第26話

「まさか、こんなところに来る羽目になるとは…………。」


 あちこちに穴の開いた校舎、窓から放り投げられてきた教卓に辺りに飛び散ったままにされている血痕。入学式後の僕は神子かみこ高校のあまりにもの惨状に気が遠くなりそうだった。


 世間一般の新高校生が期待に胸を膨らませているであろう間に、僕は全国から選び抜かれてきた札つきの不良たちに囲まれているのだ。入学早々に喧嘩が始まった教室から命からがら逃げだしてきた僕は絶望のどん底にいた。


 別に自分のしてきたことに後悔をしているわけではないが、それはそれ、これはこれというものだ。果たして僕は無事にこの学校を卒業できるのだろうか?


 というか、そもそも寮がないだなんて学業どころの話ではない、生命活動に関わる大問題だ。僕はどこか一晩でもしのぐことができる教室はないかとあてのない放浪を始めることになった。


「っ、あなた………。」


 頭を抱えながらも今夜の寝床を探していると、ふと聞き慣れた声がする。まさかと驚くと同時に、心のどこかでなぜか納得していた僕が顔をあげた。


 透き通るように輝く銀髪、太陽のようにさんさんと輝く黄金の瞳。今にも床板が抜け落ちそうな階段の踊り場から僕を見おろしてくるその人影は、この神子かみこ高校に僕が進学する羽目になった元凶である。


 数奇院すうきいん しずか。僕の不倶戴天の敵がそこにいた。



 日が暮れ始めた校舎の屋上で二人、なんとなしに横並びで腰をおろす。高校のある深い谷間にちょうどピッタリ挟まるように真っ赤な太陽が沈みこんでいく。


「………数奇院すうきいんもここまで飛ばされてきたんだな。なんというか、思いもしなかった。実家が太い数奇院すうきいんならどこかの私立高校に入学したと思ったんだけれど。」


「あら、相変わらず想像力が欠如しているのね。あなたは自分の行いがどういう結果につながるのか考えもしなかったのかしら。」


「なら、やってよかったな。数奇院すうきいんがあのまま社会に解き放たれていたらと思うとゾッとするよ。」


 皮肉の応酬を交えながら僕たちはただ地面に落ちていく夕日を見つめている。僕たちは犬猿の仲だったのだから、感動の再会というわけにはいかないのは当然といえば当然だった。


 二人の間を沈黙が通り過ぎる。まだ厳しい冬の寒気が残る4月だ、夕暮れともなれば肌寒いものがあった。


「…………言っとくけれど、数奇院すうきいんがまた同じようなことをするんだったら今度も絶対に邪魔してやるからな。僕の前であんな悪事をもう一度働いてみろ、今度こそ少年院行きだ。」


 神子かみこ高校に転入させられたからといって僕の考えはまったく変わっていないことを強調する。俯いたままの数奇院すうきいんからはなんの反応も返ってこなかった。


 随分と嫌われたものだなぁ、当たり前だけれど。


 ため息をついて僕は立ちあがる。このまま屋上で一晩過ごす訳にもいかない、どこか安心して眠りにつける教室を見つけないと。


 ひとり屋上に数奇院すうきいんを残して歩き出す。どこかで喧嘩でもしているのだろうか、鳴り響く怒号に呆れかえりながら屋上の扉に手をかけた、その時だった。


「どうして?」


 ゆっくりと振り返ると、うずくまったままの数奇院すうきいんが口を開いていた。


「なにが?」


「どうして、あなたはそれほどまでに物事の善悪にこだわるの?」


 だって、あなたにとってあの子はまったくの他人だったじゃない。生きていようが死んでいようがなんの問題もなかったでしょう?


 そのあまりにもふざけた言葉に、僕は今までこらえていたものが溢れて出て押しこめされそうにもなかった。足早に数奇院すうきいんのもとにまで戻った僕はその胸倉を掴みあげる。


 無理やり立たされて目を見開いている数奇院すうきいんの間抜けな顔に僕は平手打ちをお見舞いした。


「おい、痛いか。」


「な、なんのつもりかしら? あなたって思ったよりも短絡的だったのね、すぐに暴力に訴えかけてくるなんて、」


 もう一度、今度はもっと強くビンタをくらわせてやる。口を閉ざした数奇院すうきいんに僕はもう一度尋ねた。


「いいか、もう一回聞いてやる。痛いか、痛くないか、どっちなんだ。」


 僕のいきなりの行動に数奇院すうきいんは茫然としているようだった。赤くなった頬にそっと手をのばしながら、数奇院すうきいんが思わずといった具合に口を開く。


「痛かった……。」


「そうだ、痛いんだ。誰かに傷つけられると痛いんだ。別に僕はお前がなにをしようが、その結果どうなろうが気にしない。だけれど、他人をなんの理由もなく傷つけるのは、最低で、下劣で、畜生にももとる行いだ。わかったか?」


