第9話

「あなた、まだ獅子王ししおうさんのことに拘っていたの?」


 数奇院すうきいんの呆れたような声を無視して、僕は目の前の本に視線を落とす。薬物の使用が体にもたらす影響が書かれたその書籍は獅子王ししおうとは別の"郵便屋"にわざわざ大金を支払って手に入れたものだ。


「ねぇ、いずみくん。聞いているかしら?」


 数奇院すうきいんが僕の目の前で退屈げに手を弄んでいる。獅子王ししおうのドーピングについて僕が調べ始めてから、数奇院すうきいんはいつもこの調子だ。


「あら、つれないこと。こんなにもわたしが話しかけているのに、聞こえないふりを続けるの?」


 まだなにか言っている数奇院すうきいんを無視して僕はひたすらに本を読み進めた。半分以上が専門用語で何を言っているかわからないのだが、そういったドーピング剤が体にもたらす影響は冗談では済まないことはよく伝わってくる。


 バシャリ。


 白黒の文字と余白で構成されていた僕の視界が茶色に染まる。顔をあげると、無表情の数奇院すうきいんが手に持つ紅茶のカップを傾けていた。


「ごめんなさい、つい手が滑ってしまったわ。」


 白々しく弁明しながら数奇院すうきいんが本を僕の手元から取り上げる。あっという間に濡れたページに白い紙を挟みこんで図書室の隅に持っていってしまった数奇院すうきいんが、ニッコリと微笑む。


「これで、ようやくわたしの話を聞いてくれるわね?」


 口角をあげてはいるが、目が笑っていない。どうして数奇院すうきいんがご機嫌斜めなのか一切わからない僕はすこし怖くなってとにかく無視するのをやめることにした。


「えっと、本ばっかり読んでてぜんぜん話を聞いていなかったや。ごめんね、しずか。」


「ええ、ええ、わかっているわ。いずみくんにはわたしとちょっとした会話を楽しむよりもずっともっと大切なことがあるのでしょう?」


 どこかすねた様子で数奇院すうきいんが皮肉を飛ばす。僕は本能でこの言葉は否定しなければいけないと悟った。


「い、いやそんなことはないよ。わー、しずかのお話をもっと聞きたいなー…。」


 心にもないことを棒読みで口にする。むろん、そんな嘘は数奇院すうきいんにはバレバレで、その黄金の瞳がすっと細められた。


「…いずみくん、おふざけにも節度というものがあるのよ?」


 大根役者の僕では三文芝居すら演じることができなかったようだ。僕は誤魔化すようにぎこちなく笑顔を浮かべてみる。数奇院すうきいんもそれはそれは見事な毒々しい笑みを返してくれた。


「そうね、そんなにわたしとお話しするのが嫌だというのなら、機会をあげましょう。」


 数奇院すうきいんが本棚からすらりとほこりの積もったトランプカードを取り出してくる。それを見て僕は嫌な思い出がまざまざと蘇ってきた。


「まさか、今から神経衰弱でもするんでしょうか…?」


「ええ、簡単なゲームでしょう? あなたが勝てばあなたはもうわたしの話を聞かなくて結構。わたしもあなたを煩わせることはしないわ。」


 数奇院すうきいんがニッコリと笑う。


「もちろん、あなたが勝つまでわたしと楽しくお話ししてもらうのだけれど。」


 どこかウキウキとした様子の数奇院すうきいんがトランプのカードを並べているのを僕は苦笑いしながら見つめることしかできなかった。


 かつて僕が数奇院すうきいんの機嫌を損ねてこの罰を言い渡された時は確か翌日の朝までずっとやらされた記憶がある。僕はそっと壁にかけられた時計をみて絶望した。たぶんこれは徹夜コースだろう。


「さあ、最初はあなたからどうぞ?」


 数奇院すうきいんがニコニコと僕に手番を譲ってくる。死んだ魚の目で僕は初めの一枚をめくった。



 コケコッコー。


 存在しないはずの鶏の鬨の声を幻聴する。朝日の清々しい光が差しこむ中血走った目で数奇院すうきいんの手札を眺める僕はけっきょくあれから一睡もしていなかった。


 その間に僕たちは、神経衰弱、ポーカー、ブラックジャック、七並べとトランプを使ってできるありとあらゆる遊びに触れている。今僕は数奇院すうきいんとババ抜きをしていた。


