第5話

獅子王ししおうはまるで警察に追われている指名手配犯であるかのように周囲をきょろきょろ見渡しては警戒しながら、そうっと空き教室に姿を消す。


 獅子王ししおうがもう廊下に出てきそうもないことを確認した僕は止めていた呼吸を再開して曲がり角の影から離れた。完全に廃墟と化しつつある校舎の一角で雨漏りに打たれる。


 僕が今いるのはいつも訪れている廃教室に負けず劣らずの辺鄙なところにある秋教室の前だった。


 ゴロゴロと鳴り響く雷の光が、大きな穴の開いた壁から時折入りこんでくる。空き教室の扉に耳をあててみても、残念なことに雷雨の音でなにも聞こえない。獅子王ししおうがこの教室でいったいなにをしているのかは推測すらできなかった。


 空き教室に入るべきか悩む。


 この前廊下で倒れていたとはいえ、その後に獅子王ししおうがおかしな様子を見せることはなかった。いつも通り快活な表情で校舎の周りを何周も走って体育祭にむけて練習しているところは全く変わっていない。


 僕だってここ数日の出来事であの日獅子王ししおうに抱いた違和感はただの勘違いだと考えることにしていた。今日だって獅子王ししおうが隠れるようにしてこんな空き教室までやってきているのもなにか些細な隠し事があるだけで、僕の取り越し苦労というやつなのかもしれない。


 扉の脇でしゃがんでうんうんと頭を悩ませていると、ガラリと扉が開く。


 後をつけていたことがバレてしまうのはまずいと首を竦めるが、急いでこの場を離れようとしている獅子王ししおうは奇跡的に僕に気づかず来た道を戻っていった。


 空き教室の前に僕だけが取り残される。


 周囲に誰もいないことを確認した僕はモクモクと好奇心が首をもたげてくるのを感じていた。この空き教室の中に獅子王ししおうの不可解な謎に関する手がかりがあるかもしれない。


 いけないことだとはわかっていながらも好奇心に負けてしまった僕は、獅子王ししおうが心配なのだと誰にともなく言い訳しながら教室に足を踏み入れた。


 意気込んで入ったはいいものの、空き教室にはビックリするぐらいなにもない。


 かつては地学教室だったのか、岩石の標本がまばらに放置されているだけで机も椅子もない空き教室はとても獅子王ししおうの秘密を隠しているとは思えなかった。


 いったい獅子王ししおうはこんな空き教室で何をしていたというのだろうか。


 その後、僕がいくら教室の中を見回ってもなにも見つけることはできなかった。まさに骨折り損のくたびれ儲けというやつである。


 空き教室の中をうろうろとするのにも飽きた僕は、教室のまんなかに戻ってぐるりと一周見渡してみるも、目に入るのは何度も見た平凡な空き教室の無機質な壁ばかりであった。


 もう図書室に戻ろう、そう考えた時になってようやく視界の端になにか違和感を捉える。


 なぜか床の一部が白っぽいのだ。近寄ってよく見てみると、結晶状の白い粉が一面に散っていた。


 明らかに埃とか砂とかそういった自然のものではない、キラキラと光る粉末を前に僕は眉を顰める。もしかして、これが獅子王ししおうの秘密だというのか。


 僕は一瞬麻薬を連想して脳裏からかき消す。流石の神子かみこ高校の生徒といえども獅子王ししおうがそこまで落ちぶれているとは考えられなかった。


 しばらくためらったのち、僕は懐から取り出したビニール袋にその粉末を集める。光をあてて透かしてみるも、僕にはその粉の正体はいっさいわからなかった。



 ズボンのポケットに入れた袋を肌で感じながら廊下を足早に図書室に戻る。数奇院すうきいんに聞けば正体がわかるかもしれない。


 が、あることを思い出して僕は足を止めた。数奇院すうきいんに尋ねたとして、ほんとうに正解を教えてくれるのだろうか。


 思えば獅子王ししおうが倒れたあの日も、数奇院すうきいんはまったく興味を持っていない様子でなにを聞いてもはぐらかすだけだった。もしかすると、あの時すでに数奇院すうきいん獅子王ししおうの秘密について知っていて、それを僕に隠していたのではないのだろうか。


 僕はあの日に数奇院すうきいん獅子王ししおうに忘れ物と称してなにかを渡していたことも思い出す。あのなにかがこの粉末なのだとしたら、数奇院すううきいんに尋ねてもなにも教えてくれないのではないか。


 かといって、他の誰を頼ればよいのだろう。


 生憎と、僕には化学について詳しい友人など一人もいなかった。そもそも神子かみこ高校それそのものが不良の掃き溜めなのだから、化学などという高尚な学問に明るい人間など片手で数えるほどしかいないだろう。


