第26話

 獅子王ししおうが目を見開く。


いずみ殿、その話はほんとうか……?」


「もちろん、嘘はつかないよ。体育祭で一位をとれなかったら僕が責任を取る。だから、もう一度だけ練習を頑張ってみないか?」


「う、うむ。わかった、やってみるのだ。」


 獅子王ししおうが歯切れ悪く承諾する。その様子を遠くで眺めていた梅小路うめこうじが信じられないとばかりに丸椅子を蹴り飛ばしながら立ち上がった。


いずみはん! あんた自分がなにを言っとるんかわかっとんのか!? この下種で下劣でクズな虫けらのために人生を棒に振るかもしれんねやで!?」


 憤る梅小路うめこうじを僕は静かに見つめ返す。


獅子王ししおうがまた人並みに暮らせるようになるんだったら僕はなんだってするさ。」


「…………この、アホ。」


 あきれ果てたかのように椅子に深々と座りこむ梅小路うめこうじに僕は頼みごとがあった。


みやびさん、手伝ってほしいことがあるんだけれど。」


「…………なんや、言ってみい。」


「体育祭のほかの選手にもドーピングをやめさせたいんだ。」


「はいぃ?」


 信じられないことを耳にしたとばかりに梅小路うめこうじが聞き返してくる。その、未確認生命体を観察するかのような目を見つめていると、ふてくされたように梅小路うめこうじが実験台の上につっぷした。


「いや、そんなんお断りやわ。ドーピングを止めさせるんは獅子王ししおうだけ、そういう話やったろ? いったいどうしてうちがそんな面倒なこと手伝わなあかんねん。」


 そう言い放つと同時に僕の話には聞く耳を持つつもりはないとばかりに耳を手でふさいだ梅小路うめこうじにむかって身を乗り出す。


 今僕が考えていることはとてもじゃないけれど僕一人だけでできるようなことじゃない。梅小路うめこうじの助けが間違いなく必要だった。


「へぇ、みやびさんはもっと正義感が強い人だと思ってたのになぁ。」


 梅小路うめこうじの耳元にささやく。


「…………なんや、どういうことや。」


「いや、普段は悪人なんて人じゃない、悪は決して許されてはいけないなんて言ってたのに、結局ドーピングを目の前にしてもみなかったことにするんだなぁ、って思っただけ。」


 僕の安っぽい挑発にぴくぴくと梅小路うめこうじの指が動く。梅小路うめこうじが奮起してくれることを願いながら、僕はそのまま思いつくばかりの皮肉を言い連ねた。


「いや、べつに責めてるわけじゃなくて。ただ、みやびさんはそういう口先だけの人なんだってちょっと失望したんだ。しかたないよね。」


 ギョロリとつややかな黒髪の間から恨めしげな目が僕をにらみつけているのに気が

つく。


 ――――――――――多分、みやびさんは自信がないんだよね?


「あああぁぁぁぁ! わかった、わかったわ! 手伝えばええんやろ!」


 梅小路うめこうじが爆発したかのように飛び起きる。ジト目で僕を凝視しながら梅小路うめこうじは恨み節を呟いた。


いずみはんはいつからこない性格がねじ曲がってしまったんや。」


「さて、もしかしたらみやびさんのおかげかもね。」


 梅小路うめこうじに言質をとりつけて一息ついた僕に、梅小路うめこうじがガクリと肩を落とす。そして、どこか投げやりな口調で僕に問いかけた。


「それで、ドーピングを止めさすちゅうて、どないすればええねん? まさか選手全員にこれから説得して回るわけやないやろな?」


「いや、そんなことはしないよ。そこで梅小路うめこうじにやってほしいことがあるんだ。」


 訝しげな梅小路うめこうじに僕はかねてから考えていたことを口にした。


「ドーピングにつかってる薬はたぶん村の商店に頼んで、"郵便屋"を通して手に入れてるんだと思う。なら、その薬を入れ替えれば選手の人たちをだますっことができるんじゃないかな?」


 ドーピング用の薬物は当然生徒が一から用意しているわけではない。必ず市販薬から成分を抽出して手に入れているはずだ。神子かみこ高校ならその入手先はほぼ近くの村の商店と考えて間違いないだろう。


