第17話

「ま、変なことやないんやない? 双六原すごろくはらやないけれど悪は生れついて人でなしやねんから、やっとってもおかしないやろ。」


 獅子王ししおうの資料を掴んだまま固まっている僕に、梅小路うめこうじがつまらなさげに語りかける。僕の手の中から紙を奪い取ったかと思うと、さっさと画集に綴じてしまった。


「それよりも今は蛇塚へびづか双六原すごろくはらとのつながりやな。もしも仲が悪うなっとるんやったら弱みとか聞き出せるかもしれん。そもそも蛇塚へびづかにとって双六原すごろくはらは敵の味方やからな。」


 梅小路うめこうじの言葉に止まっていた思考が動き出す。だが、頭の中ではいまだ動揺が収まる気配はなかった。


 獅子王ししおう神子かみこ高校に入学させられたのはドーピングをしていたからだなんて。


 脳裏に獅子王ししおうの無邪気な笑みが一瞬浮かぶ。入学した時あれほど陸上の楽しみを語っていた獅子王ししおうがすでにドーピングという悪事を犯した後だったとはとてもではないが信じられなかった。


 だが、今はそのことを考えていても仕方がない。とにかく梅小路うめこうじのたてた計画通り双六原すごろくはらに対処しなければ。


「そうだね、今度は蛇塚へびづかに接触する必要があるかもしれないな。」


「なんや、簡単そうにいうなあ。連絡取れるんか?」


「うん、知り合いづてにつながりがあるから。」


 今後のことについて話しあいながら、梅小路うめこうじとふたり図書室を後にしようとした時だった。


 梅小路うめこうじがいきなり扉の前で立ち止まる。先ほどまでとは打って変わって険しい顔をしながら、その下のマットを睨んでいた。


「これはしてやられた、ちゅうことやな。」


梅小路うめこうじが長身をかがめて敷物をめくる。僕はその動きを視線で追って、息を飲んだ。


 敷物と床との間に、砕けたチョークの粉末が一面に飛び散っている。


「これで数奇院すうきいんはんには誰かが留守中に図書室に忍びこんだってバレた訳や。」


 梅小路うめこうじが心底苛立ったように吐き捨てる。


 恐らく数奇院すうきいんは図書室を後にする際、あらかじめチョークの破片を仕込んでおいたのだろう。もし誰かが扉を開けてなかに踏み入ったら、チョークは音もたてずに砕け、どんなに丁寧に掃除しても取り除けないほどの細かい粉末となる。


 数奇院すうきいんは誰かがこの教室に忍びこむことを完全に予測していたわけだ。


 粟立つ二の腕をさすりながら僕が舌を巻いていると、廊下から静かな、しかし確かに靴音が聞こえてくる。途端全身を襲う恐怖とともに僕は理解した。


 主が、数奇院すうきいんが戻ってきたのだ。



 有無を言わさず梅小路うめこうじが僕をひっぱって本棚の裏に隠れたのと扉が開いたのはほとんど同時だった。


 パチリと図書室が明るくなる。


 照明の電源を入れた数奇院すうきいんはゆっくりと中央の椅子に腰かけたかと思うと、ポケットから取り出した文庫本を開いて読みだした。


 梅小路うめこうじと僕はできるだけ姿勢を低くして本棚の陰に姿を隠す。息を殺してしばらくじっとしていると、図書室の扉が乱暴に叩かれた。


「入っていいわよ。」


 数奇院すうきいんの平坦な声から間髪入れずに扉が勢いよく開けられる。本棚の隙間から垣間見えたその姿は太刀脇たちわきに他ならなかった。


 太刀脇たちわきはすぐさま扉の前のマットをめくると、舌打ちする。


「やはり、侵入、あった。取り逃した、廊下、人、いない。」


太刀脇たちわきさん、ありがとう。でもいいのよ、捕まえられなくても大体の見当はついているのだから。」


 どうやら太刀脇たちわきは先ほどまで図書室の侵入者を探して近くの廊下を巡回していたらしい。


 もしも数奇院すうきいんが戻ってくるのがすこしでも遅かったら僕たちは廊下で太刀脇たちわきに捕まっていたに違いない。僕は恐ろしくなって寒気がしてきた。


「でも、変。侵入者、目的、わからない。金庫、誰も、破れない。」


 太刀脇たちわきが依然主の為に獲物を狩り立てる猟犬のようなギラついた目をしたまま小首をかしげる。


 その太刀脇たちわきの素朴な疑問に数奇院すうきいんはゆっくりと口を開いた。


「べつに"銀行屋"の業務そのものばかりが狙われているわけではないわ。獅子王ししおうさんから受け取った観察対象の生徒の手紙の写し、金庫が開けなくなった時に備えて別に取っておかれているちょっとしたお金……。そういったものを目当てにしたことも十分に考えられるかしら。」