 目の前では数奇院すうきいんが二枚のカードをひらひらと揺らしている。僕は一枚のカードをつまむ素振りをして、数奇院すうきいんの顔色を窺った。


 徹夜の疲れなど一切感じさせぬ普段通りの笑顔だ。


 もう片方のカードをつまんでみる。それでも数奇院すうきいんはいっさい表情を変えなかった。


 ええいままよと覚悟してそのカードをひく。確率は半分であるはずなのに、今度も僕が引いたのはジョーカーだった。


「そ、そんなばかな…。」


「あら、ハートの2。そろってしまったわ、わたしも運がいいのね。」


 椅子にくずおれる僕を横目にあっさりと僕の手札からカードをひいた数奇院すうきいんが最後のペアをそろえてしまう。


「また今度もわたしの勝ちね。」


 トランプの山に二枚をそっとのせた数奇院すうきいんは笑顔で勝利宣言をした。


「さあ、もう一度しましょう?」


 絶望と眠気でもう気力がすこしも残っていない僕は、数奇院すうきいんの続行という決断に気が遠くなりそうだった。


 あれ、数奇院すうきいんがたくさん見えるぞ。ひとり、ふたり、さんにん…。


 疲労のあまり視界がぶれて幻覚を見始めた僕は、ふと数奇院すうきいんの袖の中に一枚のカードが入っているのに気がついた。


 ぼんやりとした意識のまま数奇院すうきいんの手を握る。


いずみくん?」


 困惑した様子の数奇院すうきいんの服の袖に僕はそのまま手を突っこんだ。


いずみくん!? いったいあなたはなにをしているの!?」


 とたんくすぐったそうに身をよじりだした数奇院すうきいんが身動ぎするのも気にせずにそのブラウスの袖の中をまさぐる。カードの硬質な感触に指先が触れたのを感じた僕は、それをひっぱりだした。


 ジョーカーのカードだ。確かに僕が山札に戻したはずの。


 僕は次第に意識が覚醒してきた。つまり、この数奇院すうきいんが隠し持っていたこのカードは二枚目のジョーカーということで…。


 もしもの話なのだが、最後の二枚になった時点で二枚ともジョーカーのカードになるようにすり替えておけば、相手は絶対に上がることができないだろう。ここまでのババ抜きの試合すべてで必ず最後の二択を外し続けてきたことを僕は思い出す。


 ああ、と僕は絶望した。もしかして数奇院すうきいんはイカサマをしていたのか?


「あら、気づかれてしまったわ。」


 数奇院すうきいんが先ほどまでの慌てた素振りがまるで嘘のようにすました顔でぼそりと呟く。僕は視界が暗くなるのを感じながら机に倒れ伏した。


 恐らく数奇院はこのほかにもたくさんのいかさまをしてきたのだろう。そうでなければいくらトランプでの遊びの実力があったとしても全勝することなど不可能なのだから。


 が、時すでに遅しである。数奇院すうきいんの勝利が確定した後にイカサマをしていたと見破ってももう結果は変えられないのだ。


「一生のお願いです、なんでもしますからもう寝かせてください……。」


 絶望にさいなまれて突っ伏す僕は、数奇院すうきいんに許しを請う。数奇院すうきいんもさすがにもう十分だと考えたのか、そっとトランプをシャッフルするその手を止めた。


いずみくん、そもそもあなたがほかのことにかまけてわたしの言葉を聞いてくれないのが悪いんじゃないかしら。だから、わたしもこうやってあなたを捕まえておかざるを得なくなったのよ?」


 数奇院すうきいんがまるで僕を催眠にかけるかのように耳元でささやく。徹夜明けの気怠さに思考をまとめることすらできない僕の頭に数奇院すうきいんの言葉はすっと入りこんでいった。


「うん、ごめんなさい…。」


「あなたがどれだけいけないことをしたかわかってくれたかしら。それじゃあ、いずみくん。あなたはこれからなにをすべきなの?」


しずかの話はなにがあっても聞くよ…。」


「それでいいのよ。」


 数奇院すうきいんが満足げに口元を緩める。半ば洗脳状態に陥った僕はただただ数奇院すうきいんの言葉に従ってはやく寝床にありつくことしか考えられなくなっていた。


「さあ、こんな一晩中起きていて疲れたでしょう? もう眠ってもいいわよ。」


 数奇院すうきいんの言葉に安堵しながらだるい体を起こしてソファにむかう。そんな僕に椅子に腰かけたままの数奇院すうきいんが優しげに声をかけた。


「そういえば、明日はなにか用事があったりするの? もしお望みならわたしが時間になったら起こしてあげるわ。」


「ああ、明日は蛇塚へびづかっていう獅子王ししおうのライバルに話を聞きに行く予定があって………!?」


 意識が朦朧としたまま思いついたことをそのまま口にしてしまった僕は瞬時に自分の過ちを悟る。よりにもよって今の数奇院すうきいんに対しては絶対に触れてはいけない獅子王ししおうのことを話題にしてしまったのだ。


 胃がキリキリと痛むような沈黙が広がる。


いずみくん、反省が足りていないようね?」


 背後からの数奇院すうきいんの声色は冷たいなんてものではない。その言葉だけで僕はもう先が読めた。


「さあ、もどってきなさい。続けるわよ。」


 僕は僕のおっちょこちょいな口を呪いながら踵を返した。

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