第29話

 校舎から出た僕は、校門を飛び出して川沿いの山道を走る。


 神子かみこ高校の脇を流れるこの川は、高校と村を繋げる唯一の道路沿いにのびている。僕は渦を巻いて白く泡立つ水面に目を凝らしながらただ固いアスファルトの上を駆けた。


 一晩では十分に治らなかった傷口が開いて、ズキズキと痛む。滲む汗に血が混じるのを感じながら、僕は結局一時間ほど走り続けた。


 すでに山道を長い間走っていて村にかなり近づいている。それなのにも関わらずまだ清流寺せいりゅうじを見つけられていない。


 もしかして、見逃してしまったのだろうか? それとも体がすでに沈んでしまっている? そもそも、清流寺せいりゅうじを見つけることができたとしてもボロボロのこの体で助けることができるだろうか? 


 もしかしてもう手遅れだったのではないか、そう最悪を想像する自分に焦る気持ちを抑えながら、なんとなしに川岸に目をやった時だった。


 紺色の、布切れが岩場にひっかかっている。


 僕は川のちょうど真ん中の岩が突き出たところに見慣れないなにかが激流に揺れているのを見つけた。目を凝らすと、その布地の隙間から褐色の肌が見え隠れしている。


 人間だ。


 僕はそのピクリとも動かない人影が清流寺せいりゅうじであることを確信した。


 危ないところだった、ただの不法投棄されたゴミだと勘違いしてもおかしくないほど清流寺せいりゅうじの制服はボロボロになっていたのだ。見逃さなかったことを神に感謝しながら、僕はどうやって清流寺せいりゅうじのもとまで辿り着こうかと思案した。


 別に僕は泳げないわけではないが、ひとひとり支えながらこれほどの激流を渡るとなると口ごもらざるを得ない。僕は川の流れる先を目で追った。


 しばらく先は尖った岩ばかりが密集している。あんなところに川の流れの勢いそのままに飛びこんでいったらあっという間に大怪我してしまうだろう。


 ゾッとする。おそらくは清流寺せいりゅうじはとても幸運だったのだろう、あの岩に引っかかっていなければ間違いなく命を落としていたのだから。


 流石に躊躇した僕は、とりあえず山道から川岸まで滑り降りた。ゴツゴツとした岩の間を四苦八苦してようやく川面までたどり着いた僕は、靴を脱いで片足を恐る恐るつからせる。


 キーンと冷たい川の水が、情け容赦なく傷口に入りこんでくる。その独特の痛みに顔をしかめながら、僕は一瞬悩んだ。


 はたして、このまま清流寺せいりゅうじのもとまで泳いでいくことは正しいことなのだろうか。下手をすると助けにいったはずの僕まで溺れてしまうかもしれない。ミイラ取りがミイラになるのは勘弁してほしいものだ。


 そうこうして僕が躊躇っていると、視線の先の清流寺せいりゅうじが意識を取り戻したのか身動きをする。生きていることが分かって束の間ほっとした僕の前で清流寺せいりゅうじはそのまま川の流れにさらわれていった。


 考えるよりも先に体が動く。


 浮き沈みを繰り返しながら尖った岩場にむかう清流寺せいりゅうじの体目めけて僕は川に飛びこんだ。



 川の流れに体を委ねまいと全力で水をかく。不格好ながら清流寺せいりゅうじのもとにむかう僕にとって幸いなことに、川の水は澄んでいて視界に支障はなかった。


 息継ぎの度に絶えず口の中に飛びこんでくる水しぶきにむせながらもなんとか清流寺せいりゅうじに近づいていく。文字通り疲労困憊で僕は清流寺せいりゅうじの体に指先を触れさせた。


 不幸というべきか幸いというべきか、清流寺せいりゅうじの意識はないようだった。溺れている人にありがちなように、死に物狂いで助けに来た人にしがみついて共倒れする、なんていう最悪の事態は避けられそうだ。


 清流寺せいりゅうじの体とともに川下へと流されていきながら、僕は途方に暮れた。辿り着いたことはよいのだが、いったいどうやって清流寺せいりゅうじの体を川岸まで運べばよいのだろう。


 もちろん、僕は泳ぎながら人間を運ぶだなんてことは練習したことがない。とにかく物は試しとばかりに僕は清流寺せいりゅうじの体を川岸の方向へと押しやりながら泳ぐことにした。


 清流寺せいりゅうじの体に触れて、その抵抗に目を見開く。行きでさえこれほどまでに体力を奪われたのに、これから人ひとりを運ぶとなると帰りはどれだけの苦難が待っているのだろうか。