 太刀脇たちわきが鋭い視線を図書室中にめぐらす。恐らくはなにか盗まれた物はないかと探しているのだろう、梅小路うめこうじに頭を掴まれた僕はそれこそ床に這いつくばる勢いで隠れた。


「なに、盗まれる、今、予想?」


「さあ、見当もつかないわ。この図書室にはいろいろと価値のある物がありすぎるもの。……そういえば画集なんかもあったわね。」


 図書室に戻ってきて初めて数奇院すうきいんはその黄金の瞳を本棚のほうにむける。なにもかもを見通しているような目が、僕たちの隠れる本棚をじっとりと見つめた。


「画集?」


「ええ、そういえば太刀脇たちわきさんには見せていなかったわね。これを機に紹介しておきましょうか。」


 数奇院すうきいんが立ち上がり、こちらに近づいてくる。僕は内心で神仏に見つからないよう願いながらぎゅっと目をつぶった。


 画集が収められている大判本の場所は僕たちの隠れる本棚のすぐ手前にある。数奇院すうきいんの白い上靴が僕の視界を行ったり来たりした。


 やがて画集をようやく見つけたらしく、数奇院すうきいんの動きが止まる。パラパラとページをめくる音がしたのち、背筋の凍るような言葉が聞こえてきた。


「あら、獅子王ししおうさんのところだけ順番がおかしいわね。」


 僕は過去の自分が犯した過ちに悶絶した。画集を元通りにしようとしたあの時、僕が最後まで獅子王ししおうの資料を手に持っていたから梅小路うめこうじが間違えて一番初めになるよう画集に綴じてしまったのだ。


獅子王ししおうさん、ね。ふぅん……。」


 数奇院すうきいんの含みを持たせた言葉が嫌が応にでも僕の耳に残る。そうだ、今この時に獅子王ししおうについて調べたがる人間だなんてもう特定されたも同然だった。



 結局、僕たちは数奇院すうきいんたちが朝になって図書室を後にするまでずっと本棚の後ろに隠れていなければならなかった。


 徹夜明けの眼をこすりながら梅小路うめこうじがうんと伸びをする。


「それで、いずみはんはこれからどないするんや。あれほどデカくかましたんや、数奇院すうきいんはんもうすうす気づいとるやろ。」


 梅小路うめこうじの言う通りであった。恐らく数奇院すうきいんは僕が梅小路うめこうじと手を組んだことを知っただろう。


 これがもしも脅迫状だけならば梅小路うめこうじか、もしくは全く関係ない生徒による悪戯とでも言い訳できただろう。だが、図書室への侵入と画集という目的すらバレてしまった今ではなんの言い逃れもできそうになかった。


 これまでかなり冷えこんでいた数奇院すうきいんとの関係はもしかすると最悪のところまで来ているのかもしれない。


 とにかく、僕はもう図書室に戻るほどの覚悟はなかった。


「どこか別の空き教室を探して、しばらくはそっちで寝泊まりすることにするよ。今はたぶんしずかと顔をあわせちゃダメな気がする。」


 そう口にしたところで、梅小路うめこうじが僕の背中をバンと叩く。その勢いによろめいてしまった僕はいったいどういうつもりだと非難の念をこめて梅小路うめこうじを睨みつけた。


 だが、梅小路うめこうじは特段僕の視線を気にした様子もなくまたバンバンと僕の背中をたたく。


「もう、いずみはん冗談も休み休みにせんとあかんで。そんなに遠慮せんでええ、うちの化学室にこればええやないか。」


「え………。」


 予想外の梅小路うめこうじの誘いに僕は一瞬面くらってしまう。しかし、梅小路うめこうじはその隙を逃さないとばかりにまくしたて始めた。


「いやいや、数奇院すうきいんはんとばったり顔をあわせたくないんやったらうちのところが一番確実やで? それにいくら神子かみこ高校の生徒が向う見ずやっても先生の身内のうちには手出しできんから、安全も保障されとる。断る理由なんかないやろ、な、な?」


 梅小路うめこうじの勢いに圧倒されて僕はついに首を縦に振ってしまう。途端、梅小路うめこうじは嬉しそうにぐしゃぐしゃと僕の頭を乱暴に撫でた。


「それじゃ早速やけどこれからよろしくな、いずみはん?」


 梅小路うめこうじが僕の顔を覗きこんでくる。僕はその真紅の瞳が暗く見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る