 勢いに流されたのか、数奇院すうきいんがコクコクと首を振る。それを見届けてから僕は数奇院すうきいんの胸元を掴む手を放した。


「僕はなにがあってもお前から目を離さない、お前が間違ったことをしていたらまたこうやって平手打ちしてやる。」


 未だ頬に手をあてたままの数奇院すうきいんにそんな捨て台詞を吐いて、僕は今度こそ屋上を後にしようとする。


「なら! なら、どうして今までなにもしてこなかったの!」


 その時、僕は初めて数奇院すうきいんが叫ぶのを耳にした。振り返ると、数奇院すうきいんが今までに見せたことのない、泣き出しそうな表情を浮かべている。


「どうして、わたしを正そうと、裁こうとしなかったのよ! 口では善悪を賢らに騙るくせに、誰も守っていないじゃない!?」


 まるで心が壊れてしまったかのように数奇院すうきいんの澄ました顔が歪んでいく。目尻にキラリと光るものをたたえながら、数奇院すうきいんは心の中に鬱屈と沈んでいた言葉を吐きだしていた。


「どうして! ………どうして誰もわたしを叱ってくれなかったの?」


 まるで迷子のような、悲しげな声。その瞬間、僕は初めて数奇院すうきいんの正体を知った。


 数奇院すうきいんは怪物でもなんでもない、ただ誰にも正しい道を教えられなかったひとりの哀しい人間だったのだ。


 今まで被っていた完璧な天才の仮面を脱ぎ捨て、ただの少女となった数奇院すうきいんが泣きじゃくる。その姿は、僕が今までの諍いをなにもかも忘れて同情してしまうほど哀れなものだった。



 泣き疲れてすっかり眠ってしまった数奇院すうきいんをおぶりながら、僕は夜の校舎を歩く。不思議なことに僕の心の中にはもう数奇院すうきいんへの碇といったものがすっかりなくなってしまっていた。


 むしろ、どこか心が痛い。結局、僕は数奇院すうきいんの本質を見抜けてなどいなかったのに、勝手に悪魔かなにかだと考えてしまっていた。僕も数奇院すうきいんにとってのその他大勢に過ぎなかったというわけだ。


 とにかく、なんとかして一晩をやり過ごせる場所を探そう。そう考えた僕がしばらくの間暗闇の校舎を歩き回っていると、背中の数奇院すうきいんがわずかに身じろぎしたような気がした。


「………………恥ずかしい姿を見せてしまったわ。忘れてちょうだい。」


「忘れるのはちょっと難しいかな。いろいろと印象に残る出来事だったし。」


 消え入りそうな声の数奇院すうきいんをからかうと、無言で脇腹に蹴りが入る。床に倒れて痛みに悶える僕を尻目に数奇院すうきいんはすとんと足を地につけた。


いずみくん、どうしてあなたは床に横になって時間を無駄にしているの? もしかして廊下で眠るつもりなのかしら、とても大胆なこと。」


 冷たい言葉と裏腹に感情豊かな声色で数奇院すうきいんが嘯く。立ちあがった後、僕たちはまた寝床を探す旅に出た。



「あら、この教室とかはどうかしら?」


 掠れた文字で図書室と書かれている教室の前で数奇院が立ち止まる。ふたりで覗きこんだところ、なるほど雨漏りの跡もないし誰かがたまり場にしている様子もない。


 引き戸を開けて中に入ると、古びた本のつんと鼻を刺す匂いがする。長年使われていなかったのだろう、ホコリの積もった机を指でなぞりながら数奇院すうきいんは教室の真ん中まで歩いていった。


 僕がその様子を見つめていると、数奇院すうきいんが振り返る。しばらくの間もじもじとなにかを口ごもった後、頬をわずかに染めながら僕を真っすぐに見つめた。


「その、ひとつお願いがあるの。」


 桜色の唇がゆっくりと、一言ひとこと噛みしめるように動かされる。それは、僕と数奇院すうきいんとの関係が永遠に変わってしまう瞬間だった。


「もしもいずみくんがわたしが悪をなすのが嫌なら」


 ―――――――ずっとそばにいて、わたしを見張っていてくれないかしら?

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