第25話

 視線を感じる。


 化学室の居心地の悪い丸椅子に座って勉強をしている僕は、その脇から感じる熱烈な視線にとうとう耐えきれなくなった。


「どうしたの、獅子王ししおう?」


 僕が声をかけると、獅子王ししおうがニヘラと笑みを浮かべる。教科書を押さえる僕の左腕に絡められた獅子王ししおうの手にさらに力がこめられた。


「ようやくこっちを向いてくれたのだ。」


 猫にでもなったのか、ぐりぐりと肩に頭を擦りつけてくる獅子王ししおうに、僕は遠い目を浮かべながら窓の外を見つめた。


 あの日、あの山奥の小屋で梅小路うめこうじが冗談交じりにした提案に飛びついた獅子王ししおうはそれから一言一句違わず対価を享受している。


 ここ数日、獅子王ししおうは文字通り僕から片時も離れず抱き着いたままでいるのだ。


 それがどうした、と思う人もいるのかもしれない。だが、ここでいう"ずっと"は辞書通りの意味なのだ。つまりトイレやらなんやらのプライベート空間もすべて獅子王ししおうと一緒なのである。


 初めて女子トイレに足を踏み入れた時を思い出し、羞恥心に襲われる。


 男子トイレで僕が用を足すときまで引っついてきたことから想像するべきだったのだが、獅子王ししおうは僕なしでトイレになど行くつもりはさらさらなかった。


 女子トイレまでついてきて欲しいと要求された時に僕は咄嗟に断ってしまったのだが、なんと獅子王ししおうはそれならばとペットボトルを要求してきたのだ。


 さすがにそこまで堕ちた獅子王ししおうを眼前で見せつけられたくなかった僕はしぶしぶ女子トイレまでつきあわざるを得なかったのである。もちろんここでいう女子トイレにつき合うというのは個室の中を含む。


 ことの全てを説明して見張りを頼んだ時の梅小路うめこうじのあきれた視線が今でも忘れられない。


 見ざる聞かざるの信念でことを行っている獅子王ししおうに背をむけて個室の壁を凝視せざるを得なかった僕の心情を理解できる人間は果たしてこの地上にいるのだろうか?


 ここで一応断っておくと、僕は何度も獅子王ししおうを引きはがそうと試みたのだ。そのたびに泣き叫ばれては断念せざるを得なかったのである。


 それに、最悪の事態も起こりかけた。


 ある日の夜、化学室の実験机の上で横になっている間、僕の体に絡みついていた獅子王ししおうの腕を起こさないようほどいて姿を隠したことがある。


 さしもの獅子王ししおうも僕の姿を見つけられなければ諦めるだろうと考えたのだが、僕の予想は悪い意味で裏切られた。


 僕の姿を求めて迷子の幼児のように泣き叫びながらしばらく化学室をさまよった獅子王ししおうは、しばらくすると化学準備室の薬品庫に入っていったのだ。


 なにをしようとしていたかは考えたくもない。今となっては僕の浅はかな企みを猛省するばかりである。


 すぐさま姿を現した僕はまたいなくなるのではないかと目を閉じられなくなった獅子王ししおうを抱いて一晩中背中をさすってやらなければいけなかった。


 それから僕は決して獅子王ししおうに抵抗しようとは決して考えないことにしている。


いずみ殿、温かい……。」


 僕の首筋に頬ずりしながら獅子王ししおうが恍惚としたような声で呟く。僕はひたすら黙って獅子王ししおうの頭を撫でた。


 獅子王ししおうの変化はそれだけにとどまらない。


 最近、僕は獅子王ししおうがどこか幼児退行しているかのように感じることが多々あった。とにかく発言の端々が幼く、すぐに泣き出してしまう。


 そして、なによりも獅子王ししおうは僕が失望することを極度に恐れていた。


 とにかく何事をするにしても僕の承認がなければ動けない。承認欲求の全てを僕に依存しているかのような獅子王ししおうはとにかく僕に褒められたがった。



 もちろん、こんなことが長続きするはずがない。


 ここ数日は控えているものの、シャワーもお風呂にだって入れやしない現状をこれ以上続けることはできないし、よしんばそれらの問題を解決したとてその先も前途多難である。


 そもそも高校を卒業してからいったいどうするというのだろう。


 ここまで僕に依存してしまっている獅子王ししおうがまともな日常生活を送ることができるとは思えない。そしてなにより、こんな僕にべったりな日々が獅子王ししおうにとって真に幸せだとは思えなかった。


「相変わらずうっとうしいわ、獅子王ししおうはんは。いずみはんから離れたらどうなんや。」


 梅小路うめこうじがコーヒーがなみなみと注がれたカップ片手に僕の前に座る。山小屋の一件以来、梅小路うめこうじに苦手意識を抱いているらしく、獅子王ししおうはさっと僕の背中に隠れてしまった。


