第11話

 僕は蛇塚へびづかの言葉の意味がよくわからなかった。どうして勝てないからと言って体育祭の出場を諦めなければならないのだろう。


「アンタほんとにバカなんだな?」


 それが僕の疑問に対する蛇塚へびづかの回答だった。もくもくと煙草の煙をくゆらせながら、恍惚として口を開く。


「アタシたちがただ走りたいから体育祭なんかに出るかよ。アタシたちは当然勝ちたいから競争するんだ。」


 麻薬に陶酔するかのように蛇塚へびづかが暗い笑みを浮かべる。多分に自嘲を含んだ蛇塚へびづかの言葉はしかし、体育祭の本質を言い当てていた。


「走るのが好きってんなら話は簡単だ、山でも原っぱでも勝手にどうぞってんだ。そうじゃなくて他人と競うってのは、勝ちたいからだ。アタシたち陸上やってる連中は隣を走るいけ好かない同類よりも上に立ちたいからスタートラインで構えるのさ。」


 蛇塚へびづかの大きな目がぎょろぎょろと動く。大きく弧を描いたその唇は毒々しく濡れていた。


「だから、体育祭にでるような奴が勝てないと知ってドーピングをやめるはずなんかねえ。それは本末転倒ってもんだ、勝つために生きんのに生きるために負けたら意味ねえだろ?」


 まるで地獄の餓鬼のように勝利に飢えた目つきをした一匹の獣がそこにいた。落ちくぼんだ目の奥で獰猛に蛇塚へびづかが狂気の光を漏らす。


「だから、アンタがそのダチが心配だってなら、勝利を諦めさせるしかねえ。そうじゃなけりゃそいつは死ぬまでドーピングを続けるだろうな。」


 がんばれよ、と軽く僕の肩を叩いた蛇塚へびづかが僕を残して用具庫を後にする。体育祭の選手はひょっとしてみんな蛇塚へびづかのような人間ばかりなのだろうか、僕は改めて人の妄執のおぞましさを垣間見た気がした。



「さ、これですこしは考え直す気になったかしら? 獅子王ししおうさんも結局はあの蛇塚へびづかさんと同じ、わたしたちとは違う生き物なのよ。」


 数奇院すうきいんがつまらなさげに僕に声をかける。暗に獅子王ししおうのことは諦めろと告げる数奇院すうきいんに、僕はそれでもまだ納得がいかなかった。


「でも、ドーピングをしてしまったら体がボロボロになってしまう。」


「ええ、でもそれがあなたになんのかかわりがあるの? 気になるからといって他人の人生に口出しできるほどあなたは偉かったのかしら?」


 僕の異論をまったくもって正論ですぐさま封じこめる数奇院すうきいんに、それでも僕は諦める気になれなかった。


「でも、僕と獅子王ししおうは友達だ。これを見過ごすことだなんて僕にはできない。」


 心の中の思いをそのまま吐露する。数奇院すうきいんが皮肉げに僕を見つめた。


「あらあら、ずいぶんとあなたと獅子王ししおうさんの友情を買いかぶっているのね。はたして獅子王ししおうくんもそう思ってくれているといいのだけれど。」


「これが良いことだったのか悪いことだったのかはもっと時間が経ってから考えることにするよ。ただ僕は後悔だけはしたくないんだ。」


 僕の言葉を数奇院すうきいんは予期していたようだった。そうでしょうね、と小さく呟いた数奇院すうきいんが用具庫から出ていく。


 その背中を追いかけながら僕は空き教室で目にした獅子王ししおうの痛々しい姿を思い起こして覚悟を新たにする。どんなことをしようとも僕は獅子王ししおうのドーピングを辞めさせることを決めていた。



「もしもあなたが本気でドーピングを辞めさせたいというのなら、そもそもの入手手段を断つことを強くお勧めするわね。残念なのだけれど獅子王ししおうさんの意志だけではわたしはドーピングを辞められるとは思えないわ。」


 図書室に戻った数奇院すうきいんは開口一番に僕にそう告げた。


獅子王ししおうさんはドーピングをただ単にしているだけではないわ、あれはもはや依存症めいているもの。」


 数奇院すうきいんはまるで獅子王ししおうが重度の薬物依存症患者であるかのように語る。たとえその場でドーピングを辞めると言質をとったとしても、また勝利への渇望が沸き上がってきたなら獅子王ししおうはなんのためらいもなく再びドーピングに手を出すだろうと。


