第30話

 泥だらけの落とし穴の底に寝転んだまま、僕は目をぱちぱちさせる。天井の隙間から聞こえてきたその声は確かに例の天才な友人のものであった。


「……しずか?」


「わたし以外の誰にみえるの?」


 ガラガラと金属板がいともたやすく開かれていく。太刀脇たちわきがせっせと落とし穴のふたをはがしている脇で、すこし頬を膨らませた数奇院すうきいんがたっていた。


「ありがとう、助けに来てくれたんだね。」


「べつに、これ以上遅れられると二人三脚の出場が間にあわないでしょう?」


 予想していたことだが、数奇院すうきいんの怒りは未だにおさまっていないらしい。けんもほろろといった様子で静かにそっぽをむいた。


 その間も、太刀脇たちわきがせっせと金属板をひきずっていく。眩い太陽の光がまっすぐに入りこんできて、僕は目を細めた。


 太刀脇たちわきが頭上から縄ばしごを放り投げてくる。


 それを伝って、なんとか僕は一晩中いた落とし穴から脱出することに成功した。そんな僕に数奇院すうきいんが無言でさっと乾いた洗いたての体操服を差し出してくれる。


 そういえば、僕はあの後にロープを解体してまた泥と血で汚れた体操服を着たのだった。


「あ、ありがとう。………太刀脇たちわきも金属板をどけてくれてありがとうね。」


 太刀脇たちわきが静かに頷きを返してくれるのに対して、数奇院すうきいんはその場につったったまま一切僕と目をあわせようとしなかった。


「早く着替えてしまいなさい。このままだと二人三脚に遅れてしまうわ。」


 数奇院すうきいんに促されるまま、すこし離れたところで新しい体操服に袖を通す。久しぶりにさっぱりとした気分になりながら、僕たちはゆっくりと斜面を下って校舎を目指していった。



「厚かましいお願いなのかもしれないけれど、もうすこし急がない? できれば僕、獅子王ししおうが勝つところを見たいんだ。」


 僕の言葉に前を歩く数奇院すうきいんの足取りがぴたりと止まる。そののち、固い口調で僕の提案は否定された。


「残念だけれど、この時間ならもう徒競走はとっくに終わっていると思うわ。結果はわたしにもわからないけれど。」


「そっか。」


 残念なことだけれど、もう徒競走は終わってしまっているだろうとのことだった。獅子王ししおうの走りを間近で目にしたかった僕としては、すこし悲しい気分になる。


「結果が気になるようなら、急いでも構わないけれど?」


「いいや、僕は獅子王ししおうが勝ったって確信してるからいいよ。」


「……ああ、そう。」


 数奇院すうきいんにそんな冗談まじりにそう告げてみる。すると、数奇院すうきいんは苦虫をかみつぶしたような顔をして再び歩み始めた。


 どうやら、僕は言葉選びを間違えたらしい。なんとかして話題を変えてこの微妙な雰囲気を追い払いたいと考えた僕は口を開いた。


「そういえば、どうやってしずかは僕があの落とし穴に落とされたことに気がついたの?」


 ふと思い浮かんだ疑問を数奇院すうきいんに問いかける。その質問に答えたのは数奇院すうきいんではなくて太刀脇たちわきであった。


「ずっと、見張ってた。初めから、ずっと。」


「えっ。」


 正直なところ僕はとっくのとうに数奇院すうきいんから興味を失われているものだと考えていたのだが。


「……。」


 前を歩く数奇院すうきいんは黙りこくったままずんずんと進んでいく。そんな数奇院すうきいんに追いつこうとしてよろけた僕は数奇院すうきいんのすっと差し出された腕に支えられた。


「……別に、あなたが例の画集から手に入れた情報をどう扱っているのか見張っていただけよ。今助けたのもあなたと双六原すごろくはらくんとの勝負にもう影響しないと思ったから。」


