第20話

 コツコツとチョークが黒板を叩く音がする。体育祭も近づいたとある日の午後の教室はスカスカで、まともに授業を受けているのは数人だけという有様だった。


 先生が書き記す要領を得ない板書を頬杖をつきながらとる。一番僕の苦手な化学の授業だからか、僕は反応式もそっちのけでうわの空だった。


 今の僕の前にはひどく悩ましい問題が山積している。獅子王ししおうのドーピングしかり、蛇塚へびづか双六原すごろくはらの思わせぶりな関係だったり………。


 しかし、それに匹敵するほど厄介なのが、僕の隣の席に座る少女だった。


「その、しずか……。ここがわからないんだけど、教えてくれないかな?」


 数奇院すうきいんとは画集を覗き見に図書室に忍びこんだあの日から一切言葉を交わしていない。恐る恐る数奇院すうきいんに問いかけた僕は、未だ梅小路うめこうじの住まう化学室に避難していることの釈明をしていなかった。


「あら、いずみくん。別に無理しなくてもいいのよ、獅子王ししおうさんのことで頭がいっぱいでわたしのことはもうどうでもよくなったんでしょう? お仲間の梅小路うめこうじさんに聞いてみたらどうかしら?」


 うっすらと冷たい笑みを浮かべた数奇院すうきいんは取り付く島もない。予期していたとはいえ数奇院すうきいんの深い怒りに僕は途方に暮れてしまった。


 いったいどうすれば数奇院すうきいんに許してもらえるだろうか?


 さすがに僕も数奇院すうきいん獅子王ししおうのことにばかりかまけていたことに怒っていることぐらいはわかっている。だけれど、獅子王ししおうの件は喫緊の課題なのだ、ここで放り出すわけにはいかなかった。


「なんや、いずみはんなんかわからんことがあるんか? 気兼ねせんとうちに聞けばええやんか?」


 耳元で快活な声が聞こえてくる。


 バッと顔を前にむけると、いつの間にかすぐ前の椅子に腰かけていた梅小路うめこうじがニコニコと僕を覗きこんでいた。


「どれどれ……。」


 梅小路うめこうじが愉快げに僕のノートを読み始める一方で、隣の数奇院すうきいんの口角が次第に下がっていく。見る見るうちに機嫌を損ねていく数奇院すうきいんに僕は冷や汗を流した。


「いや、みやびさん。僕は大丈夫だから……。」


 どうしてよりによって梅小路うめこうじ数奇院すうきいんの神経を逆撫でするようなことばかりするのか。


 事態のさらなる悪化を阻止するため、僕は必死に梅小路うめこうじからノートを取り戻そうと引っ張った。


「いやいや、気にせんでええって。友達同士助けあうのは当然やんか、なぁ。質問されて意地悪するほどうちの器は小さくないねん。」


 パキリ。


 教室の窓枠にひびが入った気がした。室内の空気が数段重くなる。


 すでに宣戦布告をしてしまった梅小路うめこうじを僕は心の中で呪うことしかできない。この期に及んではもはや平穏は望むべくもなかった。


「……問題文、上から三行目。ヨウ化物イオンの濃度が一定である条件を見落としているわ。」


「あ、ほんとだ。」


 数奇院すうきいんがぽつりと呟いた言葉で僕は間違いに気がつく。思わず声をあげてしまった僕を見つめながら、数奇院すうきいんがチクリと言葉を放った。


「しかたがないわね、いずみくん。どうやらこの教室にはわたし以外にはこんなに簡単な質問にすぐ答えられるほどの知性をそなえた生徒がいないみたいだから教えてあげるわ。」


「あ゛?」


 意趣返しとばかりに口にされた皮肉に梅小路うめこうじの眉がピクリと動く。


 手が白くなるほど拳を握りしめた梅小路うめこうじは、まるで数奇院すうきいんの言葉など聞かなかったかのように僕にずいっとにじり寄った。


「それで、ほかに困っとることはあるか、なんでも答えたるで?」


「いや、今は特になにもないかな…。」


 あっという間に剣呑になってしまった雰囲気をこれ以上悪化させたくなくて、僕は首を必死に横に振る。


 それでも数奇院すうきいんに味あわされた雪辱を晴らさずにはいられないのか、梅小路うめこうじは諦めようとはしなかった。肩に手がポンと置かれる。


「そないに遠慮せんでもええんよ? あるんやろ、いずみはんは化学が苦手やもんな?」


梅小路うめこうじさんもそんなに必死にならなくてもいいのではなくて? 誰が質問に答えたかどうかはいずみくんにとっては大切じゃないもの。」


 そんな小さなことを気にするほど梅小路うめこうじさんは器が小さくないでしょう?


