第23話

 獅子王ししおうが走り始めたのは、小学生のころだった。獅子王ししおうの小学校では高学年になると軽い部活のようなことを始めることになっていたのだ。


 陸上を選んだのに特に深い理由はない。強いて挙げれば登下校の途中で土手の上の道を走るのが楽しかったからだろうか。


 とにもかくにも、獅子王ししおうは放課後に短距離を走りだした。


 才能に恵まれていたかというと、そんなことはない。それどころか、ビリから数えた方が早いぐらいだった。


 そうして惰性で中学も短距離を走り続けていた獅子王ししおうの運命が狂ったのは、入学してすぐにあった地方大会でのことだった。


 なんと、今まででは考えられないほどいい成績をたたき出し、あともう少しで表彰台に手が届くところまでいったのだ。しかし、獅子王ししおうはなによりも周囲の反応に目を見開く。


 数日前までつまらなさそうに手抜きの弁当を手渡してきた母が、面倒くさげに指導してきた先生が、ほかの同級生に構ってばかりで自分を放置していた先輩が。


 全員の獅子王ししおうを見る目が変わった。


 今までお世辞にも優れた特技など持っていなかった獅子王ししおうにとって、その期待も、その憧憬も、そして嫉妬でさえも目新しくなによりも心地よかったのだ。


 もっと、もっとと獅子王ししおうは周囲からの称賛を追い求めて練習に励むようになった。もはや走り出したころの純粋な楽しみ、喜びなどは心の中からすっぽりと抜け落ちてしまっている。


 そして、一度も注目されたことのない少女が初めて承認される快感を覚えたとき、それを正せる大人はどこにもいなかった。


 だが、それでも、その結果が真に獅子王ししおうの実力によるものならば、あるいは獅子王ししおうは危なっかしくもそのまま陸上の選手として歩む道もあったのかもしれない。少なくとも神子かみこ高校にまで落ちぶれることはなかっただろう。



 つまり、そうではなかったということである。


 その大会から数か月後、吉田製薬という会社が本業の片手間に製造していたスポーツドリンクに、誤ってドーピングの禁止薬物が混入していたことが判明した。


 なんと、複数のプロ選手がそれによって出場停止になったそうである。故意ではなかったとのちの調査で明らかになったとはいえ、多くの関係者に迷惑をかけた吉田製薬は弁明に追われた。


 特に問題だったのは、その飲料は広く一般的に市販されており、全国の人々が日常的に消費していた点だった。老若男女問わず、ちょっとした運動をしていた人々の間ではそこそこ知られていた商品だったのである。


 そして、それはくしくも練習の後に獅子王ししおうが好んで摂取していた飲料でもあった。


 獅子王ししおうはすぐさま病院に送られ、検査された。製薬会社の人間までも立ち会ったその検査の結果は、なんということはなかった。


 身体への悪影響はなし。摂取を止めてからしばらくすれば薬品の効果も消えるだろうと医者は告げた。


 ただ、飲料を摂取していた間に出場した地方大会については結果は無効とされた。製薬会社の社員の禿げあがった頭部を見つめる獅子王ししおうは、とくには気にすることはなかった。その認識が誤っていると気づくことはなかったのだ。


 お詫びの品としてタオルと菓子折りを受け取った獅子王ししおうは何の気なしに次の日学校に登校して、すぐさまなにかが終わってしまったことを知った。



 母はまたつまらなさげに弁当の具を手抜きし始めた。部活の顧問は面倒くさそうに走りこみを指示する。先輩はもう獅子王ししおうのことなどかけらも気にかけていなかった。


もう、誰もが獅子王ししおうへの興味を失っていたのである。それは、簡単な話だった。


 今まであまりぱっとしなかった新人がいきなり大会で結果を出したと思ったら、どうやら飲料に妙な薬品が混ざっていたらしい。なら、大会の結果はその飲料のおかげで実はその新人はたいしたことがなかったのだろう。


 普通でなくとも、そう考える人がほとんどだろう。そして、そんな考えは獅子王ししおうが次の大会で普段通りのたいしたことない成績で終わったのちにはさらに強まっていった。


