第21話

「ふ~ん、ふ~ん。」


 梅小路うめこうじが鼻歌を歌っている。ここ最近、数奇院すうきいんと僕の仲が悪くなってから梅小路うめこうじは終始ご機嫌だ。


しずかと僕が喧嘩してるからって喜ぶだなんて、みやびさんも性格悪いよ。」


「ん? 悪人に騙されとった友人がようやく目が覚めたんやで、嬉しくなってもなんも問題ないやろ?」


 梅小路うめこうじがニコニコと悪びれもなく開き直る。そのままコーヒーを運んできた梅小路うめこうじに僕は問いかけた。


「ほんとうに蛇塚へびづか双六原すごろくはらの弱点になんだよね? 僕はあんまり信じられないんだけど。」


 今、僕たちは蛇塚へびづかに狙いを定めて弱みを探っていた。梅小路うめこうじが言うには、守りの固い双六原すごろくはらよりはどこか抜けている蛇塚へびづかのほうが手玉にとりやすいというのだが……。


「うん? そりゃそうやで。あたりまえやんか。」


 梅小路うめこうじはこともなげに断言してみせる。


「よく考えてみ? 双六原すごろくはら蛇塚へびづかのドーピングのおかげでこの神子かみこ高校に来たんやで? 普通なら顔もあわせたくないぐらい嫌いになるはずや。なのに一緒に悪事を企んどるんやで、これはなんかあるに決まっとるやろ!」


 心底見下しているように梅小路うめこうじが吐き捨てる。


 自分の考える悪人に対してはとことん厳しい梅小路うめこうじの相変わらずの様子に苦笑しながら、再びあの画集の蛇塚へびづかの部分の写しに視線を落とした時だった。


 コンコン。


 控えめに化学室の扉が叩かれる。僕は教卓の上にかかっている時計に目をやった。


 もうかなり夜が更けている。こんな時間にやってくるなんていったい誰なんだろう。すわ何者かの襲撃かとも警戒しながら、扉を開けたその先にいたのは。



いずみ殿、久しぶりであるな。少し話があるのだが、よいであるか。」



 どこか無理のある笑みを浮かべた獅子王ししおうだった。



 目の前に置かれた真っ黒なコーヒーを獅子王ししおうが虚ろな眼差しで見つめる。憔悴した様子の獅子王ししおうは最後に言葉を交わした時よりもずっとやつれてみえた。


「元気にしてた?」


「まぁ、そうであるな。体育祭にむけた練習で忙しくて若干ばてておるが、それでも不調ではないな。」


 言葉とは裏腹に獅子王ししおうの声は弱弱しかった。そんな獅子王ししおうの姿を見つめながら、僕はこんな夜中の訪問の真意を推測しようとしていた。


 ちょうど獅子王ししおうの後ろにたっている梅小路うめこうじ獅子王ししおうに見えないよう、一枚の紙きれをひらりとかざす。その双六原すごろくはらの紙の写しを目にした僕は、その意図を即座に理解した。