 かつての発言がブーメランとなって数奇院すうきいんから返ってくるに及んでとうとう梅小路うめこうじの表情から笑みが消えた。


 ギョロリとした生気のない瞳が僕をにらみつける。質問しなければ確実に殺されると確信した僕は教科書の適当な箇所を指さした。


 途端、梅小路うめこうじの顔がパアッと明るくなる。


「ああ、緩衝液の話やな! 確かにそれはわかりずらいわ、うんうん、わかるで!」


 梅小路うめこうじが身を乗り出して解説を始めようとした時だった。梅小路うめこうじのほうにむけていた顔を掴まれた僕は無理やり横を向かされる。


「ほら、わたしの手元を見なさい。いい、緩衝液というのは仮定が大切で……。」


 数奇院すうきいんが自分のノートにすらすらと数式を書きこんでいく。


 目を逸らしたら酷い目にあうことを経験的に知っている僕がそのまま数奇院すうきいんの話を聞こうとすると、今度は梅小路うめこうじ数奇院すうきいんと僕との間に割って入ってきた。


「賢い賢い数奇院すうきいんはんの手を煩わせるまでもないわ、この程度やったらうちでも答えられるからな。で、いずみはん、緩衝液についてなんやけど……。」


 今度こそは答えてやろうとした梅小路うめこうじの背後から数奇院すうきいんの白い手がのびてくる。


「聞いているかしら、いずみくん? それで、その仮定というものはここに書いてある通り、」


 梅小路うめこうじの顔の前にノートを掲げ持ったかと思うと、そのまま何事もないかのように解説を続けようとする数奇院すうきいん。そんな数奇院すうきいんが手に持つノートがパサリパサリと切られていく。


 いつの間にか鋏を持っていた梅小路うめこうじが実にいい笑顔を浮かべていた。


「いやいや、目の前に邪魔なもんあったからつい手が滑ってもたわ。ごめんな? で、いずみはん、さっきの話の続きなんやけど……。」


 ゴーン、ゴーン。


 授業終了のチャイムの音が鳴り響く。それと同時に数奇院すうきいんがぼそりと呟いた。


「あら、誰かさんのせいで授業中に質問が終わらなかったわね。」


 先生を含め、教室で授業をしていた神子かみこ高校の比較的真面目な生徒たちはみな危険なにおいを察知してそそくさと教室を後にしていく。


 僕と梅小路うめこうじ数奇院すうきいんの三人だけとなってしまった教室は重苦しい沈黙が支配していた。


「ふうん、奇遇やね。うちも同じようなこと考えとったわ。」


 梅小路うめこうじがゆっくりと口を開く。数奇院 《すうきいん》がサッと立ち上がった。


「まあ、いいわ。いずみくん。」


 名前を呼ばれた僕はびくりと体を震わせてしまう。今の数奇院すうきいんの言葉にはそれに見合うだけの力があった。


 まるで梅小路うめこうじなど眼中にないかのように無視して数奇院すうきいんが僕の目の前までやってくる。その黄金の瞳がじっと僕を見下ろしていた。


「今までの間違いには目をつむってあげる。画集のことも、梅小路うめこうじさんと手を組んだことも。その代わり、獅子王ししおうさんのことなど金輪際忘れなさい。」


 数奇院すうきいんが予想通りといえば予想通りの言葉を口にする。言外に獅子王ししおうのことを見捨てろと迫る数奇院すうきいんの言葉に従えば僕は少なくとも表向きは今まで通りの日々を過ごすことができるのだろう。


 僕は目の前に差し出された数奇院すうきいんの白い手をじっと見つめた。


「なにを迷うことがあるのかしら。前にも言った通り、ドーピングをするかしないかなんて赤の他人であるわたしたちに口を挟めることではないわ。それはすべて自己責任でしょう?」


 なかなか返事をしない僕に苛立ったかのように数奇院すうきいんが強引に僕の手を握る。



「さあ、わたしと一緒に戻りましょう?」



 そして、僕はその手を振り払った。


 払われた手をじっと凝視する数奇院すうきいんの目が信じられないとばかりに揺れる。その奥で梅小路うめこうじがにやりと口角を持ち上げたような気がした。


「い、いずみくん?」


 数奇院すうきいんが珍しく動揺したように声を震わす。そんな数奇院すうきいんを僕は真正面から見つめた。


「ごめんだけど、獅子王ししおうのことはほっとけないよ。たとえしずかがそれが嫌なのだとしても、それだけは無理だ。」


 数奇院すうきいんの唇が言葉にならないなにかを口にしようとしてわななく。


 払われた手をもう片方の手でぎゅっと握った数奇院すうきいんはチクリと僕の罪悪感を刺激したが、それでも発言を覆すつもりはなかった。


「いや~、よく言った! それでこそいずみはんや! そこの薄情女とは違うわけやな!」


「………みやびさん、やめてくれるかな。」


 喜色を満面に浮かべた梅小路うめこうじが僕の肩に手をまわしてくる。数奇院すうきいんの当てつけに加わるつもりのない僕はその腕を身をよじって避けた。


 それでも梅小路うめこうじは悪びれることがない。


「ほな、そういうことで! 残念やなぁ数奇院すうきいんはん、いずみ班に振られてもたか! じゃ、化学室に戻ろか、これからの作戦立てよな!」


 皮肉を吐くことを忘れない梅小路うめこうじに腕をひかれる中、僕は教室にポツリと一人取り残された数奇院すうきいんの姿が気になってしかたがなかった。


「ぁ、いずみくん………。」


 まるで迷子の子犬のように立ちつくす数奇院すうきいんの表情は、寂しげに彩られていた。

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