第7話

 今日も今日とて神子かみこ高校は体育祭一色に染まっていた。


 徒競走やリレーといった賭博の対象となる種目に出場する選手たちが、数人の護衛に囲まれて練習に励んでいる。脇には水筒を携えた助手がいるなどまさに至れり尽くせりだ。


 そのなかでも、ひときわ多くの生徒に守られている選手がいた。獅子王ししおうだ。


 短髪の黒髪をたなびかせながら、獅子王ししおうが運動場の外周を走る。去年の徒競走の優勝者の登場に、多くの物見遊山気分の野次馬と数は少ないが鋭い目つきの敵対選手の視線が注がれた。


 運動場に集まる生徒たちの欲望が渦巻き剣呑な雰囲気が広がる中、獅子王ししおうは相変わらずほれぼれとするような走りを見せつける。その様子を僕は図書室の窓からじっと眺めていた。


 あの日、梅小路うめこうじ数奇院すうきいんが珍しく一致した意見に、僕はなにも言い返すことができなかった。


 ドーピングは梅小路うめこうじのいう通り悪いことだ。そして、悪事を働いている以上そのドーピングの結果どんな目にあおうともそれは獅子王ししおうの自業自得である。


 僕は未だその意見になんら反論することができなかった。どこか心の中で納得してしまっている自分がいるのだ。さらに、僕の頭に取りついて離れないひとつの考えが僕を苦しめていた。


 はたして、ドーピングをやめさせる権利は僕にあるのだろうか?


 たとえば、目の前に瀕死の病人がいたとして、助かる見こみもないとする。そんな時、その病人が死ぬ前の最後にフライドポテトをたらふく食べたいと願ったとしてそれを断れる人間がどれほどいるだろうか?


 そんな死の病とドーピングとを比べるのはナンセンスだという人もいるだろう。しかし、僕は根底の問題は同じだと思うのだ。


 世間で悪いとされていることでしか幸福を感じられない人がいる時、僕たちはその悪を罰するべきなのだろうか。


 もちろん、ほかの人々に迷惑をかけているのなら、その悪は多くの場合認められないことが多い。だが、こと神子かみこ高校におけるなんでもありの徒競走でドーピングしたからといっていったい誰が気にするのだろう。


 ほかの選手が小汚い手を使っている中、獅子王ししおうが勝利するために薬に手をのばしたとしても、神子かみこ高校ではなんら責められることはないだろう。


 どうせ高校を卒業してもプロの陸上選手になることはないのだから、なおさらである。


 それに、なによりも躊躇する理由は、僕が獅子王ししおうの徒競走にかける思いを知っているからである。僕は、獅子王ししおうにとって不治の病は徒競走のたとえに充分なりうるとすら感じていた。



 入学して初めに声をかけたのは、僕からではなく獅子王ししおうからだった。その当時、僕は料理のできない生徒のためにかわりにご飯を作っていたことがあったので、その噂を聞きつけたのだろう。


いずみ殿! 初対面で失礼だとは重々承知しているが、吾輩に料理を教えてほしい!」


 最初に顔を合せたときの第一声を今でも覚えている。いきなり僕に頭をさげてきた獅子王ししおうは開口一番に料理のいろはを教えてくれるよう頼んできたのだった。


「実は吾輩は陸上をやっておってな……。」


 目を丸くした僕に獅子王ししおうが語った理由は、やはり徒競走であった。


 今年の徒競走で本気で一位を狙いたいこと、そしてそのためにきちんとバランスの取れた食事を口にしたいことを僕に語った獅子王ししおうはそのくもりなき眼で僕を真剣に見つめたものだった。


 どうやら中学生まで料理はすべて両親に任せっきりだったらしい獅子王ししおうはゆで卵の作り方さえも知らなかった。僕は何度獅子王ししおうが自分の手を切ったり火傷しかけたりを繰り返したか覚えていない。


 それでも獅子王ししおうはあきらめなかった。指を絆創膏でぐるぐる巻きにしながら、それでも包丁を握り続けたのだ。


 そんな獅子王ししおうのひたむきな努力を見て、僕は神子かみこ高校に来て初めて心が暖かくなった。


 誰も獅子王ししおうに期待していなかったので、僕だけでも応援しに行こうと炎天下の中水を片手に運動場で獅子王ししおうの練習に何度もつきあった。二人一緒に敵対選手の刺客から命からがら逃げだしたこともある。


 どんなに危ない目にあっても、獅子王ししおうは出場を諦めることはなかった。その理由を僕は聞いたことがある。


「吾輩は、走るのが好きなのだ。」


 とっぷりと暮れていく夕日の中、獅子王ししおうが気恥ずかしそうに口を開く。風をきって大地を駆け抜ける、その瞬間が一番自由で解き放たれたように感じるのだと。


「ただひたむきに、走って走って走り続ける。吾輩はこの高校の誰よりも走ることが好きな自信がある。だから、吾輩は一位をとりたい。」


 その当時すでに体育祭が生徒たちの違法賭博の祭典であることを知っていた僕にとって、その獅子王ししおうの純真な笑顔はあまりにも眩しくて目がくらみそうだった。


 だからこそ、去年の体育祭。大半の下馬評を覆して二位の生徒とデッドヒートを演じた獅子王ししおうがついに栄光を掴んだ時、僕は飛び上がらんばかりに喜んだ。


 もちろん獅子王ししおうが一位をとったことも嬉しかったのだけれど、それよりも獅子王ししおうのひたむきな努力が実ったことがなによりも胸を打ったのだ。


 ゴールテープを切った後、自分が一位になったのが信じられないとばかりに後続の選手を見つめていた獅子王ししおうが、自らの勝利を実感して拳を天高く掲げる。



 僕は今でもあの日の獅子王ししおうが僕にむけた満面の笑みを忘れられない。


 あれほどまでに徒競走を愛していた獅子王ししおうがもしも本心からドーピングを望んでいたとしたら、僕はいったいどうすればいいのだろう。


 僕はそれが心底恐ろしかった。獅子王ししおうにとってドーピングがどれほどの意味を持つのか、僕には想像もできないのだ。


 深い思索に沈んだまま、図書室を後にする。獅子王ししおうに果たしてドーピングについて尋ねるべきか、さらにやめるよう伝えるべきか。


 悩み続けていた僕は、くしくもあの嵐の日に獅子王ししおうを見かけた廊下に足を運んでいた。あの日の獅子王ししおうの姿を思い出した僕は、一層悩む。


 その時、体操服姿の獅子王ししおうが僕の前を横切っていった。


 普段の護衛もつけず、一人で例の空き教室にむかっている。気がついたころには、僕の足は獅子王ししおうの後ろをつけていた。


 すぐ後ろをついてくる僕に気づく素振りもなく獅子王ししおうはびくびくしながらおっかなびっくり歩を進める。


 空き教室に姿を消した獅子王ししおうを、廊下の角から見つめる。いろいろとぐちゃぐちゃな思いを抱えたままの僕は、静かに教室の前に移った。


 なにをしたいのかわからないまま、目の前の扉を見つめる。こんなところまで獅子王ししおうを追いかけまわしていったい自分はなにをしたいんだろうか。


「ったぁ……。」


 うじうじとしたそんな僕の悩みも、空き教室から獅子王ししおうの押し殺された悲鳴を耳にした途端に吹き飛んでしまった。考えるよりも先に、体が動く。


獅子王ししおう!」


 空き教室に飛び込んだ僕が目にしたのは、腕に注射針をさそうとしている獅子王ししおうの痛々しい姿だった。

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