 そして、周囲のその反応は獅子王ししおうには耐えがたいことであった。


 あんなに注目されたのは生まれて初めてだったのだ。あんなに自分のことが教室で話題になったのは初めてだったのだ。


 称賛の快楽に病みつきになってしまった幼い獅子王ししおうの精神はその事実に耐えられなかった。



 そして、薬に手を出した。



 すでに獅子王ししおうにとっては走ること自体などどうでもよかった。陸上は、少女にとっては自己の価値を高める手段になり下がったのである。


 そうして、承認欲求の塊となった獅子王ししおうは、自分の行いが正しいかも間違っているかもわからないままに、ただひたすらに走り出した。


 周囲の反応は一瞬で塗り替わった。自身への期待が高まっていく感覚に、獅子王ししおうの良心はたちまちのうちに麻痺してしまう。


 それから中学三年の夏にドーピングが発覚するまであまり時間はかからなかった。



 結局、獅子王ししおうはすべてを失った。


 部活の後輩や先生は獅子王ししおうを軽蔑のまなざしで見つめるようになったし、母親はもう弁当を作らなくなってしまった。


 獅子王ししおうははっきりと悟ったのだ。もう手遅れなのだと、誰も自分のことを気にかけていないのだと。


 神子かみこ高校。都市伝説のようにひそかにネットでささやかれる日本の高校の最底辺に落ちた獅子王ししおうにはすべてがどうでもよくなっていた。


 今でははっきりと獅子王ししおうにもわかっていた。


 自分のした行いは、決して容認されることのない悪なのだと。毎日ずっと欠かさずトレーニングをしてきた相手の選手に対する最大の裏切りなのだと。


 そして、その悪事を働いた自分にはもう誰も期待などしてくれるはずがなかった。誰も獅子王ししおうのことなど気にしない。よくて向けられるのは嫌悪と嘲笑ぐらいのものだろう。


 自分はしくじったのだ、もう獅子王ししおうというひとりの少女は終わったのだ。そう獅子王ししおうは達観していた。



 あの少年に出会う、その時までは。


 今から思えば、あの二階堂にかいどう いずみという少年は神子かみこ高校の生徒だとは信じられないほど甘かった。


 何の気なしに適当な理由をでっちあげて料理を教えろと迫った獅子王ししおうを、二階堂にかいどうは疑いもせずにすっかり信じてしまったのだ。


 そもそも獅子王ししおう二階堂にかいどうの料理の腕を盗んでひと儲けしてやろうとたくらんでいただけで、体育祭に出たいなどというのは真っ赤な嘘だった。


 それが、二階堂にかいどうがあんまりにもすんなりと信じていろいろと聞いてくるものだから、獅子王ししおうはなんと練習をせざるをえなくなってしまったのだ。


 それだけでも獅子王ししおうにとっては想定外だったのだが、極めつきはほかにあった。


 どんなに料理で失敗をしようが、二階堂にかいどうは決して獅子王ししおうを見捨てはしないのだ。


 実のところ、獅子王ししおうは初めのうちはわざと失敗をしていた。あまりにも二階堂にかいどうが純真に自分の言葉を真に受けるものだから、怖くなった獅子王ししおうは相手が自分を見放すまで下手くそを演じていたのだ。


 だが、二階堂にかいどうは決して獅子王ししおうに失望したりいかったりすることはなかった。それどころか、さらに親身になってずっと料理の練習につきあってくれるのである。


 それは、獅子王ししおうにとっては初めての体験だった。


 結果を出す出さないにかかわらず、二階堂にかいどうは絶えず獅子王ししおうに寄り添ってくれた。練習の間、二階堂にかいどうの瞳に獅子王ししおう以外が映ることはなかった。


 中学の頃の周囲の称賛がジャンクフードなのだとすれば、二階堂にかいどうの献身は違法薬物であった。


 獅子王ししおう二階堂にかいどうの優しさに溺れ、依存した。


 二階堂にかいどうのいう通り、体育祭にむけた練習を必死に頑張る。料理だって二階堂にかいどうの言葉を一言一句聞き漏らさないようにしてぐんぐんと腕前を上達させていった。


 そして、忘れもしない一年前のあの体育祭の日。


 スタートの合図とともに駆け出した獅子王ししおうは自分の体が今までで一番軽く感じることに気がついた。まるで羽根にでもなった気分で、獅子王ししおうはグラウンドを駆け抜けていく。


 周囲の声援や罵倒、歓声などはもはや気にならなかった。獅子王ししおうはただひたすらに観客席の最前列でじっと固唾をのんで自分を見守っている一人の少雨年だけを意識した。


 無限に思えるほどの力が体から湧きあがってくる。もはや今の自分に敵などいなかった。


 ぶっちぎりでゴールテープを突き破った獅子王ししおうが目にしたのは、二階堂にかいどうのとびっきりの笑顔だった。


 それは、卑怯だろう。獅子王ししおうの心が悲鳴をあげる。そんな顔をされてしまったら、もう後戻りできるはずがないじゃないか。


 ずぶずぶと自分が泥沼に落ちていくのを感じる。劇薬に等しい二階堂にかいどうの優しさに、獅子王ししおうは中毒患者となってしまったのだ。


 落ちるところまで落ちてしまった。そう自覚しながら獅子王ししおうは笑みを浮かべる。


 それはくしくも人生で一番幸せな笑顔だった。

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