第6話

 鳴り響く雷鳴の中、カタカタと乾いた音をたてて実験器具が動く。僕の手からビニール袋をひったくったかと思うと、梅小路うめこうじはあっという間に実験の計画をたてて作業を始めてしまったのだ。


「まあ、対価とらん言うたのは別の理由もあってやな。この学校の設備やとできることも限られとるから、実はあんまり自信ないんよ。」


 手元のノートと睨めっこしながら梅小路うめこうじが口を開く。


「今の時代やったらほんまに便利な機械がたくさんあるんやけど、たいていが高いもんやからこないな高校にあるはずもないんや。ダメやったらその時はごめんやで。」


 梅小路うめこうじの言葉をとんでもないと否定する。タダで僕の頼みを聞いてくれているだけでも十分にありがたいのだ。


 しばらくの間慌ただしく歩き回る梅小路うめこうじを目で追う。梅小路うめこうじのしていることは僕には難しくて全くわからない。手伝うことなどできるはずもなかった。



 梅小路うめこうじがすこしずつ粉末を小分けにして薬品に溶かしていく。すこしずつ物質の特徴を絞りこんでいるらしく、梅小路うめこうじはそのたびにノートに大きな横線を引いていった。


 次々と試料として消費された粉末は量を減らしていく。ビニール袋の中の粉末が残りわずかになるにつれて、梅小路うめこうじの表情も険しくなっていった。


「これで、最後や。」


 梅小路うめこうじが最後に残された粉末を有機溶媒に溶かしていく。それを僕はただ背後で見つめた。


 しばらく梅小路うめこうじがカチャカチャとガラス器具を操作する。最後になにか毒々しい色合いになった液体を試験管に流しこんだ。


「終わったで。」


 気味の悪い色味のその試験管を試験管立てに静置した梅小路うめこうじがゴム手袋を脱ぎ捨てる。そのまま疲れた様子で丸椅子に腰を下ろした。


 ふうっとため息をついてしばらくの間ノートを眺めた梅小路うめこうじが口を開いた。


「これだけ制限がある中でようやったわ、流石にうちもここまでできるとは思わんかった。」


 どことなく満足げな表情を浮かべた梅小路うめこうじが実験器具越しに僕を見つめる。もはや空っぽになったビニール袋をひらひらとさせながら、梅小路うめこうじはその正体を明かした。


「たぶんこいつはホルモンの一種やな。」



「ホルモン?」


 ホルモンと聞いて浅学な僕は焼き肉の部位しか思い浮かべることができなかった。ちなみに個人的にはなかなか噛みきれなくて嫌いである。


いずみはん、まさかやと思うけど焼き肉のことや思とらんやろな? それは内臓の部位のことやで?」


 呆れたような目つきで梅小路うめこうじに睨まれた僕は恥ずかしくなって顔が赤らむのを感じた。当然、あの粉末がそんなお肉のことであるはずがない。


いずみはん、ホルモンちゅうのは体の機能の調節を行っとる物質のことや。」


 僕の馬鹿さ加減にうんざりした梅小路うめこうじが有名なアドレナリンを例に挙げてくれた。危ない目にあった時に心臓の働きを強めたり瞳孔を広げたりといろいろなことをしてくれる物質らしい。


「んで、こいつはそのたくさんの種類があるホルモンのうちのどれかいうわけや。厳密にいうとホルモンそのもんやなくてそういったホルモンを体内で作らせる物質なんやけど。」


 梅小路うめこうじのわかりやすい説明のおかげで僕はその言葉の意味を理解できた。つまり、薬の一種ということでいいようだ。


「で、ここからが本題やねんけど………。」


 梅小路うめこうじがビニール袋を机の上に置いて立ち上がる。実験器具を片付けながら梅小路うめこうじは独り言のように僕に語りかけた。


「いったいこの薬はなんのために使われたんやろな?」


 別にこの粉末の正体が絶対にホルモンの一種と断言できるわけではない、と梅小路うめこうじが続ける。それに、たとえホルモンの一種だったとしてもなんらかの疾患の治療薬である可能性もある。


「やけどな、ホルモンっちゅうのは別の目的にも使えたりするんや。」


 梅小路うめこうじが手を止め、僕に振り向く。



「たとえばドーピング、とかな。」


 僕はガンガンと理性が警鐘を鳴らしているのを感じた。考えたくないと心が思考を拒否する。


 しかし、それは無視するにはあまりにも出来過ぎていた。


 体育祭間近、徒競走に出場、廊下での突然の昏倒。獅子王ししおうの行動のすべてがカッチリと組あわさっていく。


「もちろん、治療目的やない不適切なホルモン剤の使用は危険やなんてもんやない。そない無理したら体はもちろんボロボロなるやろし、下手したら寿命縮めるやろな。」


 梅小路うめこうじの言葉で嫌が応にでも獅子王ししおうの貼りつけたような笑みが脳裏に浮かんだ。体がボロボロになる、寿命が縮む……。


 黙りこんでしまった僕に気がついたのか、梅小路うめこうじが近づいてきた。


「まあ、うちの解析も完ぺきとはいかん。もちろん間違っとる可能性もある。」


 梅小路うめこうじの励ましの言葉でさえも遠く聞こえる今の僕は、そうとう心がまいっているらしい。フラフラと立ち上がった僕は、とにかく数奇院すうきいんに真偽を確かめなければいけないという思いでいっぱいだった。


