第22話

 逃げるように闇夜の校舎を駆ける。じっとりとした嫌な冷や汗が額を流れ落ちてやまない。


 いったい今日の梅小路うめこうじはどうしてしまったのだろう。僕がなにを言っても聞く耳をもたず、ただひたすらに意味をなさないことばかり口にしていた。


 なによりも、あの眼。優しげに細められているのにも関わらず、得体のしれない怖気をかきたてるあの真紅の瞳が、頭にこべりついて離れようとしない。


 旧化学室にいたあの少女は、いつも教室で話している梅小路うめこうじとは明らかに別人に見えた。まるで、人ならざるもののような気配をさせるあの少女が活発で明るい梅小路うめこうじと同じ人間であるはずがない。


 いつまでたっても化学室の梅小路うめこうじがすぐ後ろにたたずんでいるような気がして、僕は半狂乱で走り続けた。



 ようやく梅小路うめこうじの幻視も薄まった僕は、すっかりぐちゃぐちゃになってしまった息を整えながら、重苦しい足を引きずるようにして廃教室にむかうことにした。


 さっさと梅原うめはらたちにビニール袋の中身を渡して図書室へと戻ろう。僕は図書室で待ってくれているであろう柔らかいソファに埋まることしか考えていなかった。


「ごめん、遅れちゃった。」


「………いや、いいんですよ。兄貴は俺たちによくしてくれてんだ、そんくらいのことに目くじら立てる奴はここにはいませんぜ。」


 ギシギシと軋む床を忍び足で歩きながら、廃教室に滑りこむ。ビニール袋の中のタッパーを取り出しながら謝る僕に、梅原うめはらはやけに明るい声で応えた。


「ありがとう。それと、もう一つ謝らなくちゃいけないことがあって、"銀行屋"の仕事がこれから忙しくなりそうだから、しばらくの間はこっちに来れそうもないや。」


 "銀行屋"と"転売屋"との抗争の件は濁しつつも、僕は一週間ほどは冷たい作り置きのごはんで我慢してくれるようお願いする。いつもよりも明らかに量が多くなっているタッパーの山を均等になるよう人数分になるよう分けていった。


「それじゃ、みんな取りに来て。」


 料理を配る準備をし終えた僕は、教壇のうえに立って教室を見渡す。その時になって初めて、僕は梅原うめはらたちの様子がおかしいことに気がついた。


 誰も、動こうとしない。皆一様に押し黙って僕のことを妙に熱っぽい目つきで見つめている。


「………みんな?」


「その仕事っていうのは清流寺せいりゅうじに喧嘩を売ることですかい、兄貴?」


 僕のすぐ後ろにたつ梅原うめはらがボソリと呟く。僕は耳を疑った。


 僕たち"銀行屋"が清流寺せいりゅうじたちと争っていることは普通の生徒たちには知られていないはずだ。どちらとも抗争が知られてはデメリットしかないのだから、自ら進んで明かすはずがない。


 だとすれば――――。


「それってほんとに兄貴にとっていいことなんですかね?」


「………梅原うめはら、それはどういう意味なのかな。」


「簡単でさ、兄貴は数奇院すうきいんのヤツにいいように扱われてるだけなんじゃねえかってことで。」


 怖くて後ろに立つ梅原うめはらの顔を見ることができない。まさか、と僕は信じられなかった。


「兄貴はさ、お人好し過ぎるんですよ。だから数奇院すうきいんなんぞに利用される。裏切って清流寺せいりゅうじについたほうがよっぽどいいのに。」


「っ!」


 じりじりと、廃教室の生徒が教壇にいる僕ににじり寄ってくる。皆一様に熱病に侵されたかのような火照った目つきだ。


 もう間違いなかった。梅原うめはらたちは清流寺せいりゅうじの味方をしている。


梅原うめはら、僕はそんなつもりは毛頭ないぞ。」


「いえいえ、そんなつもりにさせるんですよ。」


 逃げられないかと考えた僕はちらりと廃教室の扉を伺う。しかし、そんな僕の浅はかな思いつきはお見通しだったようで、すでに扉の前では一人の生徒が僕を待ち構えていた。


「おとなしくしてもらいますぜ!」


 背後から襲いかかってきた梅原うめはらに羽交い絞めにされる。手足をばたつかせて必死の抵抗を試みるも、すぐさまほかの生徒に四肢を固定されてしまった。


「っ! 放せよ!」


 せめてもの反撃として僕の前に回りこんできた梅原うめはらを睨みつける。と、僕は梅原うめはらがその手に怪しげな瓶を握っていることに気がついた。


「う、梅原うめはら? その中身はいったい何なんだ?」


「ああ、これのことですかい? いや、すこし眠ってもらいますね。」


 恐る恐る尋ねる僕に、梅原うめはらは真っ赤な錠剤を取り出しつつ応える。どうやら薬で僕を無理やり眠らせるつもりらしい。


 一度意識を失ってしまえばどんなことをされてもわからないだろう。ゾッとした僕がなんとか拘束から逃れようとするも、まわりの生徒に押さえつけられた体は一寸たりとも動かせそうにない。