 いや、実を言うとひとりだけ僕はあてがあった。


 が、意識的に候補から外していた。その人物は僕がなにがあっても絶対に近寄りたくないほど苦手だからだ。


 獅子王ししおうを心配する気持ちと、精神的な嫌悪感が心の中で争う。苦渋の選択を終えた僕は、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべて踵を返したのだった。



 雨脚が一層早くなっている。とめどなく鳴り響く雷を背景音にしたその扉はまるで魔王城の城門のようにおどろおどろしく感じられた。


 扉に触れた手が重い。目的の生徒が暮らしている教室の前でもなお僕は覚悟を決められていなかった。


 内心の不安を押し殺すかのように唇を噛み締めた僕は、腕に力をこめる。背に腹は代えられない、ここまできたのだから最後までやりきるべきだろう。


 明るい暖色の照明で照らされた室内の真ん中に、僕の探し人はいた。まるで僕の来訪が信じられないとばかりに目を丸くしている。


「あら? いずみはんやん、いったいどうしたんや?」


 白衣に身を包んだ梅小路うめこうじが、ビーカー片手に立っていた。



「ほ~ん、理由は明かせんけどその粉末の正体を調べてほしいゆうんか。」


 訝しげに梅小路うめこうじが袋の中の粉末を見つめる。僕はそっと目の前に座る梅小路うめこうじをうかがった。


 こと化学の分野に限るのなら、梅小路うめこうじ数奇院すうきいんをもはるかに凌駕している。梅小路うめこうじはその本性を露わにする前から、化学に関してはほかの生徒の理解が追いつかないほどの知識を披露していた。


 梅小路うめこうじはもはや日課のように暇さえあれば化学実験をしているのだ。


「うちはてっきりいずみはんが二人三脚うちと組むつもりになってくれたんやと嬉しかったんやけどなぁ~。」


「それは、ごめん。」


 恨めしげに文句を言う梅小路うめこうじに対して僕はひたすらに謝ることしかできない。なにしろ僕は頼みごとをしていて、梅小路うめこうじは頼まれる側なのだから。


「ま、ええわ。やったるで。」


「え、ほんとう! ありがとう!」


 梅小路うめこうじがあっさりと首を縦に振ってくれたので、僕は思わず飛びあがって喜んでしまった。


 実は僕が勘違いしていただけで、梅小路うめこうじはいい人なのかもしれない。自分の今までの考えを悔いた僕が梅小路うめこうじについての印象を改めようとしたときだった。


「やけどな、ただっちゅう訳にはいかへん。勿論やけど対価はもらうで?」


 梅小路うめこうじがにこにこと笑ったまま顔を僕の鼻先まで近づける。真っ赤な瞳の奥にドロドロとした黒が渦巻いていた。


「そやな、いずみはんがうちのいうことはなんでもひとつだけ必ず聞くっちゅうのはどうや?」


 恐ろしい条件をさらっと口走った梅小路うめこうじに僕の背筋が凍る。もしかすると梅小路うめこうじを頼ろうとしたのは大失敗だったのかもしれない。


 梅小路うめこうじの猛禽のような真紅の瞳がすぐそこにあった。


 息ができない。ただひたすらに怯えてその笑顔を見つめることしかできない僕に、梅小路うめこうじはうっとりとしたような恍惚の表情を浮かべた。


 梅小路うめこうじの手が近づいてくる。恐怖に身動きできない僕はぎゅっと目をつむることしかできなかった。


「冗談やって、そないに怯えんでもええやないか。」


 パコン。


 頭に軽く衝撃が伝わる。グラフ用紙で頭をはたかれた僕が目をパチパチさせるのを梅小路うめこうじは悪戯げな笑みでからかった。


「ほかならぬいずみはんの頼みや、無料でやったるわ。」


 梅小路うめこうじの言葉に安心する。どうやら先ほどまでの話は質の悪い冗談だったようだ。


 そう胸を撫でおろした僕に、梅小路うめこうじは不意打ちの一言を放った。


「それに、うちのことを頼ってくれるっちゅうことは、数奇院すうきいんはあてにならんっていずみはんが判断したっちゅうことやろ?」


 あ。指摘されて初めてその意味に気がついた僕は顔を青ざめさせる。もしも、数奇院すうきいんがこのことを耳にしてしまったら………。


「心配せんでええ。うちは口が堅いからな。」


 梅小路うめこうじがチロリと真っ赤な舌を口から出す。


「でも、嬉しいわぁ。いずみはんが数奇院すうきいんのかわりにうちを選んでくれるなんて。」


 僕はひきつった笑みを浮かべながら、やはり梅小路うめこうじはのっぴきならない相手だと心に刻んだ。

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