第24話

「し、獅子王ししおう……?」


 恐る恐る僕は床に横たわる獅子王ししおうに声をかける。虚ろな瞳の獅子王ししおうがゆっくりと顔をこちらに傾けた。


「あ、いずみ殿がいるのだ。やったぞ、体育祭で吾輩は一位をとってみせたのだ。」


 意味をなさない言葉を垂れ流しながら獅子王ししおうがどこか気が狂ったかのように僕のことをトロンとした瞳で見つめる。獅子王ししおうは明らかに正気ではなかった。


「どうした、優勝したのだぞ? それもいずみ殿のおかげだ。いずみ殿がいなければ吾輩は何もできなかったのだからな。」


 胡乱げに焦点のあっていな目つきの獅子王ししおうにむかって一歩足を踏み出す。そのとたん、獅子王ししおうが飛び跳ねるように後ずさった。


 瞳が恐怖に揺れている。アルコール依存症患者のように震えが止まらない手足を縮こまらせながら、獅子王ししおうはひたすらに部屋の隅でなにかに怯えていた。


「ヒッ! いやだいやだいやだ、見捨てないで見捨てないで見捨てないで………。」


獅子王ししおう…?」


 誰に見捨てられることを恐れているのだろうか、まさか双六原すごろくはらのとなのか? ますます僕の頭の中に疑問符が増えていく。


「チッ、えろうムカつくな。こないぶつぶつ独りごちとったらうるさくてかなわんわ。」


 未だなにごとか呟いている獅子王ししおうにうんざりしたかのように梅小路うめこうじが舌打ちをした。その錯乱した様子に圧倒されてしまった僕の横をひどく冷たい顔をした梅小路うめこうじがすり抜けていく。


 カツカツと無神経に部屋を横断して立ち止まった梅小路うめこうじは、無頓着に獅子王ししおうの胸倉を掴んで無理矢理に立たせた。


「おい、なに意味わからんことぬかしとんのや! 黙らんか!」


 突然、梅小路うめこうじが怒鳴りだす。大柄な梅小路うめこうじの激しい剣幕に獅子王ししおうはヒィッと小さく悲鳴をあげた。


「いきなりなにをするんだ!」


 慌てて獅子王ししおうから梅小路うめこうじを引きはがす。獅子王ししおうを抱き締めて背後にかばいながら僕は梅小路うめこうじから距離をとった。


「なに、埒があかん思てな。ビービー泣き言いっとるんがなんかムカついたからやってもた。」


 獅子王ししおうへの嫌悪感を微塵も隠すことなくあっけらかんとのたまう梅小路うめこうじに、僕は頭痛がする。ほんとうに、この梅小路うめこうじという少女は頭がおかしいんじゃないかと思ってしまう。


 そんな時、ふと自分のシャツが誰かに引っ張られていることに気がつく。視線を下げると、僕の後ろに隠れている獅子王ししおうがマジマジと僕を見つめていた。


獅子王ししおう……?」


 ペタペタとその小さな手で僕の顔を触ってくることに僕が困惑していると、獅子王ししおうがポツリと呟いた。


「これは、もしかして幻ではなく、本物?」


 どうやらようやく目の前にいる僕が実体を持っているらしいと気がついた獅子王ししおうが、目に涙を浮かべ始める。


 次の瞬間、反応する間もなく、獅子王ししおうは僕に飛びついて泣きわめきだした。


 突然のことに、僕はぽかんとして言葉が出ない。万力のような力をこめて僕に抱き着いている獅子王ししおうは僕のシャツの上に涙と鼻水をべとべとにこすりつけながらいつまでも号泣し続けていた。



「落ち着いた?」


「うむ。」


 獅子王ししおうに魔法瓶に入ったコーヒーを手渡す。それをチョビチョビとすする獅子王ししおうはズビッと鼻をすすりながら子供のように頷いた。


 離れたところで耳を抑えていた梅小路うめこうじは未だどこかイラついた様子でひっきりなしに部屋の中を歩き回っている。時折その鋭い視線が向けられて獅子王ししおうが怯えるたび、僕は獅子王ししおうを強く抱きしめて安心させてやらねばならなかった。


 落ち着いて変な独り言を口走らなくなったとはいえ、それでも獅子王ししおうは前とは全く異なってしまっていた。


 まず、僕に両腕でしがみついて離れようとしない。


 僕がすこしでも獅子王ししおうの腕から抜け出ようとするとまるで子供のようにひきつけを起こして泣き出しそうになるのだ。


「それで、いずみ殿はほんとうに吾輩に失望していないのだな?」


「してないって。何度も言ってるでしょ、獅子王ししおうは僕の大切な友達なんだから。」


 そしてもうひとつ。僕に邪険に扱われることを獅子王ししおうは哀れにみえるほど恐れていた。


 ことあるごとに僕の機嫌を心配げにうかがってくる獅子王ししおうにため息をこぼしそうになるのを僕はこらえる。今の獅子王ししおうはなぜか数奇院すうきいんに勝るとも劣らないほどの僕に対する異様な執着心を抱いているらしかった。


