第28話

 清流寺せいりゅうじは裕福な家庭に生まれたが、その人生は必ずしも幸せではなかった。特に、両親がドのつくほどのクズであればなおさらのことだ。


 幼い頃の清流寺せいりゅうじが父について覚えていることといえば、その達磨のような赤ら顔と、全身に走る鈍痛のみである。言葉で争う弁護士でありながら、清流寺せいりゅうじの父は躾と称して暴力を好んでいた。


 学生の頃はラグビー部であったという父に、小学生である清流寺せいりゅうじが敵うはずもない。いつも理不尽な理由で拳骨が飛んでくる中、清流寺せいりゅうじは絶えず父の機嫌を伺い続けた。


 そのせいもあってか、小学校の間は物静かで陰気な学生だったように思う。すべてがひっくり返ったのは、中学生も高学年になった時の話であった。


 とある日曜の朝、清流寺せいりゅうじはいつものように暴力を振るわれていた。理由はいつも通りくだらないもので、清流寺せいりゅうじの読んでいた漫画が軟弱な青春ものだったからだ、といったものだったように記憶している。


 価値もわかりはしないような高いウィスキーを飲んでご機嫌の父は、暴力に慣れて逃げようとしなくなった清流寺せいりゅうじに飽きて、趣向を変えた。清流寺せいりゅうじの目の前でその漫画を火にくべたのだ。


 キッチンからモクモクと黒煙が立ち昇る。その光景を見た清流寺せいりゅうじは、カッと頭に血がのぼるのを感じた。


 近くにあった灰皿を握ってがむしゃらに突っ走る。無我夢中でその鈍器を振り下ろし続けて、我に返った時には世界のなにもかもが変わっていた。


 あれほど強大で絶望そのもののように感じられた父が、うずくまって怯えた目を清流寺せいりゅうじに向けている。あれほど威張り散らして清流寺せいりゅうじを虫けらのように扱っていたあの父が、である。


 思えば当然のことだ。成長期真っ盛りの若い少年と、喫煙と飲酒で体を酷使している老い先短い中年の男性とではいつか力が逆転するのは自然なことである。今回はたまたまそれが清流寺せいりゅうじが中学生になったころだったというだけの話なのだ。


 だが、その時の清流寺せいりゅうじにはそんなことはどうでもよかった。清流寺せいりゅうじは生れて始めて味わう感情に高揚していた。


 暴力で人の上にたつ、快感。力で人間をねじ伏せる、快感。


 くしくも清流寺せいりゅうじは、父親から暴力の薫陶を受ける中であれほど恐れていた父とまったく同じ価値観を持つに至ったのだ。人間は暴力で、権力で従えてこそ愉しいものであると。


 今まで抑圧されてきた鬱屈とした感情が、嵐のように吹き荒れる。清流寺せいりゅうじは怯える父に拳を何度も振り下ろした。


 それからの清流寺せいりゅうじは、まるで生まれ変わったかのようだった。


 暴力、犯罪、非行、なんでもござれ。我慢するということを知らない清流寺せいりゅうじはすこしでも気に入らないことがあるとすぐに暴力を振るうようになった。


 ゲームを買いたいのに持っているお金が足りない? ならば万引きすればよい。店員にとがめられた? ならば文句を口にしなくなるまで蹴りつければよい。両親が説教をしてきた? ならばまた体に言い聞かせるまでだ。


 清流寺せいりゅうじは確かにその時、生まれてからこのかた一番幸せだった。暴力とはこれほどまでに素晴らしいものだったのか、清流寺せいりゅうじは今なら父親に共感すらできた。


 が、暴力に酔いしれる清流寺せいりゅうじにはその暴力ですら超越する絶対的な力の存在をいまだ知らなかった。そして、皮肉にもそれは父の最も得意とする分野であった。


 傍若無人に振る舞う清流寺せいりゅうじは、日本が法治国家であることを忘れていたのだ。


 こと法律業務に関しては天才的であった父は、その弱点を仕事柄よく理解していた。父は自らの家庭内暴力の事実を巧みに利用して、自らの息子の親権を息のかかった後見人に譲らさせたのである。


 養子縁組まで勝手に行った父は、もう法律上の義務はないといわんばかりに清流寺せいりゅうじが夜遊びをしている間で海外に高飛びしてしまった。残された清流寺せいりゅうじは、養親とは名ばかりの実質的な監視役によって強制的に神子かみこ高校に入学させられたのだ。


 清流寺せいりゅうじは今度こそ学んだ。法律という圧倒的な権威を前にしては清流寺せいりゅうじご自慢の岩より固い拳もまったくの役立たずなのだと。


 法律を学んで弁護士になりたい。


 それが、この国で絶対の権力を手にしたいという最低最悪の動機から出たものであったとしても、清流寺せいりゅうじが初めて抱いた将来の夢だった。


 が、そんな夢も神子かみこ高校という劣悪な環境にいては叶うはずもなかった。司法試験というものは金銭も時間も努力も必要とし、何よりも王道の法学部に通うためにはそれなりの学力がなければそもそも土俵にも立てない。神子かみこ高校にいては夢見ることすらできないだろう。


