第27話

 ここ数日、夜が寒くなって肌をつんとさすようになった。運動場にむかう前にはもう上着を羽織っていかないと風邪をひいてしまいそうなぐらいだ。


 紅葉は散り始めている。そのかわりに、冷たくて暗い風が吹くようになった。


 毎日が矢のように飛び去っていく。体育祭はもう明日に迫っていた。



 雨上がりでぐちょぐちょになった地面を蹴る。あちらこちらに飛び散った泥がぽつぽつと体操服に茶色の染みを作った。


 体育祭が近づいている今、獅子王ししおうと僕の練習は最終調整に入っている。本番にむけて体調を調節するため、ここ数日は僕たちも日中に走るようになっていた。


 遠巻きに僕たちを見つめるほかの敵対選手の視線を感じる。その多くは、呆れや嘲りをこめた目つきだった。


 恐らくは獅子王ししおう双六原すごろくはらとの関係が終焉を迎えたという噂が半ば確信をもって校舎中を飛び回っているからであろう。


 一人も後援者なし、特にドーピング用の薬の提供者なしに今年の体育祭を勝ち抜くことが不可能なのは、この高校の一般教養だ。もはや敵対選手たちは獅子王ししおうに気を払うまでもないと考えているのだろう。


 周囲から大いに警戒されている選手は他にいた。


 まるで地表ギリギリを滑空する鷹のような速さで運動場を駆け抜ける、その人影は蛇塚へびづかである。


 梅小路うめこうじがドーピングの薬品を入れ替えてからしばらくが経っている。そろそろ効果が切れ始めていてもおかしくないのに、蛇塚へびづかは依然として他の選手を遠く引き離す成績をたたき出し続けていた。


 走り終えた蛇塚へびづかに周囲からの無数の視線が突き刺さる。


 賭博に自身の全財産をかけている生徒は期待の目を、敵対選手からは嫉妬と羨望の目をむけられた蛇塚へびづかは間違いなく今回の体育祭の主役であった。


 獅子王ししおうと決裂してもはや自身が支援していることを隠す必要もなくなった双六原すごろくはら蛇塚へびづかへと駆け寄っていく。取り巻きをぞろぞろと引き連れたその一団はついには校舎へとすがたを消していった。


 その姿を見届けたその場に集まったやじ馬たちはいつまでも興奮した様子で語りあっている。蚊帳の外の僕たちはひたすら黙々と練習を続けた。



いずみ殿。やはり吾輩では蛇塚へびづかには勝てぬのだ。」


 あれからしばらく練習を続けたころには、すでに日が暮れ始めていてあたりは薄暗くなってきていた。運動場脇の階段に腰かけた獅子王ししおうが僕から水筒を受け取る。


「そんなことないよ。」


「いや、今日の蛇塚へびづかの走りを見ればわかる。吾輩にはあそこまで速く走ることなど土台無理なのだ。」


 暗い瞳をした獅子王ししおうが手元に目線を落とす。


「もともと無茶だったのだ。たとえドーピングなしの条件でも体育祭で勝利することなど、不可能なのだ。」


「………獅子王ししおう、大丈夫?」


 真っ赤な夕日が逆光となって、僕からは獅子王ししおうの表情がよく見えなかった。獅子王ししおうはひどく沈んだ声で続ける。


「わかっただろう、吾輩はまったくもって無価値なのだと。こんななんのとりえもない吾輩はもういずみ殿しかよりどころがない………。」


「まだ体育祭は始まってすらいないじゃないか、そんなに悲観的にならなくてもいいよ。僕は獅子王ししおうのことを信じてる。」


 蛇塚へびづかの練習の様子をみて完全に意気消沈してしまったらしい獅子王ししおうを僕はなんとかして励まそうとした。


 が、獅子王ししおうはもう完全に燃え尽きてしまったかのようにうなだれている。


「もう結果は火を見るよりも明らかであろう。頼む、ここでやめさせてはくれぬか………。」


獅子王ししおう……。」


 思いのほか深刻に思い詰めているらしい獅子王ししおうに詰まって言葉をかけられない。しばらく僕が悩んでいたその時、校舎のほうからなにやら足音が聞こえてきたような気がした。