「そもそも僕がどうしてそんなことを考えると思うの?」


 獅子王ししおうが動揺しないように僕はそっとその理由を探る。どう考えても今の獅子王ししおうの異常な僕への依存は望ましいものでもなければ看過されるべきものでもない。


 しゃくりあげながら、獅子王ししおうがゆっくりと口を開く。


「吾輩がこの高校に来る前もドーピングしていたといずみ殿は知ったのだろう? なら、絶対に吾輩のことを嫌いになったはずだ、だって吾輩は……。」


「そうならそもそも今ドーピングをしていると知った時点で獅子王ししおうとは関わりあいにならないよ。こんなにドーピングを止めろって言ってるのも獅子王ししおうが心配だからでしょ?」


 獅子王ししおうのよくわからない論理に、僕の頭は混乱してきた。そもそもどうして僕が獅子王ししおうを嫌っていることになるのだろう?


「わ、吾輩わがはいは、いずみ殿をだましていたのだ!」


 獅子王ししおうがますます僕に体を密着させながら錯乱したように僕の胸元に頭を埋める。


「どういうこと?」


「吾輩は初めから体育祭に出るつもりなどなかったのだ、吾輩はいずみ殿のやさしさにつけこんで料理の腕を盗もうとしたのだ、そんな吾輩でもいずみ殿は許してくれるか?」


 獅子王ししおうがどんどんと僕の胸元に頭を押しつけてくる。それがちょうど鳩尾に突き刺さった僕は息が苦しくなって慌てて口を開いた。


「いい、いいから頭をぐりぐりしてくるのを止めて!」


「ほんとうか! いずみ殿はやはり優しい、こんな吾輩を受け入れてくれるとは……。」


 獅子王ししおうがますます僕の胴に回している腕の力を強める。もうこらえきれなくなった僕はその腕を掴んだ。


獅子王ししおう、言いたいことはわかったからそろそろ僕から離れてくれないかな?」


「え…………? やはりいずみ殿は吾輩のことが嫌いになったのか?」


 その腕を無理矢理どかそうとすると、獅子王ししおうが今にも泣きだしそうな顔で僕を見上げる。そのうるんだ上目遣いに僕は再びしばらくの間弁明を続けなければいけなかった。


「それでも、獅子王ししおうもわかってるでしょ? このままこうしていたらごシャワーだって浴びれないしトイレにだって行けないよ?」


「…………吾輩と一緒にすればよいではないか。」


「はいぃ?」


 とんでもないことを言い出した獅子王ししおうに僕は目を丸くしてまじまじと見つめてしまう。しかし、獅子王ししおうはいたって真剣なようだった。


「もう茶番はええわ。さっさと離れ、獅子王ししおう。」


 しびれを切らした梅小路うめこうじ獅子王ししおうの腕を掴んで引っ張るも、まるでコアラのように僕にしがみついた獅子王ししおうは決して手を放そうとしない。


獅子王ししおう、ほんとにこのままひっつかれてると大変だから、ね? 離れてくれないかな?」


「…………。」


 僕が説得しようとするも、獅子王ししおうは僕のおなかに顔を埋めて身じろぎ一つしなかった。途方に暮れる僕の横で、梅小路うめこうじが心底嫌気がさしたようにため息をつく。


「なあ、獅子王ししおう。せやったらドーピング止めたらいずみから離れんでもええわ。どうや、腕離す気になったか?」


 梅小路うめこうじが冗談のような口調で獅子王ししおうに提案する。


「…………うん。」


「は?」


「…………それでいい。いずみ殿とずっと一緒にいられるのならドーピングなんかどうでもいい。」


 一瞬僕は獅子王ししおうの言っている言葉の意味がわからなかった。それは梅小路うめこうじも同じだったようで、こめかみをぐりぐりと指で押しながら珍しく困惑している。


 まるで真昼に幽霊でも見たかのような様子の梅小路うめこうじをしり目に獅子王ししおうはますます僕に体を密着させ、ニヘラと幼児のように笑みを浮かべる。


「とりあえず一件落着、ってことになるんかこれ?」


 疑問符が山ほどついた梅小路うめこうじの言葉が狭い山小屋の中に響いた。

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