第15話

 数奇院すうきいんは今までかぶっていた猫の皮をすっかり脱いでしまったようだった。獅子王ししおうを説得するのを手伝うと語っていたのが嘘のようになにもしなくなったのだ。


 図書室の机に日がな一日ずっと座っては本から目を離そうとしない。まるで僕に話しかけられるのを拒否しているかのように数奇院すうきいんは沈黙を保ち続けていた。


「あのさ、しずか……。」


獅子王ししおうさんにご執心のあなたが話しかけてくるだなんて、今晩は槍でも降るのかしら? 無理しなくていいの、あなたは獅子王ししおうさんのほうが気になって仕方がないんでしょう、わたしに構う必要はないわ。」


 話しかけてもけんもほろろにあしらわれるばかりである。数奇院すうきいんがそうとうへそを曲げているということしかわからなかった僕は途方に暮れた。


 他力本願と非難されてもぐうの音も出ないのだが、僕は数奇院すうきいんのことをあてにしていた。いつだって僕が困ったことになった時は呆れた顔をした数奇院すうきいんが小さな、しかし核心に迫るヒントを与えてくれたものだ。


 しかし、今やその助けはもはや期待できそうになかった。


 数奇院すうきいんはそうとう機嫌が悪いらしく、あれほどこだわっていた二人三脚の練習もぴったりとやめてしまったほどだ。数奇院すうきいんに釘を刺されたのか太刀脇たちわきも僕を遠巻きに眺めるばかりでそこはかとなく避けられていた。


 さらに、今最も僕の頭を悩ませているのが獅子王ししおうのことであった。


 双六原すごろくはらになにやら吹きこまれたのか、獅子王ししおうは僕の姿を目にした途端踵を返して逃げ出すまでになっていた。最近は教室に姿を現すことすらない。


 話すらできないのでは、説得も何もあったものではない。正直言って、僕は行き詰っていた。


 だからこそだろうか、数奇院すうきいんに知られれば確実に激怒するであろうある意味で最悪の選択肢しか思い浮かばないのだ。


 

 化学室の前で、僕は自分の手が震えていることに気がつく。


 僕は今黄泉の国への扉を開けようとしているのかもしれない。数奇院すうきいんの助けを得られないからといって、それよりももっとずっと邪悪な人間に僕は頼ろうとしているのだ、愚かとしかいいようがないだろう。


 ギュッと目を瞑る。僕は覚悟を決めて地獄の門を開けた。


「遅かったなぁ、いずみはん。もう待ちくたびれてもうたわ。」


 冷たく獰猛な声が僕の鼓膜を震わす。黒い実験台がずらりと並んでいる化学室の奥、そこに悪魔のような真紅の瞳を輝かせた梅小路うめこうじが立っていた。


 突然の僕の訪問にかかわらず、一切驚いた様子を見せない梅小路うめこうじが席に着くよう促す。すすめられた椅子の前にはすでに真っ黒なコーヒーが用意されていた。


「……僕がくるって予想していたの?」


「まぁ、数奇院すうきいんはんと喧嘩しとるいずみはんが頼れる人間言うたら、うちぐらいしかおらんやろうなぐらい考えとったで。」


 背筋をすらりとのばした梅小路うめこうじが背後から僕の肩に手を置く。歌うように梅小路うめこうじは半ば分かっているであろう訪問の理由を尋ねた。


 僕は梅小路うめこうじの手が僕の肩から次第に首筋に移っていくのを極力無視しながら口を開く。


「お願いがあるんだ、獅子王ししおうを説得するのを手伝ってほしい。」


「ほぉん、いずみはんはまだあんなドーピングクズに興味があったんやな。ええ趣味しとるわ。」


 相変わらず悪事に手を染めてしまった生徒には手厳しい評価を下す梅小路うめこうじがしばらくの間考えているようなそぶりをする。


「でも、そのかわりにいずみはんはなにをしてくれるんや? うちには獅子王ししおうちゅうやつを助ける義理も予定もないからな、なんか代償くれんとやっとれんわ。」


 梅小路うめこうじが僕の後ろからゆっくりと顔を覗きこんでくる。視界の上側にちらちらと映る黒髪に思わず唾を飲みこみながら、僕はゆっくりと首を縦に振った。


獅子王ししおうを説得できるならなんでもする。だから、助けてほしい。」


「ふぅん……。」


 梅小路うめこうじが不気味にこきりと首を曲げる。そのままジッと僕を観察するようにその真っ赤な瞳で凝視し続けた梅小路うめこうじはパアッと破顔した。


「せやな、それなら例の書類、見るん手伝ってもらおうか。」


「例の書類?」


数奇院すうきいんはんが持っとるんやろ、この高校の生徒の来歴まとめた大量の書類を。」


 戸惑う僕に近づいた梅小路うめこうじが耳元でささやく。甘い声色が指し示したのは、かつて数奇院すうきいん清流寺せいりゅうじの支配する"転売屋"の内通者を選ぶのに使ったあの画集だった。


