第13話

 用心棒をぞろぞろとひきつれた獅子王ししおう双六原すごろくはらがとある空き教室にこそこそと入っていったのを、廊下の角からそっとうかがう。事前に示しあわせていたのか、指示されてもいないのに用心棒たちは空き教室の扉の前に陣取って油断なく周囲を警戒し始めた。


 体育祭において、いったいどこに敵対する選手の密偵が忍んでいるとも限らない以上、支援者と選手の間の会話は特別に秘匿すべきなのは常識である。ただ、それは僕たちにとっても困った話だった。


 ああも公然と教室前の廊下に陣取られてしまえばのぞき見はおろか当然聞き耳を立てることすらできないだろう。獅子王ししおう双六原すごろくはらの会話はドーピング剤の入手経路を特定する手掛かりになるかもしれないと思うと、僕はもどかしい思いでいっぱいになった。


「さて、困ったことになったわね、いずみくん。これからいったいどうするのかしら?」


 数奇院すうきいんが愉快げに目を細める。僕は周囲を見渡してどうにかして室内の様子をうかがえないか必死に考えた。


「ほら、あそこにあるじゃない、ちょうどいいところが。」


 数奇院すうきいんが窓の外を指でさす。その先を視線で追った僕は数奇院すうきいんの言葉の意図を悟った。


 廊下の窓からはちょうど空き教室の向かい側にある古びた校舎の外壁が見える。もしかするとあちらの教室から空き教室の中の様子をうかがえるかもしれない。



 獅子王ししおう双六原すごろくはらが空き教室の真ん中に集まってなにやら話をしている。僕はそれを鏡越しに固唾を飲んで見つめていた。


 他人の会話をひそかにのぞき見している背徳感と緊張に体が固い僕と対照的に数奇院すうきいんはゆったりとくつろいでいる。


 僕たちは獅子王ししおうたちに気づかれないよう窓枠の下の壁に背を預けて床に座りこみ、小さな鏡をかざしては空き教室の中の様子を探っているのだ。


 まるでスパイにでもなったかのような奇妙な体験をしながら獅子王ししおうたちを反対側の校舎の窓からじっと眺める。


 獅子王ししおうたちはなにやら小さな口論をしているようだった。時折、獅子王ししおうが感情を昂らせたかのように激しく首を振っている。


 が、当然だが声は全く聞こえるはずもないので、内容は推測することすらできない。憔悴した様子の獅子王ししおうが折れたように小さく首を縦に振るまで僕はドキドキハラハラしていた。


 ようやく二人の話に決着がついたらしく、獅子王ししおう双六原すごろくはらから離れて空き教室を後にしようとする。


 その後ろ姿に向かって双六原すごろくはらがなにやら言葉をかけたかと思うと、獅子王ししおうの足がピタリと止まった。


 双六原すごろくはらが制服の胸ポケットをなにやらまさぐっている。そしてようやく取り出したものを目にした時、僕は思わず息をのんでしまった。


 呼び止めた双六原すごろくはらが懐から取り出したのはよく見慣れた白い粉末の入った小袋だった。注射器とともにさしだされたそれを獅子王ししおうは一瞬躊躇したのち手に取る。


 そうだ、双六原すごろくはらこそが獅子王ししおうにドーピング剤を提供していた生徒だったのだ。


 衝撃の事実に揺れる僕の脳に先ほどの数奇院すうきいんの言葉がぽうっと浮かぶ。


「もしかして、しずかは知っていたの、このこと。」


「いいえ? でも十分推測できたことよ。」


 思わず口をついて出た問いかけを数奇院すうきいんは否定する。そのどこまで信用していいのかわからない数奇院すうきいんの笑みに気をとられている間に、どうやら獅子王ししおうは空き教室を今度こそ後にすることにしたらしい。


 獅子王ししおうが逃げるかのように空き教室の扉を開けて廊下へと駆け出していく。その後ろを用心棒たちが慌てて追いかけていくのが隣の校舎からでもよく見えた。


 空き教室には双六原すごろくはらの細い体躯の陰のみが残る。


 居てもたってもいられなくなった僕は勢い良く立ち上がると、空き教室目掛けて走り出した。笑みを浮かべたまま何も言わないでいる数奇院すうきいんを残して校舎のボロッちい木製の階段を駆け下りていく。


 今がまさしく絶好の機会だった。


 双六原すごろくはらが一人でいるこの時を逃してしまえば、もう二度と話をする時間は作れないだろう。なにしろ体育祭が近づくにつれて双六原すごろくはらのような支援者たちはより用心深くなって自らの本拠地に引きこもるようになってしまうのだから。