 僕はやけくそになりながら、水をかき分け始める。とにかく川岸につけばよいのだ、それぐらい踏ん張ってみせよう。


 体中が悲鳴をあげるのを無視しながら、清流寺せいりゅうじの巨体を少しずつ川岸に近づけていく。いつも豪勢な食事をしていたことを思い出して、皮肉の一つでも言いたい気分だった。


 足がいうことを聞かなくなるのを無視して、無理やりにでも体を前に押しやる。これほどまでに川幅が広いと感じたことはない。


 あと5m…………。


 片足がつりそうな、嫌な予感がする。冗談ではない、こんなところで溺れるわけにはいかないのだ。


 残り3m…………。


 呼吸が続かない。もがくようにして顔を水面から持ちあげながら、最後だと自分に言い聞かせた。


 残り1m…………。


 数奇院すうきいんの呆れたような表情を幻視する。意識が混濁しながらもただ足を振り動かした。


 乾いた岩に手をつく。


 よかった、なんとか成功した。文字通り這いつくばって地上にあがってから、僕は最後の力を振り絞って清流寺せいりゅうじの巨体をひきあげる。


 そのまま、僕は地面に倒れこんだ。もう一歩も動けそうにない。



 近くの岩に背中をもたれかけさせ、息を整える。しばらくの間そうして休んでいると、川岸に横たわっていた清流寺せいりゅうじが身じろぎした。


 清流寺せいりゅうじの瞼がゆっくりと開いていく。青空をぼんやりと眺めているかと思うと、自分が川に流されていないことに気がついたのか目を見開いて周囲を見渡し始めた。


 その目は僕を捉えた瞬間にさらに開かれる。その様子に僕はしてやったりという妙な快感を覚えた。


「は? いずみか……?」


「ああ、そうだよ。お前に散々痛めつけられたいずみだよ、昨日はお世話になったなこの野郎。」


 清流寺せいりゅうじが自分の目を疑うかのように瞬きをする。しばらくして大笑いし始めた。


「はっ、俺が最期に目にすんのはよりにもよってお前の幻覚かよ! とんだ皮肉だな、インガオホーってやつか!」


「かってに人を幻扱いすんな。」


 どうやら清流寺せいりゅうじはすっかり僕が妄想の産物だと結論付けてしまったらしい。僕が何を言っても笑い転げるばかりですこしも信じようとしない。


 むかついた僕はちょうど手元にあった小石を清流寺せいりゅうじにむかって投げつけた。こつんとあたった石の感触に、清流寺せいりゅうじが笑いを止める。


「おいおい、まさかこれが俺の幻覚じゃないってのかよ。」


 理解できない、といった具合で清流寺せいりゅうじが呟く。


「お前、俺を助けたのか? あの川に飛びこんで?」


「そうだよ。それがなんだよ。」


「お前頭おかしいんじゃねえの?」


「はあ?」


 数奇院すうきいんにならともかく、助けた清流寺せいりゅうじにまでそんなことを言われるのは納得できない。抗議の意味をこめて睨みつけても、清流寺せいりゅうじはその言葉を撤回するつもりはないようだった。


「いやいや、だって俺はお前を一度ならず二回も殴りつけたうえ、さらに二回目は徹底的に痛めつけたんだぜ?」


「ああ、そうだよ。死ぬほど痛かったからお前は反省するべきだね。」


「さらにそもそも俺とお前は敵同士、しかもお前は俺のこと好きじゃねえだろ?」


「ご名答、僕はお前が大っ嫌いだよ。」


「なのに、俺を助けたのか?」


「………まあ、後味悪いからね。」


 清流寺せいりゅうじが黙りこむ。しばらくして呆れたような口調でひとこと漏らした。


「お前、やっぱ馬鹿だろ。意味わかんねえ。」


「それが助けられた人間の言葉だなんて、清流寺せいりゅうじくんはさぞかし国語の成績がいいんだろうな。」


 清流寺せいりゅうじがなぜか目元を腕で隠す。喉奥から絞り出すように震え声を口にした。


「お前やっぱ馬鹿だぜ、よりにもよって俺みたいなやつをよぉ…………。」


 別に理由がなかったわけじゃない、と僕は反論した。


「そもそもお前を川に突き落としたのは僕の友人の数奇院すうきいんだ、だったら僕がその償いをするのは当然だろ?」


 僕の言葉に、清流寺せいりゅうじがなぜか首を傾げる。


「は? お前なに言ってるんだ?」


 僕はなにか、嫌な予感がした。まるで、なにかとても大切なことを見逃してしまっているような、そんなゾッとする感覚を覚えた。


 清流寺が口を開く。


「俺を突き飛ばしたのは、」

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