「……それをいったい何に使うつもりなのかな?」


 声が固くならないよう細心の注意をはらって梅小路うめこうじに問いかける。数奇院すうきいんを蛇蝎のごとく嫌う梅小路うめこうじだからこそ"銀行屋"の内部情報を要求されることは想定していた。


が、流石にあの画集までは考えていなかった。そもそも梅小路うめこうじがどうしてあの画集のことを知っていること自体あり得ないことのはずなのに。


 内心の動揺を押し殺している僕の横にたった梅小路うめこうじはなんでもないかのように応えた。


「ああ、あの画集はまだ図書室におったころに気がついてな、いろいろと調べたいことがあったんやけど、その前に数奇院すうきいんにバレてもうて放り出されてしもうたんや。」


 梅小路うめこうじが僕の顔を覗きこんでくる。


「で、ええやろ? いずみはんはさっき何でもするいうたよな?」


 まるで獲物を解体するかのような冷徹な無表情でこちらを凝視してくる梅小路うめこうじを前に僕は究極の選択を迫られた。


 あの画集は個人情報の保護などいっさい存在しない、最悪の書類だ。それを目の前の苛烈な倫理観を持つ梅小路うめこうじに見せることはけっしてしてはならないことであろう。


 だが、そうでもしなければ獅子王ししおうを説得できる自信がない。僕は決断をしなければならなかった。自分のエゴか、それとも倫理か。


「で、どうなん?」


 答えを促してくる梅小路うめこうじに覚悟を決める。結局のところ、僕は思っているほど善人ではないらしい。


「いいよ、それで。」


「よっしゃ、じゃ決まりや。画集を見せてくれる代わりにうちは絶対に獅子王ししおうはんにドーピングをやめさせたるわ。」


 梅小路うめこうじの手を握る。僕は悪魔と取引をしたのだ。



「それで、どうやって獅子王ししおうを説得するつもりなの?」


 梅小路うめこうじとふたり、がらんとした化学室で今後の方針を話しあう。僕の問いかけに、梅小路うめこうじは当然のように信じられないことを言い始めた。


「そんなん簡単や。その双六原すごろくはらとやらの弱み握って脅迫したったらええねん。いくらなんでも薬の供給を止められたら獅子王ししおういずみはんと話せざるを得んくなるやろ?」


「は?」


 僕は梅小路うめこうじのぶっ飛んだ戦略に開いた口が塞がらない。どういう思考回路をしていたら、僕の頼みからそんなことを思いつくんだろう、僕は本気で梅小路うめこうじの倫理観は何かが欠けていると実感した。


「いや、でもそれはやり過ぎじゃ……。」


「なにを言っとるんや、双六原すごろくはらちゅうのんは聞いたところは賭博の元締めやっとるわ薬を勝手に製造しとるわで完全なる悪やないか。悪は人やないってずっと前に言ったやろ?」


 そうだ、そういえば梅小路うめこうじはこういうやつなのだった。僕は梅小路うめこうじが恐らくは双六原すごろくはらのことを害虫か何かとしか考えていないことを確信する。


「それにしても、どうやって双六原すごろくはらの弱みを握るんだよ。双六原すごろくはら神子かみこ高校であんなに権力を持ってるんだからそんなに甘い相手じゃないでしょ。」


「だから画集を見る必要があるんやないか。」


 梅小路うめこうじがにやりと笑う。僕は梅小路うめこうじの裏の意図に気がついて思わず舌を巻いた。


 僕との約束を反故にされないためにも、梅小路うめこうじは報酬と手段を同じにしてしまったのだ。こうなると、僕はどうしたって梅小路うめこうじに画集を見せざるを得なくなる。


「僕は何をすればいいんだ。」


「図書室に引きこもっとる数奇院すうきいんをなんでもええからおびき出したらええ。その間にうちが忍びこんで画集を写真にとるわ。」


 梅小路うめこうじはそう語ると、片手に握るデジカメをかざす。先生の私物を拝借してきたらしいそれで画集の中身の情報を記録するつもりらしかった。


「決行はあんた次第や。別にうちはいつまで待ってもええけど、そのぶん体育祭が近づいてまうからよう考えや。」


 数奇院すうきいんをおびき出す。僕は顔をひきつらせた。まさしく言うは易く行うは難し、である。だが、やらなければ獅子王ししおうにドーピングを楊瀬させることはできない。


 僕は腹をくくった。


「いや、明後日にやろう。早ければ早いほどいい。」


 コーヒーの真っ黒な水面に、梅小路うめこうじの満足げな表情が反射していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る