第18話

 シュー、ゴトゴト……。


 沸いた水が奏でる喧噪に、僕の意識が覚醒する。ここに来てからもう数日は経つのに未だ聞きなれない音に、僕は体を起こした。


 起き上がった僕の視界に、空虚な化学室の光景が広がる。整然と並べられた実験台の中に一人横たわっていた僕は、遠くから湯気をたてるカップ片手に近づいてくる梅小路うめこうじの姿を確認した。


「ほい。」


「ありがとう。」


 一切の光を飲みこんで放さない暗黒の液体がチャプチャプと波をたてる。梅小路うめこうじからいただいたコーヒーを僕はありがたく頂戴した。


 すでに秋も終盤に差し掛かってきて、いよいよ体育祭の時期が近づいている。朝はすでにすこし肌寒くなってきていた。


「今日やったな、蛇塚へびづかはんと会うんは。」


「うん、そうだね。」


 画集から得た情報をもとに、僕たちはかつてドーピングを手伝ってもらっていたという蛇塚へびづか双六原すごろくはらの弱みについて探りを入れる予定だ。弱みを握って脅迫するという梅小路うめこうじの指針には思うところもあったが、そもそも助力を頼んだのは僕なので文句などいえるはずもなかった。


「でも、ほんとうに蛇塚へびづか双六原すごろくはらについて話しをしてくれるのかな。いくらなんでも赤の他人の僕たちに教えてくれるかどうか……。」


 その代わりに僕は適当な話をして思考を逸らすことにする。同じく隣の丸椅子に腰かけてコーヒーを啜っていた梅小路うめこうじはあっという間に飲み干し終えてしまうと口を開いた。


「悪人ちゅうのが絆なんてもっとるわけないやろ。悪事でつながった縁ちゅうのはその失敗で簡単に憎しみに転ずるっちゅうもんや。ドーピングがバレた責任を互いに押しつけあって顔もあわせとうないんちゃうか。」


「だからって口を割ってくれるかどうかはわからないじゃないか。」


「いや、嫌いな奴の悪口なんて聞いたらなんぼでも出てくるやろ。後はおだてて気持ちようさせて余計なことまで口走らせるまで簡単や。」


 梅小路うめこうじが僕のぶんのカップまで持って立ち上がった。


「それじゃ、そろそろ行くことにしよか。」



 今回の蛇塚へびづかとの密会場所は、前回の近くに多くの目があった運動場の用具庫とは打って変わって人気のない裏庭の濁った池のほとりで行われた。


 朝早く人の気配がまったくしない校舎を二人して素早く後にする。ほかの生徒、特に双六原すごろくはらには絶対に知られたくないからだ。


 しばらく人目を忍んで歩いていると、池の傍に背の高い影が見えてきた。まるでナナフシのように骨ばって細い手足を所在なさげにぶらぶらさせているその姿はまさしく蛇塚へびづかである。


「おはよう、朝早くからごめんね。」


 警戒されないよう顔見知りである僕から声をかける。蛇塚へびづかは気にするなという風に手をひらひらさせたのち、僕の背後に視線をむけて驚いたように目を見開いた。


「驚いたな、アタシより背高い女子の生徒がこの高校にいたのかよ。」


 シュボ、とライターで口元の煙草に火をつけながら蛇塚へびづかが感嘆する。未成年の喫煙という犯罪に背後の梅小路うめこうじの笑みが一瞬消えたことに僕は気がついたが、見なかったことにした。


「それで、例のダチはドーピング止めれたかい?」


「いや、まだなんだ。」


「なんだ、ライバルが一人減るって期待してたのによ。それで今日の要件はなんなんだ? もう一度呼び出したんだ、またなんかあったんだろ。」


 煙をふかしながら蛇塚へびづかがこちらを流し目で見る。あわよくば他の選手の脱落を願っているらしい蛇塚へびづかのちゃっかりとした一面に内心苦笑しながら僕は本題に会話を誘導していった。


「それで、今回も実はその友達の話でね。ドーピングを止めさせるのにもしかしたら蛇塚へびづかに助けてもらえないかって思ったんだ。」


「なんだ? 泣き落としのお手伝いだったらアタシは無理だぜ、他をあたんな。」


「いや、その友達の支援者が双六原すごろくはらっていう男子生徒でさ。」


 僕がその名を口にした途端、蛇塚へびづかの手の動きが止まる。びっくりしたようにこちらを凝視するその目はどこか動揺に襲われているようだった。


「……双六原すごろくはらだって?」


「うん、その中学時代知り合いだったんでしょ、なにか話が聞けないかなって。」


 蛇塚へびづかが再び黙りこむ。今度はその顔は困惑と焦燥に包まれた。


「もしかして、あんたの言ってるダチって獅子王ししおうのやろーのことか。」


「うん。」


 蛇塚へびづかがポロリと煙草を手から落とす。落とした吸殻を拾うこともなくもう一本新品を取り出しながら、蛇塚へびづかは震える声で口を開いた。


「どうして、どうしてもっと早くにそのこと言わなかったんだよ……。」


「へっ?」


「どうしてアタシに獅子王ししおうがお前のダチだって教えてくれなかったんだよ! あのやろーにドーピングを止めさせるためだったらアタシは牛のケツだって舐めてやるぜ、なんたってあいつはアタシに唯一並ぶつってもいい敵の選手なんだからよ!」


