第3話

 獅子王ししおうは図書室に運びこんだ後も、目を覚ますことはなかった。ソファに横たわる背の低い少女を前に僕は途方に暮れる。


 日本の常識が通用しない神子かみこ高校では法律で設置を義務づけられた保健室などあるはずもないので、怪我をしたときは自然療法にまかせるか手前味噌の手当てで済ませるほかない。神子かみこ高校にはそういったことに詳しくて金銭を代償に治療を行う生徒もいるそうだが、幸いなことにか僕はお目にかかったことはなかった。


 そうでなくとも獅子王ししおうの様子はどこかおかしかった。熱中症ではないかと疑うも、顔は赤くなっていない。さらには、体温も正常なのだ。


 いったいどうして獅子王ししおうはあの廊下で気を失っていたのだろう。僕はやきもきしながら数奇院すうきいんの帰りを待っていた。数奇院すうきいんならばなにか手がかりを見つけられるかもしれない。


「あら、いずみくん。獅子王ししおうさんを連れこんでいったいどうしたの?」


 体操服から制服に着替え終わった数奇院すうきいんが図書室に姿を現す。シャワーでも浴びてきたのか、そのショートの銀髪はしっとりと濡れていた。


 どうやら数奇院すうきいん獅子王ししおうがただ単に居眠りをしているだけだと勘違いしているらしい。僕は数奇院すうきいん獅子王ししおうが廊下で倒れ伏していたことを伝えた。


「そう、獅子王ししおうさんが廊下で倒れていたの。それで、いったいどうしたのかしら?」


 なぜか興味なさげに数奇院すうきいんが僕に話の続きを促してくる。僕が何も言えずにいると、数奇院すうきいんは気だるげにソファのそばによった。


「話はこれで終わり? あら、なら別に騒ぐことじゃないわ。ただ単に獅子王ししおうさんが練習を頑張りすぎて疲れてしまっただけ、そうじゃない?」


 獅子王ししおうの手の脈を測りながら数奇院すうきいんがなんともないように語る。


「でも、」


「そんなに獅子王ししおうさんのことが心配なら、すこしは休憩するよう言い聞かせればどう? それで聞き入れないようならそこから先は獅子王ししおうさんの責任よ。」


 獅子王ししおうの体調には一切興味がないとばかりに数奇院すうきいんは椅子に腰を下ろす。そのまま本に視線を落としてそれきり口を閉ざしてしまった。


 僕がそのあまりにもあっさりとした数奇院すうきいんの釈然としないものを感じていると、獅子王ししおうの瞼がかすかに動く。しばらくして、獅子王ししおうはそのくりくりとした黒い目をぱちぱちさせた。


 困惑した様子で周囲を見渡す獅子王ししおうが僕を目に入れる。まだ頭が混乱しているのか、うすぼんやりとした表情で僕に尋ねてきた。


「うむ? いずみ殿、確か吾輩は今しがたまで運動場にて徒競走の練習に励んでおったはずだが、なぜ図書室にいるのだ?」


「えっと、獅子王ししおうは廊下で倒れてたんだよ、覚えてる?」


 少しの間僕の言葉を反芻していた獅子王ししおうの表情がさっと青ざめる。僕はびっくりして目を見開いた。


獅子王ししおう、いったいどうしたの? そんなに慌てて。」


「いやいや、廊下に倒れこむほど疲労がたまっておったとは思いもしなかったのでな。どうやら練習の疲れが残っておって廊下を歩いている最中にでも体力に限界が来たのであろうよ。」


 無理やり苦笑いらしき表情を浮かべる獅子王ししおうだが、内心の動揺は全く隠すことができていなかった。僕と言葉を交わしている間も、その目はなにかを探すかのように絶えず周囲を走り回っている。


 わなわなと震える手にせわしない目の動き。獅子王ししおうの挙動不審っぷりは僕が疑いを持つのに十分だった。


獅子王ししおう、ほんとうに大丈夫かい? 」


 再び、今度は真剣な口調で問いかける。僕の顔をちらりと見た獅子王ししおうは助けを求めるかのように数奇院すうきいんに視線を送った。


「別にそんなに怯えなくとも、いずみくんは気づいていないわよ。」


 数奇院すうきいんが目線すらむけずにそう口にする。僕は頭上に疑問符を浮かべた。僕がいったい何に気がついていないというのだろう?