 そして、それはくしくも僕の考えと一致している。獅子王ししおう双六原すごろくはらの指図で僕たちのもとを訪れたに違いない。


「それでだな、いずみ殿。今日は大切な話があるのだ。」


 獅子王ししおうがコーヒーには一口も手をつけず、僕の目を見据えて話を切り出す。



「もう、吾輩のことは放っておいてほしいのだ。」



 それは、どこか僕が予期していた言葉であった。僕は慎重に言葉を選ぶ。


「それでも、僕は獅子王ししおうのことが心配だ。薬は体に悪いのはわかりきってるし、僕は獅子王ししおうに長生きしてほしい。」


 しかし、僕の思いは獅子王ししおうには伝わらなかったようだった。どこか思い詰めた様子で獅子王ししおうが語気を荒げる。


「いや、吾輩にはもうドーピングしか手段がないのだ! 体育祭で勝つためには、それぐらいしなければ蛇塚へびづかに勝てない!」


 落ちくぼんだ目でしきりに蛇塚へびづかの名を連呼する獅子王ししおうは、まるで死神の幻影に悩まされる死刑囚のような狂気を帯びていた。


「ドーピングしてもまったく蛇塚へびづかの記録に追いつけない、全然足りない、勝てないのだ! それなのにドーピングを止めるなどとできるわけがない!」


 強迫観念に突き動かされたように勝利とドーピングに固執する獅子王ししおうを背後から梅小路うめこうじが軽蔑したかのように見下す。


 僕はできる限り獅子王ししおうを落ち着かせようと話題を変えることにした。


「うんうん、わかったよ。それで、ドーピングの薬はどれぐらい使うよう双六原すごろくはらに言われてるのかな。」


双六原すごろくはらは、とにかく沢山渡してくれるのだ、できる限り多量を摂取したほうがよいと。薬剤師の親を持つからそういった薬には詳しいのだろうな。」


 獅子王ししおうの言葉に、僕と梅小路うめこうじは気づかれないよう目をあわせる。


 浴びるほどに大量の薬を獅子王ししおうに与える、それは蛇塚へびづかに対する扱いとは天と地ほどの違いがあった。


 あの日、僕たちが覗いていた空き教室の中で双六原すごろくはら蛇塚へびづかにわざわざ具体的な指示を記した紙まで渡して使用量を明確に指定している。


 どちらのほうが効果があるかは、言わずとも理解できるだろう。なにごとも過ぎれば毒に転ずるのは節理なのだから。


 これで確定である、双六原すごろくはらの本命は蛇塚へびづかだ。建前上獅子王ししおうを応援しているのは、獅子身中の虫として内部から腐らせるためなのだろう。


「そういえば、蛇塚へびづかの支援者っていったい誰か知ってる?」


「? いや、そういえば聞いたこともないな。しかし、それがどうかしたのか?」


 獅子王ししおうはどうも双六原すごろくはらの背任を把握していないらしい。それも当然といえば当然だろうが。


いずみ殿が知っておるというのなら、教えてほしいぞ。いったいどこの誰だというのだ。」


 一瞬、僕は躊躇した。どうみても不安定な精神状態である獅子王ししおうに告げて果たして効果があるのか、わからなかったからだ。


 だが、獅子王ししおうと会話できる機会が今後どれほど訪れるかもわからない。結局は僕は自らの口を抑えることができなかった。


「うん、知ってる。蛇塚へびづかの支援者は実は双六原すごろくはらなんだ。」



「…………いずみ殿、吾輩にドーピングを止めさせたいのは理解しているが、つくにしたとしてももっとマシな嘘があったであろうよ。」


 僕の言葉を全く信じていない様子で獅子王ししおうが苦虫を嚙み潰したような、渋い顔をする。梅小路うめこうじがやれやれといった感じで首を振っているのが見えた。


双六原すごろくはら殿は吾輩の支援者なのだぞ。それがどうして蛇塚へびづかなんぞを支援するのだ。」


 そんな獅子王ししおうを前にして、僕は


「逆に聞くけど、蛇塚へびづかに勝てる見こみがないのに双六原すごろくはら獅子王ししおうを応援するかな。」


 獅子王ししおうの体がびくりと跳ねる。どこか僕の言葉に思い当たる節があったのだろう、それでも獅子王ししおうはやすやすとは信じるつもりはないようだった。


「それが賭けというものだろう? おおかた蛇塚へびづかよりも吾輩のほうが大穴だとでも考えているのだろう。」


 未だ意固地な獅子王ししおうに、僕は最後の証拠を取り出す。それは梅小路うめこうじがあの日の空き教室で密会の場をとらえた一枚の写真だった。


「これを見たらわかるよ。」


 ガタリと、獅子王ししおうが立ち上がる。その瞳は動揺でわなわなと震えていた。


「これは偽造写真だ。そうだ、それに違いない……。」


「この神子かみこ高校にそんな上等なことができるパソコンとかがないのは理解しているよね。」


 現実逃避めいた獅子王ししおうの思考を優しく否定する。茫然自失とした様子で、獅子王ししおうが呟いた。


「そんな、そんなはずが……。」


「そもそも、薬をとればとるだけいいなんて言われていることがおかしいよね。」


 僕の追い打ちともいえる言葉に獅子王ししおうは二の句が継げぬようで、水揚げされた魚のように口をパクパクさせている。


獅子王ししおうはんは最初から掌の上で転がされとったちゅうことやな。前年の優勝候補屋からマークされたんやろ、適当なドーピングで勝手に自滅させよてな。」


「あ…、あ…。」


 獅子王ししおうが言葉を失う。化学室全体をさまよった視線は最後に僕にすがるようにむけられた。


 その哀れな姿に僕はなんといえばいいのかわからなかった。獅子王ししおうの体育祭にかける思いは人一倍強かったからこそ、一層悲劇的だったといえるだろう。


「まあ、獅子王ししおうはんも今度こそふんぎりついたやろ。中学校んころからやっとったんを止められなかったんや、これぐらいの報いはあってええんちゃうか。」


 意気消沈した獅子王ししおう梅小路うめこうじが意気揚々と責めたてる。それを止めようとして、僕は獅子王ししおうの様子が異常であることに気がついた。


 全身がブルブルと恐怖に震えている。


 まるで神話の怪物でも目にしてしまったかのように、獅子王ししおうはなにかに怯えていた。


「どうして……。」


「ん? なんや、聞こえんかったわ。もう一度言ってくれへんか?」


 獅子王ししおうの小声の呟きに、その変化に気がついていない梅小路うめこうじが聞き返す。


「どうして、吾輩が、中学でドーピングをしていたことを知っているのだ……?」


「ま、ちょいちょいと調べもんしてな。」


 とたん、獅子王ししおうの表情が絶望に染まった。魂を吸い取られたかのようなか細い声で、獅子王ししおうが僕に問いかけてくる。


「ぃ、いずみ殿も知ってしまったのか…………?」


 肯定の意をこめて僕が首を縦に振ると、獅子王ししおうはゆっくりと後ずさりしていった。


 歪む、獅子王ししおうの顔が歪んでいく。


「あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああ!」


 気が狂ったように叫び出した獅子王ししおうはいきなり化学室を飛び出していった。

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