「それでどうしたんや、いずみはん。そないシケた顔してなんか思うことでもあんのか?」


「いや、さすがに獅子王ししおうにひっつかれ続けるのはもうそろそろ限界というかなんというか…………。」


 僕が離れたがっていることを仄めかすと、背中で獅子王ししおうがビクリと震えるのを感じる。より一層力をこめて僕にしがみついてくる獅子王ししおうを興味なさげに見つめた梅小路うめこうじはズズッと暗黒の液体を口に流しこんだ。


「まあ、獅子王ししおうはんのことは虫けらだとでも思えばええんちゃうか? 風呂に入っとる時に蚊が飛んどってもうっとうしいぐらいで嫌ではないやろ?」


 梅小路うめこうじの言葉に首を振っているのか、密着した獅子王ししおうの体から振動が伝わってくる。


「それは根本的な解決にならないっていうか………。」


「やったら簡単や。そないに獅子王ししおうの世話が面倒なんやったら捨ててしまえばええ。ドーピングなんかするやつや、どこで野垂れ死にしようが誰も気にせんで。」


「それはできない。獅子王ししおうには幸せでいてほしいから。」


 梅小路うめこうじの提案を僕はすぐに否定する。そもそも獅子王ししおうをここで見捨てるぐらいなら初めからドーピングをやめさせようとなどはしていない。


 獅子王ししおうがゆっくりと体を僕にもたれかけてくる。その様子を見ていた梅小路うめこうじは舌打ちをした。


「そないに優しいから獅子王ししおうがつけあがるんや。甘やかしすぎやで、ほんま。」


 僕はそっと背後の獅子王ししおうを隣の丸椅子に座らせる。僕の左腕にべっとりとへばりついたままの獅子王ししおうに、僕はかねてからの疑問を問いかけた。


「どうして獅子王ししおうはそんなに僕から離れたくないのかな?」


 獅子王ししおうが頬を腕に擦りつけながら口を開く。


「吾輩にはいずみ殿しかおらんのだ。いずみ殿のほかには誰も吾輩のことなど気にかけてくれないのだ。だから、いずみ殿にだけには失望されたくない。」


「ほんま、全くその通りやわ。いずみはんでもなければこんなクズ助けようとはせんやろな。」


 余計な口を挟んだ梅小路うめこうじを軽く睨んでから、視線を落とす。僕を見つめるどこか熱っぽい獅子王ししおうの暗い瞳に引きこまれそうになりながら、僕はそんなことはないと伝えたかった。


「そんなことはないよ、獅子王ししおう。目に見えてないだけで絶対に僕以外にも獅子王ししおうのことを気にしている人がいるって。」


 しかし、獅子王ししおうは聞く耳を持たなかった。


「嘘だ。どうして吾輩のことを気にする人間がいるというのだ? 吾輩と仲良くしてもなんの利点もない。平凡な吾輩のことを考えてくれるのは優しいいずみだけだ。」


 獅子王ししおうが自嘲するように口の端を持ちあげる。そんな自虐的な獅子王ししおうに僕はなんとか食い下がろうとした。


「嘘なんかじゃない、獅子王ししおうはすごい人だよ。ついこないだまでずっと練習を続けてたでしょ、あんなこと僕には絶対にできないって。」


「結果、結果を出さなければ意味がないのだ! どんなに努力したとしても結果を出さなければ吾輩は無価値なのだ!」


 獅子王ししおうが突然気が狂ったかのように声を荒げる。怯えるように体を震わせながら僕にしがみついてくる獅子王ししおうの瞳には諦念と悲嘆が入り混じって混在していた。


 しばらくの間、獅子王ししおうを抱きしめてなだめる。嗚咽交じりの獅子王ししおうは僕の肩に顔を埋めた。



「ほんとうはわかっておるのだ、いずみ殿に迷惑をかけているだけだというのは……。」


 しばらくして獅子王ししおうが魂の底から汲み上げたかのような声を絞り出す。


「だが、吾輩にはもういずみ殿しかいない。結果をだせない吾輩はもういずみ殿に溺れるしかないのだ………。」


 その背中を撫でながら、僕はゆっくりと獅子王ししおうに言い聞かせた。


「大丈夫、獅子王ししおうならきっと結果を出せる。」


蛇塚へびづか相手でも………? ドーピングなしでも………?」


 獅子王ししおうが心底怯えているように体を震わす。


 僕は覚悟を決めた。今の獅子王ししおうの依存癖を直そうというのなら、僕もそれ相応に危険を冒す必要がある。それこそ人生ぐらい重いものを。


「うん、今度の体育祭で一位をとろう。もしダメだったらその時は僕が一生傍にいるよ、なにがあろうとも絶対に。」

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