 その言葉の意味が理解できていない僕と対照的に、獅子王ししおうの表情は途端に明るくなった。心底安心した風に胸をなでおろす獅子王ししおうに僕の困惑は深まるばかりだ。


いずみ殿にも迷惑をかけた、そろそろ失礼する。」


 獅子王ししおうがふらつきながらも立ち上がる。僕の静止を振り切ってそのまま図書室の扉にむかう獅子王ししおうはまるで一刻でも早くこの場から去りたがっているかのように見えた。


 と、獅子王ししおうの体がぐらつく。ゆらりと倒れかけたその小さな背中を慌てて支えた。


「無茶をしちゃダメだって、獅子王ししおう! もうすこし横になってなさい!」


 羽のように軽い体を持ち上げてソファの上で無理やり横にならせる。それでもなお動こうとする獅子王ししおうの体を押さえつけた。


「ほんとうに吾輩はなんともないのだ! 大丈夫だから手を離してくれ!」


「いやいや、まともに歩けない人は大丈夫じゃないから!」


 獅子王ししおうと二人、ソファの上で揉みあいをしていると、図書室の扉がコンコンと叩かれる。思わず暴れるのをやめた獅子王ししおうにならって僕も扉のほうに目をむけた。


 いったい誰がやってきたのか。窓の外はとっくに暗くなっていて、"銀行屋"の営業時間外であることは明白だった。


「いいわ、入りなさい。」


 数奇院すうきいんが軽く入室を許可したのち、ゆっくりと扉が開いていく。扉の向こうに立っていたのは、体育祭の種目決めで見かけたあの一人の男子生徒であった。


 細身で眼鏡をかけた、外見だけなら神子かみこ高校の生徒とは思えないようなおとなしげな生徒がぺこぺこと頭を下げながら入室してくる。


「すみません、失礼します。自分は双六原すごろくはらといいまして、体育祭で獅子王ししおうさんの手伝いをしている者です。獅子王ししおうさんがここに運びこまれたと聞いて様子を見に来たのですが………。」


 双六原すごろくはらと名乗ったその生徒は、ソファの上に横たわる獅子王ししおうの姿を目にして足早に近寄った。


獅子王ししおうさん、いったいどうしたのですか! 大丈夫でしたか?」


「ああ、双六原すごろくはら殿。吾輩はなんの問題もない、ただ練習の疲労がたまって目がくらんだだけのことである。」


「そんな! 自分とてあなたに勝ってもらわなければ困るんですよ! もっと体を労わってください!」


 双六原すごろくはら獅子王ししおうにつめよる。心配でたまらないといわんばかりに眉をひそめた双六原すごろくはらは、数奇院すうきいんに向き直ると勢いよく頭を下げた。


「この度はご迷惑をおかけして申し訳ありません。また後日この分の埋め合わせはいたしますので………。」


「わたしは礼を言われるようなことをした覚えはないわ。あなたが感謝するべきなのはそこのいずみくんよ。彼が廊下に倒れていた獅子王ししおうくんをここまで運んできたもの。」


 数奇院すうきいんの言葉に、双六原すごろくはらが勢いよく僕のほうに振り返る。ぎゅっと手を握ってぶんぶんと振り回した双六原すごろくはらはまさに赤べこのように頭を何度も下げた。


「そうでしたか、それは大変失礼いたしました。いずみくんには大変お世話になっています。なにしろ獅子王ししおうさんの数少ない友人の一人だとか……。」


 獅子王ししおうがわずかに顔を赤らめるのを見なかったことにして、僕は双六原すごろくはらが頭を下げるのを何とかやめさせることに成功した。



 依然として申し訳なさげな双六原すごろくはら獅子王ししおうを図書室の扉まで連れていく。僕は二人を廊下まで見送った。


「二人だけで本当に大丈夫なんですか? 夜の廊下、特に体育祭前はとても危険ですよ?」


「ええ、その点は抜かりなく。護衛を雇っておりますので。」


 双六原すごろくはらの言葉とともに背後から巨体の男子生徒と目つきの鋭い女子生徒が姿を現す。完全に一般の生徒ではないその雰囲気を感じ取って僕は納得せざるをえなかった。


「それじゃ、獅子王ししおう。あまり練習で無茶はしないようにね。」


 最後に軽く釘を刺すと、獅子王ししおうは弱弱しく微笑む。


「もちろんである。流石の吾輩ももう懲りた。それよりも、いずみ殿は今年も吾輩を応援してくれるか?」


「? 当たり前だよ。徒競走は絶対に最前列をとってみせるから、楽しみにしといてね。」


 僕は軽い気持ちで首を縦に振った。獅子王ししおうの競技を一番近くで観戦するのは別に今年に限った話ではなく、去年もしたことだった。


「…そうか、それはよかった。それでこそ、吾輩も本気で頑張れるというものだ。」


 すこし不安の晴れたような顔つきで、獅子王ししおうがニッコリと笑う。そうしてもう別れを告げようという時のことだった。


獅子王ししおうさん、忘れ物があるわ。」


 いつのまにか僕の背後に立っていた数奇院すうきいんが、獅子王ししおうに声をかける。僕には見えないようなところで何かを獅子王ししおうに手渡した数奇院すうきいんは、そのまま耳に口を近づける。


 受け取ったものの正体を悟ったらしく顔を真っ青にした獅子王ししおう数奇院すうきいんがささやいた。


「あまり根を詰めすぎないように、ね?」


 コクコクと首を振る獅子王ししおうが、逃げるように夜の廊下に消えていく。それを見送る僕はいいしれない胸騒ぎに不安を覚えるのだった。

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