 空き教室で獅子王ししおうが見せた勝利への異常な執着を知っている僕はさもありなんと頷いた。あれほど勝つことばかり口にしているようでは、一度やめれたとしてもすぐにドーピングを再開してしまうだろう。


 そう考えたところで、僕はふととあるひとつの疑問に至った。果たして体育祭に出場する選手たちはどうやってドーピングの薬を手にしているのだろうか。


 そもそも薬局でそういう薬物が大っぴらに売られているわけがないし、違法ではないにしても入手手段は大きく限られるだろう。外界との接触がほとんどない神子かみこ高校においてはそれがさらに顕著だ。


「いったい獅子王ししおうはどうやって薬を手に入れているんだと思う、しずか?」


「普通ならインターネットでとなるのでしょうけれど、この高校ならそれは無理ね。なら選択肢はもうほとんどないも同然よ。恐らくは薬物を自前で製造している生徒がいるわね。」


 数奇院すうきいんが文庫本を開きながらまるで答えは自明であるかのように語る。が、僕はそれこそそちらのほうがインターネットで手に入れるよりもよっぽど荒唐無稽に感じた。


 薬品の製造だなんて一介の高校の生徒ができるはずがない。特に不良揃いの神子かみこ高校の生徒がそんな高度な知識を持っているとは考えられなかった。


「簡単な話よ、市販薬からその成分を抽出すればいいの。恐らくは知識ではなく経験則、それも何年もの試行錯誤で方法を編み出したのでしょうね。」


 数奇院すうきいんの言葉に太刀脇たちわきが深く頷いた。メキシコでそれこそ本物の違法薬物を扱っていた太刀脇たちわきには思い当たる節があるらしい。


「昔、アメリカ、風邪薬から、ドラッグ、取り出す。カルテル、競合。潰す、時間かかった。」


 どうやら実際に大規模にそういった犯罪が蔓延した時期があったらしい。世界の広さに顔をひきつらせた僕を尻目に、数奇院すうきいんが続けた。


「はじめは本当に純度が低かったでしょうね。それを何世代も改良を重ねてそれだけノウハウも蓄積していった。蛇塚へびづかさんの言っていた年々ドーピングの質があがっているというのもそういうからくりなのでしょう。」


 僕の脳裏に深夜の校舎でゴソゴソと薬品をいじっている生徒の姿が思い浮かぶ。確かに、神子かみこ高校ならありえないどころかしっくりときてしまう光景である。


「だから、まずは薬物の売人を特定するところから始めなければいけないようね。でも、あまり難しい話ではないはずよ。」


 数奇院すうきいんが語るには、このような薬品は時間が経つにつれ劣化する可能性を考慮に入れると買いだめなどはできないと予想できるという。それならば、体育祭に出場する生徒たちは頻繁に売人のもとを訪れるはずである。


「さらに、最近は体育祭が近づいてきたからか選手ひとりにつく護衛の数も増えたわ。安全と引き換えに彼らの動向はとても掴みやすくなっている、それならば獅子王ししおうさんの後をちょっとつけるだけで売人まで辿り着けるはずよ。」


 数奇院すうきいんの意見には特に反対する理由も見つからない。僕たちはこれから交代で獅子王ししおうの後をつけることにした。



 が、それから一週間たっても獅子王ししおうはいっさい尻尾を出すことはなかった。"銀行屋"としての勤務時間を縫って後を追うも、獅子王ししおうは決して怪しげな人物と接触する様子もなかったのだ。


 それどころか、獅子王ししおうにはすこしも空き時間などなかった。授業もほとんどをサボって運動場で練習に励み、空き時間ではむさぼるように睡眠をとる。護衛から離れる時はわずかで、その大半が空き教室でドーピングをする時だけだった。


 いったい獅子王ししおうはいったいいつ薬物を手に入れているのだろう。それとも数奇院すうきいんの推測が完全に間違ってしまっていたのだろうか。


 僕の疑問は深まるばかりで解決する気配を一切見せなかった。

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