 だからこそ、清流寺せいりゅうじは権力を欲した。高校において地位を高め、この地獄から抜け出せる機会があれば必ず逃さないように情報を集める。


 だからこそ、あの日、が話しかけてきたその時に清流寺せいりゅうじは歓喜した。今までの苦労が実を結んだのだと、ようやく自分もかつての父のような圧倒的強者になる道が開けたのだと。


 には清流寺せいりゅうじをこの高校からほかのまともな高校に転校させるだけの力があった。さらに、数奇院すうきいんを陥れれば必ず清流寺せいりゅうじを転学させると確証してくれた。


 まさに、天からの思し召しだと思った。数奇院すうきいんさえ潰せれば、このくそったれみたいな人生から抜け出せる。


 それから清流寺せいりゅうじは必死に数奇院すうきいんの弱点を探った。の反対も押し切って太刀脇たちわきを味方に引き入れた。


 勝利を確信した、はずだった。輝かしい将来が開けた、はずだった。



 それが、どうしてこうなった。


 血だらけの床に横たわって、清流寺せいりゅうじは考えていた。どこで自分は失敗してしまったのだろう。


 太刀脇たちわきに裏切り工作を仕掛けたときか。勝利を疑わず桜木さくらぎを邪険に扱いだしたときか。それとも、はたして一番初め、のいうことを…………。


 朝日が昇って廊下を明るく照らし出す。あれほど"転売屋"として権勢を誇った清流寺せいりゅうじのそばには誰もいない。皆、清流寺せいりゅうじを見限って数奇院すうきんいんについたのだ。


 清流寺せいりゅうじはすべてを失った。将来の希望も、現在の地位も。


 清流寺せいりゅうじは全身から脂汗を噴き出しながら、ようやく起きあがった。いつものように傍に控えておべっかを使う子分がいないからか、どこか校舎が静かに感じられる。


 清流寺せいりゅうじの体はもはや痛みに慣れてしまったのか、感覚がない。それがよいことか悪いことかはさておいて、清流寺せいりゅうじはそれどころではなかった。


 これから、自分はどんな目にあうのだろうか。


 これまで"転売屋"のボスとして神子かみこ高校に君臨してきた清流寺せいりゅうじだからこそ、この高校で敗者になるということの意味を嫌というほど理解していた。


 一度でも権威が失墜した者に、この高校は容赦がない。清流寺せいりゅうじは今まで自分が追い詰めていった生徒たちの末路を思い返し、身震いした。


 しかも、今や数奇院すうきいん清流寺せいりゅうじの敵なのだ。どう考えてもろくな最後は迎えられないだろう。


 次第に青ざめていく清流寺せいりゅうじは、ふとかつて自らの宮殿であった応接室のドアの下になにかが挟まれていることに気がついた。


 普通の街ならばどこにでも売られているだろう一般的な茶封筒に、しかし清流寺せいりゅうじの目は釘づけになる。


 この類の封筒は、神子かみこ高校では教師ぐらいしか使用していない。それを自由に手に入れられる人物など清流寺せいりゅうじは一人しか知らなかった。


 だ。清流寺せいりゅうじに接触してきたのだ。


 まるで何日も餌にありついていなかった野良犬のように、清流寺せいりゅうじは茶封筒に飛びついた。封筒を丁寧に開ける時間すら待ちきれず、手で思いっきり破り開ける。


 その中に入っていた手紙には、まるっこい丁寧な文字で待ち合わせの日時と場所が記されていて、最後に希望を捨てないようにと励ましの言葉が綴られている。


 清流寺せいりゅうじはまるで地獄に垂らされた蜘蛛の糸を見つけた罪人のように狂喜した。まだ、まだ清流寺せいりゅうじを見限ってなどいなかった、まだ挽回の機会をくれるつもりなのだ!


 清流寺せいりゅうじの体は今まで痛みつけられていたことが嘘かのように軽やかに示された場所へと向かった。まだ、希望の炎は絶えていないのだ。



 が指定したのは、寂れた校舎の裏側だった。ごうごうとすぐ後ろを流れる川が轟音をたてている。


 清流寺せいりゅうじがやってくるのを待ちきれないといわんばかりにウロウロと周囲を歩き回っていた。


 今度こそは絶対に失敗しない。なにがあろうともの依頼を完遂してみせる。清流寺せいりゅうじは必死だった。


 最後に残された希望なのだ。こんな神子かみこ高校で失脚を恐怖し怯え続ける日々はもう嫌なのだ。ここから出られれば、父のような絶対的な力を手に入れて、安心して暮らすことができる、安心して暴虐を働くことができる。


ドンッ。


 清流寺せいりゅうじは、次の瞬間宙に浮いていた。


 押されたのだ、背中に伝わるぬるい感触にそう確信する頃にはもう手遅れだった。自分はこれから下で流れている急流の川に落ちるだろう、そして今のボロボロの体では十中八九生きることはできないだろう。


 希望から絶望へと一直線に落下していく清流寺せいりゅうじが最後に見たのは、の冷たい、人を人とも思っていないかのような目だった。清流寺せいりゅうじは最後に悟る。


 「そうか、そもそもお前の言葉に乗せられた時点でもう俺は………。」


 最後まで言い切られなかった呟きが、天に向かって消えていった。

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