 どうやら蛇塚へびづか獅子王ししおうのことを高く評価していて警戒していたらしい。先ほどまでのどこか興味なさげな一線を引いた態度から一気に前のめりになった蛇塚へびづかは掴みかかる勢いで僕にむかってきた。


「で、あたしはなにをすればいい!? なんだってやってやる、薬でも盛るか?」


 蛇塚へびづかのあまりもの勢いに押されている僕を見かねてか、背後の梅小路うめこうじが僕の首根っこを掴んでひょいっと引き離す。そのまま位置を入れ替えた梅小路うめこうじ蛇塚へびづかの前に立った。


「あ? そういえばあんたは誰だっけ?」


「どうも、いずみはんの友人のみやびいいますー。今は訳あっていずみはんのお手伝いしとるわけなんやけど、ちょっと話ええやろか。」


 突然前に出てきた梅小路うめこうじに訝しげな蛇塚へびづかとは対照的に梅小路うめこうじは満面の笑みを浮かべている。


「実はな、今うちたちは双六原すごろくはらはんとどっちが獅子王ししおうのこと説得できるか勝負しとんねん。それで獅子王ししおうはんのこと説得出来たらええんやけどそれは難しいから双六原すごろくはらの弱み握ろうかちゅう話しとんねんな。」


「ふぅん。まぁドーピング止めさせるのに根本断つのは定石だな。それで、アタシに双六原すごろくはらの弱みを聞きに来たってわけだ。」


蛇塚へびづかが納得がいったように頷く。梅小路うめこうじはそのまま胡麻をする勢いで蛇塚へびづかに語りかけた。


「まあ、いろいろと性根の悪い双六原すごろくはらはんやからなんかしらとやらかしとると思うんやけど、聞かせてくれへんか。」


「別に双六原すごろくはらの性根が悪いかって言われるとアレだが、確かにいろいろとやらかしてるのはほんとだな。」


 蛇塚へびづかの言葉に梅小路うめこうじが満面の笑みを浮かべた。


「ほなら教えてくれへんか!」


「な、なんだよいきなり。」


 梅小路うめこうじが両手をあわせて懇願し始める。僕と蛇塚へびづかはあっけにとられてただ黙って見ていることしかできなかった。


「あかんのやったら今度はもう暴力に訴えるしかないねん! 頼む!」


「おいおい、暴力は禁止されてるんじゃなかったのかよ……。」


 梅小路うめこうじのあんまりにもあんまりな告白に、蛇塚へびづかが顔をこわばらせる。そんな蛇塚へびづか梅小路うめこうじはしがみつくようにして懇願を続けた。


「頼むで、な、な!?」


「ええい、離れろ!」


 僕は普段と様子が全く違う梅小路うめこうじに困惑して背後から制止する。土下座すらしそうな勢いの梅小路うめこうじ蛇塚へびづかも引いた様子なので、いったん梅小路うめこうじを落ち着かせた。


「まあ待てって。アタシもいろいろと記憶を整理しなきゃいけなくてな。今さっと口にしろって言われても難しいんだ。また今度会うってのはどうだ?」


「うん、それでもいいなら別に。ありがとうね蛇塚へびづかさん。」


「いいってことよ。じゃな。……あと、あのみやびってやつマジでヤバそうなやつだな。今度呼ぶときは絶対に連れてこないでくれよ。」


 先ほどまで奇行のせいか、蛇塚へびづか梅小路うめこうじに異常者の烙印を押したようだ。そこはかとなく梅小路うめこうじに警戒の視線をむけながら蛇塚へびづかが校舎裏に消えていく。


「ねぇみやびさん、さっきのはどういうつもりなのさ。」


 それを見届けてから僕は隣の梅小路うめこうじに先ほどの行動の意味を尋ねようとした。が、口ごもってしまう。


 梅小路うめこうじがいつの間にか例の底冷えのするような笑みを浮かべていたからだ。遠ざかる蛇塚へびづかの背中を冷徹な視線で追いかけながら、ぼつりと呟く。


「うちの読み外れてしもたわ、あれは黒やな。」

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