第30話

 結局、清流寺せいりゅうじは全身の骨折で町の病院送りにされた。おそらくは、もう戻ってくることはないだろう。こんな形とはいえ神子かみこ高校からようやく抜け出せたのだ、清流寺せいりゅうじでなくともなにがなんでも口実をつけて転校しようとするはずだ。


 人ひとりが命に係わる大けがをしたのにも関わらず、警察が捜査を始めないのは、近くの村の駐在員が例の商店の店長の父親だからだ。神子かみこ高校のおかげで商品がたくさん売れている息子のために、いつも調書には斜面で足を滑らせた、としか書かれないのが常である。


 今日もガヤガヤと教室は騒がしい。


 喧嘩の最中殴られて吹き飛ばされた生徒が窓ガラスを突き破って中庭に飛び出していく。すでにほとんどの窓が破れてしまっていて、今年の冬が今からでも楽しみである。


 教卓の前では相変わらず先生がチョークをグニャグニャと走らせながら意味のなさない独り言を呟いている。梅小路うめこうじですらさじを投げだして教科書を自分自身で読み進めていた。


しずか。そのさ、言いたいことがあるんだ。」


「なにかしら、急に改まって。」


 目の前で相変わらず専門書を読んでいる数奇院すうきいんに声をかける。気だるげに振り向いた数奇院すうきいんが銀の髪を揺らした。


「謝りたいことがあるんだ。一昨日は変な勘違いをしてごめん。いろいろと嫌な言葉を口にしちゃったから。」


「別にそんなことはどうでもいいわ。結局のところわたしもああなるのを黙認していたのだから責任がないといったら嘘になるもの。」


 数奇院すうきいんがそっけなく呟く。寛大にも僕の過ちを許してくれたらしい友人に僕は感謝するほかなかった。


「それで、質問したいところがあるんだけれど………。」


 いつものように教科書のわからないところを質問していく。背後で鳴り響く破壊音を聞き流しながら、ただ鉛筆を走らせる音が響いた。


 もう10月も終わりにさしかかり、夏の終わりを感じる。世間一般でいう青春とはほど遠い世界に生きている僕たちを憐れむかのように、窓の外は気持ちの良い晴天だった。


「ああ、そういえば。」


 数奇院すうきいんがふと思い出したかのように呟く。つまらなさげに細められた黄金の瞳を見つめると、数奇院すうきいんが静かに口を開いた。


「今日の放課後、あいているかしら?」


「え、うん。」


「ならよかった。ちょっとした用事につきあってほしいの。」


 僕はいったいなんのことだろうかと首を傾げる。清流寺せいりゅうじとの争いが決着してから二日ほど、すでに神子かみこ高校はすっかり元通りになっていた。


 相変わらず獅子王は"郵便屋"の仮面を被って数奇院すうきいんの為に生徒の秘密を握り続けている。太刀脇たちわきは今日も"銀行屋"の利益のために暴力を振るっているだろう。桜木さくらぎは融資の利子を返すのに忙しい。


 今日もこの高校は数奇院すうきいんの掌の上で転がり続けている。数奇院すうきいんがするべきことなど何もない気がした。


「いったいなんの用事があるのさ。」


 僕の問いかけに、数奇院すうきいんは静かに顔を持ちあげた。いつもと違って真剣な表情の数奇院すうきいんが僕を諭す。


「あなたもわかるでしょう? まだひとつだけやらなければいけないことが残っているわ。」


 ああ。僕は目を瞑った。


 思い出したくなどなかった、あの日に清流寺せいりゅうじから聞いた黒幕の正体を。正直今すぐにでもその名を忘れてしまいたいと切実に願っている。


 僕はどうしても理解ができなかった。どうしてもあの人があんな恐るべきことをするとは考えられなかったのだ。


 気が進まない様子の僕に気がついたのか、数奇院すうきいんがまっすぐに見つめてくる。宝石のように美しい黄金の目が僕をとらえた。


「今回の決着をつけなければいけないわ。」


 僕たち"銀行屋"は、清流寺せいりゅうじの背後の存在を暴いて初めていままでの騒動に終止符を打つことができるのだろう。僕は喜びとも失望ともつかない深いため息をついた。



