。
ほどいた髪の毛先を、手でもてあそんでみる。鮮やかな赤い髪は、この辺りでは割と珍しい色で、すぐに顔を覚えてもらえた。
――私は一体、誰だったんだろうなあ……あ!
そうだ、大切なことを忘れていた。
あの腕輪には。
「おじさん! おじさん!」
叫ぶと、先ほどのおじさんが来てくれた。
「どうした?」
「あの腕輪! 私の名前が、分かりづらいように彫ってあるの!」
「!?」
老夫婦が私の名前をどうしようか、と悩んだときに見つけた「キーラ」は、腕輪に彫ってあった文字だ。
残念ながら文字が読めない二人の代わりに、私が読んだ。
この王国で文字が読み書きできるのは、貴族や豪商などの特権階級だけ。
ソフィに読めるはずがないし、この辺で買ったものに、彫ってもらえるわけがないのだ。
「お願い、すぐに確かめて!」
「いやしかしだな……」
「しかしって、何!?」
眉尻を下げて困ったように頭をかくおじさんに、ものすごくイライラする。
「まさか、あの腕輪」
「……御心配には、及びません」
「!?」
急に、滑らかな声がした。
「私が持っています」
「あ」
銀髪さんだ。
食堂で、見慣れないお客さんだなと思って見ていた、あの銀髪さんが、なぜかここにいる。
「お嬢さんをこんなところに入れてしまって、申し訳ない」
「いえ。それより、貴方が持っているって」
「はい。こちらに」
手のひらの上に乗っているのは――私の腕輪だ!
「名前! 確認してください!」
「ええ。裏側に……分かりづらいですが、確かにキーラと彫ってありますね」
にこにこする銀髪さんが、不気味だ。
この暗がりでも分かる。目は笑っていない。そして、おじさんが細かく震えている。
「なら、返して! ここから出して!」
「どうしようかな」
「どうしようかって、なんで!」
「あの食堂のマスターと女性が、君がお金を取ったと主張しているのは、変わらない」
「私は、そんなことしてないっ」
「それを、どう証明する?」
――なによその、試すような言い方! はらたつうううううう!
「私の部屋でもなんでも、調べれば良いでしょう!」
「お金を別の場所に、隠しているかもしれない」
「あのねえ! 大体、仕入れの時にお金のやり取りをしているのはマスターだけよ。お金の保管場所なんか知らない!」
「お会計の時は?」
「私が受け取るけど、全部決まった場所に入れているし……」
――あんまり言いたくないけど、仕方ないな……
「いるし?」
「カウンターの下に、ワックスタブレットを置いてる。それにここ一週間の売り上げが書いてあるわ」
「ほう!」
ワックスタブレット、というのは、木の板に蜜蝋を流し込んで作ったもので、木の棒でひっかくと文字を書くことができるものだ。消したいときは、ヘラで
市場で見つけて、字を忘れないように自分でいくつか買ったうちの一つを、売上記録のために使っていた。
「お金を取るような人間が、そんなことしないわよ」
「なるほどね。君は、なぜ読み書きができる?」
「……知らない。記憶がないの」
銀髪さんは、目を細めた。
「ふーん。聞いたか? ……すぐに押収して持ってくるように」
「は!」
おじさんが、走っていった。
暗い牢、鉄格子を挟んで、二人きりになる。
「やれやれ。まあ私も、君が犯人だとは思っていないよ。あの娼婦だろうねえ」
ニコニコと銀髪さんは、笑う。今度は目も笑っている。
「娼婦? て?」
「君を断罪した女性だよ」
「ソフィ? え? 娼婦なの?」
「おや、知らなかったのかい。酒場でめぼしいお客に声を掛けては――」
「いい、いい! 聞きたくない!」
「はははは」
また、笑った。腕輪をもてあそびながら。
「それ、返してくれないんですか?」
「うーん」
「釈放してよ!」
「うーん。うん。条件がある」
「はあ!? 条件もなにも、無実だし私のだし……っていうか、聞くのすっごい怖いんですけど」
「ふふふふ」
銀髪さんは、鉄格子に近づいてきて、言った。
「なんにせよ、君はもうこの町にはいられないだろう?」
「うぐ」
それは、その通り。
こんな小さな町で「泥棒で捕まった」という噂は……たとえ無実で釈放されたとしても、身を潜めて暮らすようなものになるだろう。しかも、住み込みしていた食堂には、戻れないし、戻りたくない。つまり、家もない。
「君を、雇おう。来てくれるよね?」
「……は!?」
有無を言わさない銀髪さんの迫力に、思わず頷きかけた。
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