 口元に毒々しいほど赤い薬が近づけられる。口をこじ開けられ喉奥に指を突っこまれた僕は思わずえずいてしまった。


 しばらくすると、視界がとろけて歪んでいく。急激に襲いかかってきた心地よい眠気に抗うも、意識は白く崩れていくばかりだ。


「これも兄貴のためなんですよ………。」


 梅原うめはらがなにか呟いたように感じるも、次の瞬間にはブツリと電源の切れたテレビのように意識が切れてしまった。



「……おい、おい。いい加減起きろって。」


 体が乱暴に揺さぶられる。ゆっくりと意識を覚醒させた僕は、しばらくの間ぼんやりとした脳みそで真っ暗な周囲を見渡していた。


  真っ赤な絨毯にすこし高級そうなソファ。なぜか見覚えがある気もするこの暗い部屋はいったいどこなのだろう。


 はっと我に返り、自分が清流寺せいりゅうじの本拠地である旧応接室に連れてこられていることに気がつく。どうやら梅原うめはらたちは僕の身柄を清流寺せいりゅうじたち"転売屋"に受け渡したらしい。


 慌てて体を揺すってみるも、ビクともしない。どうやら僕は床にしっかりと固定された固い木製の椅子に縄でしっかりと束縛されているようだ。


「おい、いい加減こっち見ろって!」


 頬に激しい痛みが走る。ジンジンと熱を訴える肌に顔をしかめながら、僕はようやく目の前に清流寺せいりゅうじが仁王立ちしていることを理解した。


 髪の毛を掴まれて無理やり顔を持ち上げられる。荒い鼻息が顔にかかるほど近くに清流寺せいりゅうじの残忍な表情があった。


 もう、万事休すといったところだろうか。これから清流寺せいりゅうじに死ぬよりもつらい暴力を振るわれるのだと悟った僕は、思わず目をぎゅっとつむった。


「あれ、顔は傷つけたらダメなんじゃないんですか。」


「………ああ、そういやそうだったな。忘れてたぜ。」


 子分になにやら指摘された清流寺せいりゅうじがなぜか頭から手を離す。ゆっくりと瞳を開けた僕は、優しげな笑顔を作ろうとして出来の悪い彫像のようになった清流寺せいりゅうじの不気味な表情を目にした。


「久しぶりだなあ、いずみ。」


「そうだね。久しぶり、清流寺せいりゅうじ。」


 いきなり僕を痛めつけてこないところを見ると、どうやら清流寺せいりゅうじにはなにか考えがあるらしい。


「早速で悪いんだがな、例の鍵、どこに隠したのか教えてくれねえか? アブリルのアマが言うには金庫開けるにゃお前と数奇院すうきいん、二人分の鍵がいるっていうじゃねえか。」


 気味の悪い表情を浮かべたまま、清流寺せいりゅうじが鍵の場所を伝えるよう要求してくる。そういえば、清流寺せいりゅうじが狙っているのは僕たちの持つ鍵だった。


「勝手に探せばいいよ。僕が口を割ることはないから、拷問でもしてみれば?」


「いや、そういうわけじゃいかねえんだな。事情があってお前は殴れないんだよ。」


 覚悟を決めて要求を突っぱねてみるも、清流寺せいりゅうじは困ったようにへらへら笑うだけでこちらに暴力を振るってくる様子はない。心底残念であるようだが、清流寺せいりゅうじは穏便にことを済まさねばいけないそうだ。


「なんの事情?」


 時間を稼いでいれば数奇院すうきいんが異常に気がついてくれるかもしれないという期待をこめて、質問をしてみる。あーとかうーとか唸って悩んだ後、清流寺せいりゅうじは眉を寄せながら口を開いた。


「ま、話してもいいか。俺の支援者様がお前を無傷で手に入れたいってご執心なんだよ。なまじ機嫌を損ねると俺がマズイことになるもんでな、教えてくれねえか?」


 支援者? 清流寺せいりゅうじに協力者がいる? 初めて聞いた情報を僕は処理しかねていた。いったい誰のことだ? そもそも今の清流寺せいりゅうじが逆らいたがらない人間なんて、神子かみこ高校にいるのだろうか?


「なっ、頼むよ! 俺を助けると思って、な?」


 清流寺せいりゅうじが手をあわせて僕に懇願してくる。あの清流寺せいりゅうじが僕なんかに下手に出ている!? 僕は瞠目した。


 ますます疑問が深まるが、それはそれ、これはこれだ。幸いなことに清流寺せいりゅうじは僕を傷つけることはできないようだし、答えは決まっているも同然だった。


「断るよ。なにをされても僕は鍵の隠し場所を口にしないから。」


 僕は友人である数奇院すうきいんを死んでも裏切るつもりはない。


 その言葉を言い切るか言い切らないかのうちに、鋭い拳が僕の腹にめりこんだ。数秒遅れて激痛と猛烈な吐き気がこみあげてくる。


 げえげえと胃酸を床に垂らす僕を見つめながら、静かに清流寺せいりゅうじは実に単純な問題の解決策を提示した。


「そうか、ならバレないように目に見えないところを痛みつけるな? 死んでくれるなよ?」

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