 夕日が図書室を紅に染める。


 くしくも出会ったあの日と同じぐらいの時間に、その人は姿を現した。つややかにのばされた黒髪が、僕の視界の端をかすめる。


「どうしたんや、いずみはん。こないな急にうちのこと呼び出して。」


 いつものような陽気な関西弁が僕の耳をくすぐった。かつて化学室で見せた豹変をすこしも感じさせない、朗らかな笑顔でその人は僕に近づいてくる。


「あっ! もしかしてやけど、気が変わってこの前の話にのってくれるんか! それは嬉しいわぁ、ほなら今すぐにでも………。」


「あいにくと、今日はその話ではないの。梅小路うめこうじさん。」


 親しげな、それでいて底冷えのするような声が本棚の間から聞こえた。梅小路うめこうじの思い違いをバッサリと切り捨てた数奇院すうきいんが図書室の奥から姿を現す。


「………なんや、数奇院すうきいんはんか。ごめんやけど、今うちはいずみはんと話しとるんや。余計な茶々入れるんやったら席外してくれへんか?」


「あら、そう? だったらいずみくんが梅小路うめこうじさんにどんな話があるのか聞いてみましょうか?」


 笑っているけれど、笑っていない。数奇院すうきいんにどこかゾッとするような表情をむけた梅小路うめこうじは、僕に向き直った。


「せやな、いずみはんは今日なんでうちを呼び出したんや? うちは数奇院すうきいんはんの言葉が間違っとってこの前の話考え直してくれたんやったらほんまに嬉しいんやけど。」


 ニコニコと、梅小路うめこうじが微笑む。それがどうしても貼り付けられた作りもののように感じられて、僕はざわざわと心が騒いだ。


「そのさ。」


「うん、なんや?」


清流寺せいりゅうじをそそのかしたのは、梅小路うめこうじさんかな?」


 途端、梅小路うめこうじの笑顔が固まる。細められた目がわずかに開いて、悪魔のような赤い瞳が見え隠れしていた。


 梅小路うめこうじは可愛らしく首を傾げる。


清流寺せいりゅうじだの、そそのかすだの、なんのこっちゃ? うちは何の話をしとるんかさっぱりわからんわ。はっ、もしかしていずみはん、またなんか悪いことを、」


「あの日! あの日、僕が梅原うめはらたちに食べ物を配っていたのを知っていたのは、梅原うめはらたち本人と、僕、それにみやびさんだけだけだった。」


 そう、僕が梅原うめはらたちと夜な夜な密会していることを知らなければ、清流寺せいりゅうじにあの夜の僕の居場所を教えることはできない。


「だから、清流寺せいりゅうじは少なくとも梅原うめはらたちか、みやびさんと繋がりがあったはずだ。」


 それだけではない。僕はあの日化学室で梅小路うめこうじが口走った言葉をよく覚えていた。


「あの日、みやびさんはその気になったらいつでも生徒を神子かみこ高校からほかの高校へと転校させることができると口にしていた。」


 清流寺せいりゅうじ数奇院すうきいんの恐ろしさをよく知っていたはずだ。それなのにも関わらず、清流寺せいりゅうじは公然と反旗を翻した。確かに日頃から数奇院すうきいんに対して鬱憤が溜まっていたのかもしれないが、もしもそれ以上に価値のある報酬が用意されていたのだとしたら………。


「僕たち神子かみこ高校の生徒は誰だって一度はこの高校から逃げ出すことを夢見る。もしもそんな夢みたいなことを約束できる人間がいたとしたら………。」


 その人間のいうことは誰でも喜んで死に物狂いで従おうとするだろう。恐ろしいことに、絶対的な支配者である数奇院すうきいんへの反抗すら。


 梅小路うめこうじが眉をひそめる。心外だとばかりに怒った顔をして梅小路うめこうじが声を荒げた。


「あのやなぁ、うちはさっきからいずみはんが何言っとるんか全くわからんわ! さっきからなんやねん、清流寺せいりゅうじにうちが味方しとったとか、いずみはんの居場所を売ったとか、適当なことばっか言っとるやんけ。ええか、うちはな………。」


清流寺せいりゅうじが、教えてくれたんだ。確かに、梅小路うめこうじ数奇院すうきいん潰しの話を持ちかけられたって。」


 梅小路うめこうじの顔からゴッソリと感情が抜け落ちる。先ほどまで年頃の少女らしく興奮した様子だったのが噓のように静かになった梅小路うめこうじは平坦な声でゆっくりと反論し始めた。


いずみはん、うちは悲しいで。なんでいずみはんは清流寺せいりゅうじはんなんかの話を信じてうちのことを信じてくれへんのや。清流寺せいりゅうじはそもそも川で溺れて意識が朦朧としとったんやろ、やったら変なこと口走っても、」


「そうそう、そういえばの話なのだけれど。」


 今の今まで沈黙を守っていた数奇院すうきいんが心底くだらなさげに口を開く。いつの間にか読んでいた本から目を離すこともなく、梅小路うめこうじに告げた。


「一昨日清流寺せいりゅうじくんが川で溺れたことは先生から話さないよう言われたの。これは風聞が悪いから、誰にも知らせず先生だけで処理するって。」


 さて、梅小路うめこうじさんはどこでそんな話を聞いたのかしらね。


 図書室を沈黙が覆う。夕暮れはとっくに終わっていて、真っ暗になった教室はどこか寒々しさを感じさせた。




「ほんま、最後まで使えんモノやったな、は。」


 そこに、梅小路うめこうじの吐き捨てるような言葉が響いた。

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