 ということは、もしもその市販薬を特定し、そして無害のものに入れ替えることができればドーピングは防げるわけだ。


みやびさんにはどの市販薬を材料にしているのか、そして精製の過程を経ても一見してドーピング用の薬物と同じようにみえるものを用意してほしいんだ。お願いできるかな?」


 自分でもかなり危ない橋を渡っているのは理解している。確実に犯罪だし、もしも入れ替えている最中に捕まれば少年院に行くことになるかもしれない。が、僕にはこのほかに方法が思いつかなかった。


 説明し終えた僕の目の前で、梅小路うめこうじがひくひくと口の端を震わす。


いずみはん、どないしてこない悪どいこと考えるようになったんや……?」


 シクシクとなにかを悲しんでいる梅小路うめこうじを無視して、再び獅子王ししおうに向き直る。


「それじゃ、よろしくね?」


「う、うむ。」


 目を泳がしながらも、獅子王ししおうは確かにしっかりと頷いた。



 夜の運動場に荒い呼吸音が響き渡る。はるか先をかける獅子王ししおうの背中を見つめながら、僕は節々が痛む足を酷使した。


 僕と獅子王ししおうは人目につかないよう夜の間に練習することにした。日中に練習をしてほかの生徒から妨害が加えられることを警戒したのである。


 このまま夜明けまで練習したのち、朝早くにカーテンを締め切った化学室まで戻る。そして授業を完全にサボって泥のように眠りにつくのがここ最近のルーティンであった。


 真っ暗な運動場を二つの人影が何往復もする。


 つい先日まで引きこもっていたのが噓のように獅子王ししおうは速かった。やはりさすがというべきか、隣で走る僕は追いつけもしない。


 しばらくして遠くの山際から真っ赤な朝日が昇ってくる。練習終了の合図だ。


 ばたりと二人してグラウンドの砂の上に寝転がる。荒い息を整えていると、遠くから梅小路うめこうじが近づいてくるのが見えた。


「なにも、いずみはんまで走らんでもええやろに。」


 あきれた口調で梅小路うめこうじが麦茶の入った水筒を手渡してくれる。獅子王ししおうにその水筒を飲ませながら、僕は静かに首を横にふった。


「いや、獅子王ししおうの練習に本気でつきあうって決めたからには一人で走らせるわけにはいかないよ。」


「ふぅん、そんなもんか………。」


 僕の言葉を理解していない風に生返事で横に流した梅小路うめこうじが僕の耳元に口を近づけてくる。


「多分やけど市販薬も特定できたし、入れ替え用の薬も用意の目途がたったで。調合でき次第すぐに村の商店まで行ってくるわ。」


 梅小路うめこうじの言葉に僕はすぐさま体を起こした。薬の調合までしてもらった上に本当の犯罪の片棒まで担がせるわけにはいかない。


「いや、そこまで任せるわけにはいかないよ、せめて入れ替えは僕が………。」


「ええねん、そないなことはうちがやったる。そもそも薬調合した時点で共犯者や。それに村には用事があるしな。」


 梅小路うめこうじが珍しく強い語気で僕を押しとどめる。そして水筒を回収すると足早に校舎へとむかっていった。


「じゃ、また化学室で会おうな。きちんとその体操着は着替えてくるんやで。」


 立ち上がって遠ざかる梅小路うめこうじの背中を見つめていると、体操服の袖が引っ張られる。振り向くと、獅子王ししおうがもじもじしながら手を差し出してきた。


 しかたがない。僕はゆっくりその手を握り、獅子王 《ししおう》を助け起こす。そして手を握ったままシャワー室に向かった。


 例の約束をしてからは自重してくれているのか、獅子王ししおうが僕の腕に引っついてくることはなくなり、僕たちが一緒にトイレに行くこともなくなった。


 しかし、完全に僕への依存を断つことはできなかったようで、獅子王ししおうはことあるごとに僕と手をつなぐことを要求するようになったのだ。


 獅子王ししおうの抱える心の問題の深さに内心頭を抱えながらも、僕はその要求をできる限り従うことにした。


 少しでも拒絶してしまったら獅子王ししおうがガシャリと割れてしまうように感じられたからだ。これでも獅子王ししおうは恐怖を抑えこもうと必死に努力しているのだろう、だったらその努力を僕は認める義務があった。


 獅子王ししおうとふたり、運動場を後にする。そんな時、僕はふと視線を感じたような気がした。


 ばっと校舎の二階を見あげる。窓からちらりと銀にきらめく髪が視界をかすめた。

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