いずみはん? 大丈夫か?」


みやびさん、こんな遅くまで僕の頼みごとにつきあってくれてありがとう。それと、このことは誰にも伝えないでほしい。絶対に僕一人で何とかするから。」


 お礼の言葉を口にしながら、僕は近づいてくる梅小路うめこうじを手でやんわりと制止した。とにかく、早く数奇院すうきいんにこのことを問いたださなければ。



「あら、いずみくん。こんなところにいたのね。」


 数奇院すうきいんの声がする。顔を上げると、化学室の扉に見慣れた銀髪の姿があった。


「これはこれは、数奇院すうきいんはん。こんな遠くまでご苦労様なことで。でも大丈夫、いずみはんの頼みごとはうちがしっかりと終わらせたったわ。残念なことにいずみはんは数奇院すうきいんはんのことあんまり信用しとらんようやな。」


「えらくいずみくんの一挙手一投足が気になるのね、梅小路うめこうじさん。いずみくんが誰に頼みごとをしたかで一喜一憂するだなんて、わたしにはとてもできないことだわ。」


 なにやら二人が言い争っているのを無視して、僕は数奇院すうきいんに詰め寄る。目を丸くする数奇院すうきいんの腕をつかんで振り向かせた。


いずみくん? いったいどうしたの?」


獅子王ししおうのこと、どうして教えてくれなかったんだ。」


「なんのことかしら? 獅子王ししおうさんがあなたの料理を時々図書室でつまみ食いしていたこと?」


「違う!」


 自分でも驚くほどの声が出て、ようやく僕は自分の調子がくるっていることを理解した。驚いたように僕を見つめる二人の視線のおかげでゆっくりと頭が冷えてくる。


「……大声出してごめん。だけどもう誤魔化さないできちんと教えてほしい。獅子王ししおうがドーピングしているのはほんとうなのか。」


 僕の言葉に、数奇院すうきいんが化学室を改めて見回す。ようやくなにがあったか把握したらしい数奇院すうきいんは小さく舌打ちをした。


梅小路うめこうじさん、面倒なことをしてくれたわね。」


「面倒やなんてひどいわぁ、うちはただいずみはんの頼み聞いたっただけやのに。」


 僕は数奇院すうきいんの目をじっと見つめる。根負けしたかのようにため息をついた数奇院すうきいんはゆっくりと頷いた。


「ええ、獅子王ししおうさんがドーピングをしているのは事実で、薬代はわたしが渡している密偵の謝礼から捻出していることも知っているわ。」


「なら、どうして止めようと思わなかったんだ!」


 僕は語気が荒くなっていくのを抑えられなかった。いくらなんでも目の前で友人が犯罪行為に手を染めているのを見過ごしていただなんて平穏な気持ちで入れるはずもない。


 なかばやつあたりのような僕の言葉に、数奇院すうきいんが冷たい視線をむける。


「なら、わたしは獅子王ししおうさんをクビにしたほうがよかったかしら? もしもわたしが十分な謝礼を与えていなかったら間違いなく獅子王ししおうさんはもっと悍ましいことに手を染めていたわよ?」


 残念なことに、ここ神子かみこ高校では売春まがいのことが行われているという噂もあった。そうでなくとも、強盗団などという物騒な集団も跋扈している。数奇院すうきいんの言葉には説得力があった。


「そもそもドーピングをしているのは獅子王ししおうさんよ。獅子王ししおうさんがそれを望んでいるのなら、いずみくん、あなたにだって口出しする権利はないわ。なにかあったとしてもそれは獅子王ししおうさんの自己責任よ。」


 数奇院すうきいんが突き離すように言い捨てる。


 確かに、ドーピングをしているのは獅子王ししおうで、数奇院すうきいんには関わりあいがない。助けを求められたのならともかく本人の意思だというのなら冷たいようだが数奇院すうきいんには関与の必要が感じられなかったのだろう。


「せやで、いずみはん。数奇院すうきいんはんに味方すんのも癪やけど、ドーピングはしたやつが悪いわ。」


 梅小路うめこうじが冷徹に語る。


「あら、珍しく気があったわね。」


「うちらの意見が一致したんとちゃう、いずみはんが優しすぎるだけや。いいか、ドーピングは悪でそれに手を染めたやつは人扱いしたらあかん。寿命が縮んでくたばってもそれはそいつの自業自得や、そんなやつのことなんて気にする必要ないわ。だいたい賭博やっている時点でほかの選手にも同情なんてできんわ。」


 あの夜のことを彷彿とさせるような持論を展開する梅小路うめこうじを直視できないのは、心のどこかでその考えを認めてしまっている自分がいるからだろうか。


 うつむいたまま僕はいったいなにをするのが正解なのかわからなくなった。

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