第31話

 梅小路うめこうじはまるでさっきまでとは別人のような雰囲気をまとっていた。冷たい怖気が僕の腕を伝って走る。


「どうして、こんなことを………。」


 ポツリと口から漏れた僕の言葉に、梅小路うめこうじは血のように真っ赤な目をむけた。


「どうしてって、そんなの決まっとるやん。数奇院すうきいんちゅう社会の悪を取り除くためやで。」


 感情の抜け落ちた不気味な表情で、梅小路うめこうじは語る。


「そもそも中学校の頃に人ひとり自殺寸前まで追いこんどきながら、ここでこないな支配者気どりしとるとか悪い冗談やわ。悪は悪らしく一生苦しんどけばええのに、なに悪事積み重ねとんねん。」


「その話じゃない、清流寺せいりゅうじのことだ!」


 僕は梅小路うめこうじが何食わぬ顔をしてそこに立っているのが理解できなかった。まだ、これが数奇院すうきいんならば百歩譲ってなんの違和感も抱かなかっただろう。だが、清流寺せいりゅうじを死の淵にまで追いやってなおいささかも反省の色も見せていないのは、梅小路うめこうじなのだ。


 清流寺せいりゅうじの横暴に眉を顰め、梅原うめはらたちのために怒ってくれたことを思い返す。梅小路うめこうじは、人を傷つけて罪悪感を感じないような人間ではないはずだった。


「どうして、どうしてみやびさんが……。」


いずみはんは優しいなぁ。」


 もはや口にするべき言葉すら見つけられない僕に梅小路うめこうじが苦笑する。ようやく感情を表に出したというのに、それはちっとも安心できるものではなかった。


「人っちゅうのはや、生まれつきなにが正しくてなにがあかんかわかっとる、そううちは信じとる。人間は生まれながらに善なのやとな。」


 いきなり意味の分からないことを梅小路うめこうじが口にする。


 昔、中国の偉い人が唱えたという考え、性善説。人は生まれながらにものの善し悪しがわかるとそう語る梅小路うめこうじに、僕はどこか根本的な恐怖を覚えた。


 なにかがおかしい。梅小路うめこうじの言葉がゾワゾワと僕の背筋を這いまわる。


「そうや、人間は善なはずやねんから、悪事を働くはずないねん。せやったら、悪人はいったいなんなんやろか。」


 再び快活な笑みを浮かべた梅小路うめこうじが恐るべき問いかけを口にする。普段通りを装っていながら、どこか悍ましく冒涜的な雰囲気が、僕を包みこんだ。


「簡単や、悪人は人やないんや。人間やないから、悪を犯すんや。そう、」



――――――――善は人の必要条件やから、悪は人ではないんよ。



 めまいがする。梅小路うめこうじはいったいなにを言っているのだ。


 僕は梅小路うめこうじの顔をまじまじと見つめた。今すぐにでも冗談だと笑い飛ばしてくれないかと一縷の望みを抱いて。


 だが、梅小路うめこうじはただ笑ってそこに立っているだけだった。ニコニコと、人畜無害そうな優しげな笑顔で、ただ黙っている。


みやび、さん? どんなに悪いことをしたとしても、清流寺せいりゅうじは人間だよ? まさかみやびさんは物か何かとでも思っているの? だから川に突き落としてもなんの問題もないと思ってるの?」


 梅小路うめこうじは黙ったままなにもしゃべらない。しかし、ゆっくりと持ち上がった口端が全てを物語っていた。


 吐き気がする。僕はよろよろと背後の壁に手をついた。


 なんだ、なんなんだ。こんな梅小路うめこうじは知らない。こんな人間を僕は知らない。


 まるで悪夢のようだった。


いずみはん? どないしたんや、体調でも悪いん?」


 心配げな顔つきの梅小路うめこうじがゆっくりと近づいてくる。その底の見えない赤黒い瞳の深淵へと引きずりこまれているかのように僕は身動きひとつできず、ただ梅小路うめこうじを見つめることしかできなかった。


「そこまでにしてくれるかしら? いずみくんはわたしのものなの。あなたに壊されるわけにはいかないわ。」


 しゃらりと、銀の髪が宙を舞う。いつのまにか僕の前には数奇院すうきいんのピンとのびた背中があった。


 なぜか安心して胸を撫でおろすと、梅小路うめこうじからの冷たい視線に突き刺されてビクッと体が震える。


「いやいや、いずみはんはあんたの奴隷やないんやで。人のことモノ扱いするとかほんまおかしいやっちゃなぁ。」


 梅小路うめこうじがニヘラと笑って冗談気味にそう言い返す。しかし、その不気味なほど真っ赤な瞳はすこしも笑っていなかった。


 その瞳が、数奇院すうきいんの肩越しに僕をじっと見つめる。まるで死神に首を握られたかのように、僕の息が止まった。


「せやんなぁ、いずみはん? うちの言っとることのほうが正しいやんなぁ?」


 視界が狭くなってくる。呼吸が続かない。



「いいえ、あなたはわたしのもの。そうでしょう、いずみくん?」



 気がつくと、数奇院すうきいんの整った顔が目の前にあった。唇に温かい感触が伝わる。遠くで梅小路うめこうじの怒鳴り声が聞こえた気がした。


 永遠にも思える一瞬の後、数奇院すうきいんが顔を離す。かすかにこぼれる唾液を拭うこともせずに梅小路うめこうじに振り返った数奇院すうきいんが、笑った。



「ほら、わたしのものでしょう?」



 梅小路うめこうじが形容しがたい表情を浮かべる。こちらにまで音が聞こえてきそうなほど歯ぎしりをしている梅小路うめこうじの瞳は空恐ろしくなるほどの憤怒で塗り潰されていた。


 その怒りの炎が冷めやらぬうちに、梅小路うめこうじは踵を返す。扉に手をかけたところで、ボツリと呟いた。


いずみはん、早くそこの悪魔から救い出したるから待っといてや。」


 ばたりと音がして扉が閉じられる。暗闇の図書室には僕と数奇院すうきいんだけが残された。



 静かになった図書室で、無意識に唇をなぞってしまう。初めての感覚に僕の頭は破裂寸前だった。


「これで、一件落着といったところかしら?」


 数奇院すうきいんはなるで何事もなかったかのようにさっさと読みかけだった本に視線を戻している。そのさっぱりとした様子に、僕はなんだか大切なものを奪われたような気分になった。


…………いや、よく見てみると数奇院すうきいんの白い頬がわずかに赤らんでいる。


「なにか文句でも?」


 視線に気がついたらしい数奇院すうきいんが頬を膨らませて僕を睨んでくる。触らぬ神に祟りなしとばかりに僕はあわてて目をそらした。


 気恥ずかしい静寂が、二人の心を苛んでいく。


 耐えきれなくなったかのように、背中をそらしたまま数奇院すうきいんが言葉を漏らした。


「そういえば、まだお礼を言っていなかったわね。」


「なんのお礼?」


 赤くなった耳は見なかったことにして、聞き返す。数奇院すうきいんがまだ頬を染めたまま僕に向き直った。


「約束、守ってくれたでしょう?」


 ああ、とはるか昔に結んだ約束を思い出した僕は冗談めかして返す。


「まあ、しずかもぜんぜん更生してないようだし? 当然、ずっと悪いことしてないか見張り続けるよ。」


「あら、それは頼もしいわね。ぜひともお願いしてよろしいかしら?」


 梅小路うめこうじと僕、二人で夜の図書室で笑って見つめあう。ようやく昇ってきた月が優しく教室を照らしていた。

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