第29話

「っ!」


 すんでのところで獅子王ししおうの腕を掴む。


 一晩中の酷使に疲労の蓄積した僕の手が悲鳴をあげるのを無視して、しっかりと獅子王ししおうを放さない。この機を逃せばもう後はない、体育祭に獅子王ししおうを送り出す最後の機会だった。


 二人の体重を支えていえるのは、獅子王ししおうの腕を握る手とは反対のもう片方の僕の手だけだ。金属板と落とし穴の淵のわずかな隙間にひっかけた手がジリジリとずり落ちてしまいそうになっていることに焦りばかりが募る。


 金属板が一部割れてあらわになった鋭い断面に皮膚がはがされたのか、たらりと赤い血が僕の腕伝いに滴り落ちてきた。


「い、いずみ殿?」


 どこか不安げな獅子王ししおうの声にハッと我に返った僕は、流れる血を隠しながら語りかける。


獅子王ししおう、いいかい、今から僕が君を僕の位置までひきあげるから、そこまできたら隙間に手をかけてくれないか。それから二人で金属板を押して隙間を広げよう。」


「わ、わかった。」


 正直もう獅子王ししおうの様子のことを伺っている暇などなかった。


 ぎしりぎしりと骨がきしむ。ふうっと深呼吸をして覚悟を決めた後、もはや感覚がなくなりつつある腕に力をこめて、獅子王ししおうを引き揚げ始めた。


 まったくこういう時になると運動をなにもしてこなかった僕の非力さが心底嫌になる。女子の中でも比較的体重が軽いはずの獅子王ししおうを持ちあげることでさえ僕にはとほうもない苦行に感じられた。


「ああああぁぁぁぁぁっ!」


 僕らしくもなく絶叫しながら全身の力を腕にこめる。嫌な冷や汗がじっとりと額を濡らしているのを不快に感じながら、僕はただひたすらに腕を持ちあげることに集中した。


 獅子王ししおうの体がじわじわと持ちあげられていく。それと比例して、僕の眉間のしわが深くなっていく。


 隙間にひっかけた手に走る裂傷がさらに広がっていく。僕の苦痛で滲んだ視界からみてもその真紅の色は見間違いようがなかった。


 先ほどと比べてあきらかに量が増えた血の雫がぽたりぽたりと滴る。これはもうごまかしようがない、獅子王ししおうも気がついてしまっただろう。


いずみ殿!?」


 獅子王ししおうが悲痛な声で僕の名を叫ぶ。その呼びかけを無視して僕はただひたすらに歯を欠けるかといわんばかりに噛みしめた。


「もういい、いいではないか!? 吾輩の手を離してくれ!」


「ダメだ、獅子王ししおうが体育祭に出られなくなる………!」


 獅子王ししおうの食いしばった歯の奥底からひねり出すように声を漏らす。そうして腕にさらに力をこめた。



 やがて、獅子王ししおうの顔が僕のおなかあたりまでくる。その延ばされた手がついに天井の隙間をとらえた。


いずみ殿、もう大丈夫だ、吾輩はもう隙間に手をかけた、だから……!」


 急に腕にかかる力が軽くなる。もうだらんと垂らすことしかできない腕を無視して、僕は息も絶え絶えに次の行動を獅子王ししおうに指示した。


「それじゃ、ふたりで合図の後に一斉に金属板を押すよ。いいかい?」


「その前にいずみ殿の腕をなんとかしなければ! なにゆえこんな無茶をたかが吾輩のためだけに!」


 泣き出しそうな顔でしきりに視線を僕の腕と顔の間で行き来させる獅子王ししおうに、僕は声を大きくした。


「もう時間がない、体育祭は始まっていてもおかしくないんだ! 徒競走は一番最初の種目、とにかく急がないと僕の腕のけがも無駄になる!」


「っ…………。」


 黙りこんだ獅子王ししおうに僕は静かに問いかけた。


「手伝ってくれるね。」


 返ってきたのは小さな頷きだった。だが、それだけで十分だった。



 「いくよ。3、2、1、……押せ!」


 合図に合わせて二人で金属板を手で押していく。ギリギリと耳障りな金属音をたてながら、ゆっくりと隙間は広がっていった。


 ようやく人ひとり通り抜けられそうなぐらい隙間が開いた後、僕はまず獅子王ししおうが落とし穴を抜け出すのを手伝う。


 狭い隙間を通る際に無数の切り傷をつくりながら獅子王ししおうはなんとか地上に這い出すことに成功した。



 続いて僕が隙間から抜け出そうとしたその時、だらだらと流れる血で手が滑った。


「あっ。」


 意味のある言葉を発する間もなく、僕は暗い落とし穴の底まで落下する。びちゃりと泥の嫌な感覚を肌がむき出しの背中に感じた。


いずみ殿!」


 駆け寄ってきた獅子王ししおうが天井の隙間から顔を出す。僕はそれを未だグワングワンと鳴る頭で見つめていた。


 獅子王ししおうがなにか使えるものはないかと周囲を歩き回っている音が聞こえる。しばらくしてもう一度隙間から顔を出した獅子王ししおうが焦燥に包まれた表情で口を開いた。