 体制を崩した僕を抱きかかえて立たせながら、数奇院すうきいんが呟く。そんな数奇院すうきいんにそれでも僕は感謝の言葉を告げざるを得なかった。


「うん、それでもありがとう。僕はてっきりもうしずかが僕のこと嫌いになっちゃったかなって思ってたから。」


「……わたしに嫌われたくないというのなら、今回みたいな馬鹿な真似はもうよしなさい。あなたはわたしの傍でわたしが許したことだけすればいいじゃない。」


 僕の言葉に、数奇院すうきいんが顔を俯かせる。そして、絞り出すようにこの前と変わらない主張を口にした。


「それは無理かな。しずかのいう通り僕は馬鹿だからこれからもこんなことばかりしちゃうかもしれない。」


「……そう、なら勝手にしなさい。」


 こればかりは嘘をついてもしかたがないと思った僕は思いをそのまま伝える。数奇院すうきいんの声がさらに固くなったのを感じた気がした。


「そうそう、実はわたし、あなたに嘘をついていたわ。急げばおそらくまだ徒競走に間にあうの。獅子王ししおうさんを応援したいのなら、走ったらいいと思うわ。」


 数奇院すうきいんの言葉に、僕は目を見開いた。あれほど苦労したのだ、獅子王ししおうの雄姿を見届けたいという気持ちは僕だってある。


「それほんとう!? なら急ごうよ、しずか!」


 数奇院すうきいんの手を思わず握り、駆け出そうとする。しかし、数奇院すうきいんはその場に岩のように固まったまま動こうとしなかった。


「……別にわたしはいいわ。行くならあなたひとりで行きなさい。」


しずか?」


 今まで見たことのない、初めての数奇院すうきいんの姿に僕は困惑する。もし数奇院すうきいんが急ぎたくないというのならば、いつもあわせさせられるのは僕のほうのはずだった。


「どうしたの? 獅子王ししおうさんを応援したいのでしょう?」


 それはその通りで、僕は今すぐにでも駆け出したかった。だが、それでも今の僕には数奇院すうきいんをこの場に残していくのが正しいことなのかわからなかった。


 しばし躊躇したのち、僕は数奇院すうきいんと握っていた手をほどく。


「ごめんね、先にいってるよ。」


「……ええ。」


 うつむいたままの数奇院すうきいんの表情はうかがい知れない。後ろ髪惹かれる思いで僕は大きく一歩を踏み出した。




 聴覚が異常に研ぎ澄まされていく。今なら数キロ先に落ちた針の音でさえも聞き取れてしまいそうだ。


 目の前に高らかに掲げられた黒光りしているスターターピストルにすべての神経を注ぎこむ。先生の白い指にぐっと力がこめられた。


 パンッ。


 乾いたモノクロな音が広い運動場中に響き渡る。それと同時に、世界が止まった。


 脳から発せられた信号が足に到達するのが待ち遠しくてしかたがない。足の裏で地面を強く蹴りつける感覚が伝わると同時、ロケットのように獅子王ししおうは前に飛び出していった。


 周囲の群衆が大騒ぎしている。すでに走り出しの時点で選手の間には残酷なまでの差が生じていた。


 大半の選手は出遅れている。その集中力の欠如はどうやら致命的になりそうだ。


 いく人かの選手は驚くべきことに獅子王ししおうに追従することができていた。その顔触れはどれも試合前の下馬評で注目が集まっていた選手ばかりだ。


 そして、最前列。


 まるで朝に軽くジョギングをしているかのような、そんな気楽さすら感じさせるまるで緊張のない表情。


 今大会優勝最有力候補の蛇塚へびづか獅子王ししおうの眼前を悠然と走っていた。


 大地を蹴り、死に物狂いで蛇塚へびづかの背後にぴたりとかじりつく。血走る眼でその背中を視界に見据えた。


 獅子王ししおうの予想外の健闘にざわめく生徒たちのどよめきも気にならない。獅子王ししおうの頭にあるのは、こんな自分に全幅の期待をよせてくれた一人の男子生徒の姿のみ。