 運動場のほうへと近づいてきている。しかも、かなりの人数だ。


 僕は咄嗟に獅子王ししおうを押し倒した。驚く獅子王ししおうの口元を押さえながら、会談の段差に身を潜める。


 そうして耳を澄ませていると、こちらに向かってきている生徒の一団の会話がよく聞こえてきた。


「それで、ほんとにその獅子王ししおうってやつはこんな夜の運動場でまだ練習してんのかよ。だいたいそいつはドーピングすらしてねぇんだろ、そもそも痛めつける必要なんてあるか?」


「いや、双六原すごろくはらの兄貴の指示だ、間違いはない。確実にいきたいのだろう、万が一があってはならないからな。」


「へいへい、面倒なこって。」


 漏れ聞いた会話に思わず舌打ちをしてしまいそうになる。


 これまで双六原すごろくはららほかの選手たちの陣営が僕たちに妨害を加えてこなかったのは、この体育祭の前日という直前の時期に回復不可能な損害を与える機会を伺っていたからなのだ。


 とにかく、今すぐこの場を離れなければならない。ここでリンチでもされればほんとうに取り返しがつかなくなる。


 僕と同様その一団の会話を盗み聞きしていた獅子王ししおうに目配せをする。頷きが返ってきたのを確認して口元から手を離した。


 僕たちはそっとずつ匍匐して一団から離れようとする。しかし、少々遅きに失したようだった。


「おい、いたぞ! 階段のところに隠れてやがる!」


 背後から突然怒声が聞こえてくる。それと同時に僕たちは立ち上がって全力疾走を始めた。


 校舎から漏れ出てくる明りに照らされて双六原すごろくはらの差し向けてきた一団の全容があらわになる。十数人はいるであろう屈強な体格の生徒たちの姿に嫌気がさしながらも僕たちは死に物狂いで逃亡を開始した。


いずみ殿、いったいどこに逃げればいい!」


「校舎のほうはもう封鎖されてる、森の中に逃げよう!」


 背に腹は代えられないとばかりに二人して暗い木々の間をかけていく。ビシバシと顔や腕にあたってくる木の枝が無数の擦り傷を体に残していった。


 背後からは相変わらず怒号が聞こえてくる。それらからさらに逃れようと足に力をこめたその時だった。


 すっぽりと足を踏み出した先の地面が抜け落ちる。


 落とし穴に誘いこまれたらしいと気がついたころには、僕たちは泥だらけの穴の底に横たわっていた。状況を把握する間もなく、頭上から光が照らされる。


 隣に倒れる獅子王ししおうの上に覆いかぶさってかばう。そのまま頭上からなにが投げこまれてくるかと戦々恐々としていると、聞きなれた真面目そうな声が聞こえてきた。


「ふう、思いのほかうまくいきましたね。準備をするのはとても骨が折れますが、結果を見ればそのかいもあったというものです。」


「……双六原すごろくはらさん。」


「久しぶりですね、二階堂にかいどうくん。何週間ぶりでしょうか?」


 眩い光が差しこんでくる穴の入り口から顔を出していたのは、双六原すごろくはらだった。


「いやはや、いくら疎遠になっているからといって数奇院すうきいんさんの庇護下にある二階堂にかいどうくんに暴力をふるうわけにはいかなかったものですから、こんな手段を取らざるを得なかったんですよ。」


 数奇院すうきいんの名を口にするたびわずかに恐怖の色をのぞかせながら、双六原すごろくはらがその目的を語る。つまりは数奇院すうきいんからの制裁を恐れて落とし穴という手段に落ち着いたらしい。


 危害を加えられることはないとわかったものの、あの双六原すごろくはらが悪戯のためにこんなことをするわけがない。


「それなら、今すぐここから出してくれませんか?」


「おお、おお、それは無理な相談というものですよ。なにしろ二階堂にかいどうくんが体の下にかくまっている獅子王ししおうさんは自分の愛しい蛇塚へびづかの敵なのですから。」


 ニコニコと相変わらず贋作の笑みを浮かべながら、双六原すごろくはらは穴の入り口から姿を消す。


 一歩後ろにひいたらしい双六原すごろくはらがなにやら周囲の手下に指示を出したと思うと、巨大な金属板がゆっくりと落とし穴の上に覆いかぶせられ始めた。


「それでは、また明日の夕方に会いましょう。体育祭の授賞式はお見せして差し上げますので、どうかご安心を。」


 何枚かの食パンが入ったビニール袋が放りこまれる。どうやらこれで一日しのげということらしい。


 双六原すごろくはらのやけに耳障りな笑い声が止むとともに落とし穴は金属板に完全に塞がれ、暗黒につつまれた。

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