いずみ殿、今から吾輩は誰かに助けを求めてくる! だからそこですこしの間待っていてくれ!」


 その言葉を聞いた途端、僕はいてもたってもいられなくなった。


 痛む体を無理矢理に立たせる。目を見開く獅子王ししおうの前でふらふらと立ち上がった僕は、声を荒げた。


「そんなことをしてる場合か! はやく運動場に向かえ、体育祭で一位をとるんだろう!」


「し、しかし……。」


「しかしもなにもない!」


 獅子王ししおうの顔が大きく歪む。プルプルと震える声で獅子王ししおうが口答えしようとしたのを遮った。


「いいかい、僕はなにがあろうとも獅子王ししおうが勝つって信じてる。体育祭に出さえすればほかの生徒なんかぶっちぎりで抜いて一位をとってくれると信じている! だから、とっとと行け!」


 僕の怒声に、獅子王ししおうが泣き出しそうな表情を浮かべて、顔をひっこめた。


 運動場で聞きなれた獅子王ししおうの走る耳慣れた足音が遠ざかっていく。僕はそれを聞き届けて、どさりと地面に倒れこんだ。


 昨日からの運動でもう指一本動きやしない。


 なにはともあれ、なんとか無事に体育祭本番を迎えられたことに僕は一安心して瞼を閉じた。いや、僕が無事かどうかはまた別の話なのだが。


 とにかく、もう人事を尽くしたと僕は胸をはっていえる自信があった。これであとは天運を待つのみである。


 僕はゴールテープをつっきる獅子王ししおうの姿を幻視した。


「あら、いずみくんってそんな泥の中に半裸で眠る趣味でもあったのかしら? それならわたしも認識を変えなければいけないわね。」





 ただ、ひたすらに獅子王ししおうは雑木林を駆け抜けていく。


 泥と血だらけになった、一見では遭難者と見間違うような小汚い格好の獅子王ししおうの頭の中には、さきほどのいずみのまっすぐな瞳がいつまでも沁みついて離れなかった。


 獅子王ししおうは正直いって蛇塚へびづかに勝てると信じてはいなかった。


 いずみとあの日化学室で約束を交わした時も、勝利の可能性などはいっさい考慮していなかった。もちろん練習は頑張るが、どこか心の中で蛇塚へびづかを絶対に越えられない壁だと思っていた。


 だから、ほどほどに頑張って、体育祭では惜しいところで負けて、それで約束を口実にずっといずみに付きまとおうと、そう考えていた。


 だが、ああ。


 初めて出会った時と全く同じく、獅子王ししおういずみのことを侮っていたのだ。


 あの細い体を見れば一目瞭然だ。いずみはそもそもあまり運動などしてこなかったのだろうし、得意でもないだろう。


 そんないずみが、陸上部の部員でも音をあげるような練習に、絶えずついてきた。何があろうとも、何度倒れようとも、必ず獅子王ししおうの後ろにいた。


 その思いは、落とし穴での出来事を経て確信へと変わった。


いずみは本気で獅子王ししおうを信じているのだ。なんの特技も、才能もない獅子王ししおうがあの蛇塚へびづかに勝つことを本気で。


 ただ黙りこくって落ち葉だらけの大地を蹴る。


 幻視する、獅子王ししおうをずっと見つめてきた熱い瞳を。幻覚する、どんなに苦しくても獅子王ししおうの腕を離すことのなかった手を。


 いずみは、こんな自分のことを信じてくれているのだ。


 自らのふがいなさへの怒りをこめてコンクリートで舗装された地面を蹴る。


 それならば、自分は、獅子王ししおうという名のこの女子生徒はいったいなにをしているのだ?


 あんなにまっすぐな期待をうけて、自分を信じてくれる人がいて。それなのに、ふてくされてばかりで弱気になって初めから諦めてしまっていた獅子王ししおうはいったいなんなのだ?


「お前にとって、吾輩にとって、いずみ殿はいったい何者だ……。」


 自問自答を口に出す。


いずみ殿はどんなことがあろうとも吾輩を見捨てないでくれた、優しい人だ。どんなことがあろうとも吾輩に期待してくれる、大切な人だ。」


 そんないずみが、世界でたった一人の大切な人が獅子王ししおうが体育祭で勝利することを信じている、願っている。


「ならば、吾輩がすべきことは、なんだ……。」


 決まっている。いずみはあんなに体をボロボロにしてまでも自分を体育祭に送り届けてくれた。ならば、獅子王ししおうはその期待に応えるだけだ。


 その時、生まれて初めて獅子王ししおうは本気で自分を信じれるようになった。

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