 そうならない前に、僕はなんとしてでも双六原すごろくはらと話をしなければいけなかった。


双六原すごろくはらさん、ちょっと待って、話をしたいんだ…。」


 息を切らしながら空き教室に飛びこむ。膝に手をついて荒い息を整える僕は息も絶え絶えになりながら双六原すごろくはらに声をかけた。


「いえいえ、とんでもない。自分こそこの時を待っていました。」


 ようやく顔をあげた僕の前には、あの日の夜と全く変わらない柔和な好青年のようにみえる双六原すごろくはらが立っていた。


双六原すごろくはらさんが、待っていた……?」


「ええ、獅子王ししおうさんからだいたいの話は聞いています。ドーピングについて知ってしまったのでしょう?」


 気弱そうな笑顔を浮かべた双六原すごろくはらが僕の顔を覗きこんでくる。神子かみこ高校には似つかわしくない心優しげな声色に、僕はかえってなにか不気味なものを感じ取った。


「それじゃあ、僕が獅子王ししおうにドーピングを止めてほしいって思っていることも知っているよね?」


「はい。確信とまではいきませんが、だいたい推測していました。」


 双六原すごろくはらは相変わらずニコニコと笑顔を浮かべている。その様子にどこか既視感を覚えた僕は笑みがどこか数奇院すうきいんに似ているのだと気がついた。


 数奇院すうきいんと似ているということは一筋縄ではいかない人間だということだ。


「それなら話が早いかな。獅子王ししおうに薬を渡すのはもうやめてほしいんだ。」


「それはそれは。まさしく単刀直入に頼んできたものですね。」


 とにかく僕はすぐに本題を切り出すことにした。僕が頭をさげると双六原すごろくはらはわざとらしく眉を持ちあげてみせる。


「それで、どうかな。獅子王ししおうは必ず僕が説得してみせる。なにがあっても獅子王ししおうにもうこれ以上ドーピングを続けてほしくないんだ。そのためならなんだってするよ。」


「はいはい、いずみくんの言わんとすることは理解しました。そして、獅子王ししおうさんを説得できるというのもひとまずは信じておきましょう。」


「だったら……。」


 僕は期待に胸を膨らませた。そうだ、なにを心配することがあったというのだろう、双六原すごろくはらはこの神子かみこ高校にあってもなお柔らかな物腰を失わない常識人ではないのか。


 だが、そんなぬか喜びをする前に僕はよく考えておくべきだったのだ。この神子かみこ高校最大の行事であり、不良たちの権謀術数渦巻く恐るべき体育祭において、まがりなりにも前回優勝者の支援者であるということの意味を。



「残念ですが、それでも自分は承諾しかねますね。リスクが大きすぎる。」



 顔を持ち上げた僕の前にいたのは、冷徹な計算を働かせる一人の神子かみこ高校の男子生徒がいた。


「簡単な話でしょう? ドーピングをしないよりもするほうが勝つ確率が高まる。自分は獅子王ししおうさんの将来などまったくひとかけらたりとも気にかけていないのですから当然の回答です。」


 双六原すごろくはらは冷たい無表情を浮かべて僕を見つめる。その瞳の奥底にはあくなき欲望の螺旋が蠢いていた。


「それどころか、いずみくんにはもうしわけないのですが自分は獅子王ししおうさんの説得を全力で妨害させていただきますよ? 自分はなにがなんでも賞金を手に入れたいので、ね。」


 今までの好青年の仮面を脱ぎ捨てた双六原すごろくはらがまったく非倫理的な、それでいて論理的な言葉を口にする。


 僕は悟った。この目の前にいる人間は清流寺せいりゅうじと同じぐらい、いやそれよりもタチの悪い敵だ。感情ではなく純粋な理性のみでもって自らの目的を淡々と語る双六原すごろくはらに僕は鳥肌が立つのを感じた。





「わたしのいずみくんをいじめるのはそこまでにしてくれるかしら?」


 鈴を鳴らしたような声が聞こえる。とたん、あれほど余裕たっぷりだった双六原すごろくはらの表情が歪んだ。


 まるで自分よりも恐るべき死神に出くわした怪物のように冷や汗を額に浮かべる双六原すごろくはらと対照的に僕はゆったりとした安心感に包まれる。


 僕の背後からにゅっと数奇院すうきいんが顔を出した。

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