 地面を貫かんばかりに突き出された足が砂利を背後に吹き飛ばしていく。もはやこの徒競走で勝てれば死んでもいいと、獅子王ししおうは限界を超えた力を奥底から引き出した。


 恐らく、これほど速く走れたことは獅子王ししおうの人生で一度もなかっただろう。見たことのない速さで周囲のなにもかもが視界の後ろに吹き飛んでいく。


 獅子王ししおうは大地を蹴り飛ばしながらどんどんと後続の選手たちを引き離していった。


 だが、それでもまだ蛇塚へびづかには届かない。どれほど獅子王ししおうが死力を尽くそうとも、蛇塚へびづかは余裕の顔つきでさらに速度をあげていく。


 視界の端で満足げに笑う双六原すごろくはらの姿が映る。


 初め、獅子王ししおうが運動場に姿を現した時は驚いた表情をしていたが、ふたを開けてみれば何でもない、蛇塚へびづかになど到底及ぶべくもないとるに足らない存在なのだと、そう考えているのだろう。


 どんなに走ろうとも蛇塚へびづかとの距離が縮まることはなかった。


 そして、ああ、とうとうゴールが近づいてくる。眼前にゴールテープを構えた生徒が待ち構えているのが見えた。


 観客もすでに試合は終わったとばかりの様子だ。獅子王ししおうも健闘したが、今回の優勝者は蛇塚へびづかで決まりだろう、そんな声が聞こえてくる。


 敗北の気配が獅子王ししおうを撫でていく。


 もう、無理なのかもしれない。土台、蛇塚へびづかに勝つなど無理な話だったのだ。


 その時、獅子王ししおうはゴールのはるかかなたに信じられないものを見た。


 いずみだ。今頃は落とし穴の底で獅子王ししおうの勝利を願っているはずの、いずみだ。


 獅子王ししおうの走る理由であるいずみが、目の前でじっと獅子王ししおうを見つめていた。その瞳は数時間前に別れた時と一切変わっていない。


 獅子王ししおうの勝利を一切疑っていない目だ。


 その姿を目にしたとき、ぷちんと獅子王ししおうの何かが切れた。


 とたん、獅子王ししおうの視界が白黒に変わった。ゴールテープなど、一切目に映らない。


 聴覚も、触覚も、嗅覚も、すべての感覚が遠ざかっていく。なにもかもが消え去った世界で、獅子王ししおうはただ目の前のいずみを見つめた。


 ただひたすらに足を前に出す。今まで離される一方だった蛇塚へびづかの背中が、ぐんと近づいた。


 ざわりと、群衆がどよめく。双六原すごろくはらが怪物でも目にしたかのように口をぽかんと開ける。


 獅子王ししおうが速度をあげた。


 蛇塚へびづかの背中がみるみる近づいてくる。もう手が届くだろう、荒い吐息が手に取るように聞こえてくる、ああ、足が並んだ。


 そして、追い抜いた。


 蛇塚へびづかの顔が驚愕に染まる。歯を食いしばって足を速めるも、獅子王ししおうは一切の追随を許さない。



 そうして、少女は疾走した。



 瞬間、腹部になにやら抵抗を感じる。ゴールテープを千切りとりながらぶっちぎりの一位で勝利した獅子王ししおうの視界に、色が戻った。


 生徒たちの怒号と悲鳴、歓声が聞こえる。腰にまきつく白いゴールテープ、秋晴れの大空に広がる青、運動場の見慣れた茶。


 その全てをおいて、獅子王ししおうは目の前のいずみの満面の笑みを目にした。


「おめでとう。」


 気がついたときには、獅子王ししおういずみに飛びついていた。


 そして、泣きじゃくりながら驚くいずみの唇を無理矢理奪う。


 少女の勝利を称えるかのように、試合結果を告げるチャイムが運動場に響いた。

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