第16話

「それにしても、いずみが吾輩の生業について知っておるということは数奇院すうきいんの試験に合格したということか。」


 獅子王ししおうは、顔色一つ変えることなく、僕が裏切らないか試されたあの日の出来事は最初から自分が仕組んでいたことを明かした。


獅子王ししおう、お前……。」


「隠していて悪かったのである。しかし、ここはあの神子かみこ高校であるぞ? 生徒の欲望を運ぶ"郵便屋"が中立でいられるはずもなかろう?」


 無機質な言葉を口から流しだす獅子王ししおうは、まさしくこの高校の生徒にふさわしい冷酷と打算で濁った瞳を僕にむける。つい昨日まで獅子王ししおうの裏の顔を知らなかった僕は抱いていた純真な印象が根底から覆された気がして吐き気がこみあげてきた。


「そもそも梅小路うめこうじどのに近づいたのもその弱みを握れたのならば数奇院すうきいんどのに高値で売り飛ばせるからであって、"郵便屋"としての儲けなど微々たるものである。」


 獅子王ししおうの告白を聞いて僕は強烈な後悔に襲われた。梅小路うめこうじに友達を紹介しただけのつもりだったが、もしかすると僕はとてつもない過ちを犯していたのかもしれない。


「残念なことに梅小路うめこうじどのの秘密はついぞ手に入れることはできなかったのであるが。」


 獅子王ししおうの喜んでいいかわからない言葉に微妙な気分になる僕を尻目に、数奇院すうきいんはゆっくりと口を開けた。


「前々から話していた桜木さくらぎくんの件なのだけれど、今日おねがいできるかしら?」


 昨日僕に語った通り、数奇院すうきいん桜木さくらぎに離反工作をしかけようとしている。そのためには清流寺せいりゅうじに怪しまれないように桜木さくらぎを誘き出す必要があった。


 本来ならば"転売屋"の中でも重鎮である桜木さくらぎが一人になることはないのだが、"郵便屋"である獅子王ししおうの手にかかればお茶の子さいさいである。なにしろ、荷物の引き渡しをしにきたと告げれば待ち合わせ場所を自由に決められるのだ。


「前にも言ったが、流石に"郵便屋"の立場を私物化していることを公にするとこれからの活動に差支えがある。急に今日と言われたとて……。」


「もちろん、お礼は弾むわ。」


 あまりにも急な仕事にしぶる獅子王ししおう数奇院すうきいんが一枚の走り書きを手渡す。そこに記された金額は僕が普段聞く数字よりもさらにゼロの数が二三個多かった。


「これは……。」


 小さな紙きれを掴んだまま目線を外せないでいる獅子王ししおう数奇院すうきいんがゆっくりと近づいていく。獅子王ししおうの耳もとに悪魔のささやきが流しこまれた。


「アレを買うお金が欲しいんでしょう? 迷っている時間が果たしてあるのかしら?」


 僕には理解できない言葉に、しかし獅子王ししおうは思い詰めたように黙りこむ。しばらくの間思い詰めたように中空を見つめていた獅子王ししおうはようやく首を振った。


「……わかった、桜木さくらぎどのを呼び出すのは任せるがよい。しかし、吾輩がその場に立ち会うつもりはないぞ。」


「ええ、それで構わないわ。獅子王ししおうくんを巻きこむのは可哀そうだもの。」


 ちっとも悪びれていなさそうな口調で数奇院すうきいんがうそぶく。獅子王ししおうはそんな数奇院すうきいんから前金の札束をふんだくるように奪いとると、旧音楽室から出ていった。


「ああ、そうそう。いずみくん、すこし待ちなさい。」


 ついで旧音楽室を後にしようとした僕を数奇院すうきいんが呼びとめる。振り返ると、教室の暗闇の中に浮かび上がるようにして佇む数奇院すうきいんが頬を紅潮させながら、僕の首に手をそえた。


「もっと早くに言っておけばよかったのだけれど。」


 爬虫類のような黄金の瞳が幸福の絶頂に歪んでいる。その唇は三日月もかくやとばかりに弧を描いていた。


清流寺せいりゅうじなんかよりわたしをちゃんと選んでくれて嬉しいわ。死んでもいいくらい幸せ。だから、」


――――――――あの日の約束だけは破っちゃ駄目よ?



 日がとっくりと暮れたその日の晩。暗い校舎の廊下を歩く一人の男の姿があった。周囲に鋭い目つきを飛ばしながら闊歩するその姿からは、つい先ほどまで清流寺せいりゅうじの隣りで卑しい笑みを浮かべて追従していた様子は窺えない。


 細身ながらも暴力の匂いを隠しきれない清流寺せいりゅうじの取り巻き、桜木さくらぎ 正人まさひとは苛立っていた。


清流寺せいりゅうじのクソが。なんだって俺があんだけ気ぃ使わなけりゃならねぇんだよ、俺よりも喧嘩弱ぇくせによ。」


 ここ数日の清流寺せいりゅうじの横暴振りは腹芸の上手な桜木さくらぎですら目に余るものがある。


 あの"銀行屋"の数奇院すうきいんを敵に回しているというのに、"銀行屋"に全面抗争をしかけることもなくただひたすらにふんぞり返って豪遊三昧。愚痴の一つも言いたくなるものだ。


「まだ勝敗もついてねぇってのにあの馬鹿はよぉ。」


 走り屋をやっていた頃はこんなもんじゃなかった。敵対する団体には意識が続く限り殴りこみをかけ続ける。自分がボスなら清流寺せいりゅうじのようなぬるい真似をしないことを桜木さくらぎは確信していた。


「まぁ、あの女がこっちに寝返ったっんだから仕方ねぇつったらそうなのか?」


 桜木の脳裏に一人の女子生徒の姿が思い浮かぶ。桜木さくらぎとて清流寺せいりゅうじの自信のもとぐらいは理解していた。


 太刀脇たちわき アブリル。直接対峙したことはないものの、桜木さくらぎもその嘘のような武勇伝は耳にしていた。


 曰く、地元で腕を鳴らした札つきの不良5人を1分もかけずに診療所送りにした。曰く、力士と見紛うばかりの巨漢を片腕で持ちあげたことがある……。


 真偽は不明なものの、太刀脇たちわきが自分でも勝てる見こみがないほど喧嘩に関して天賦の才を持っていることを桜木さくらぎはキチンと理解していた。


 それだけではない。長年つき従ってきた桜木さくらぎだからこそわかったのだが、清流寺せいりゅうじはまだなにか強力な切り札を隠し持っている。さしもの桜木さくらぎもその正体まではわからないほどに清流寺せいりゅうじはその事実を隠しているようだったが、そのなにかにずいぶんと信頼を寄せていることは明らかだった。


 確かに、数奇院すうきいんという神子かみこ高校の支配者に取って代わるこれほどの機会はもう二度と訪れることはないだろう。清流寺せいりゅうじが奢るのも無理はない。


 だが、桜木さくらぎには恐れていることがひとつだけあった。


「自分は隠せてるつもりなんだろうがな、バレバレなんだよ!」


 体の奥底から湧きあがってくる焦燥と憤激に任せて桜木さくらぎが校舎の壁を蹴りあげる。古く脆い廊下の壁はそれだけで粉塵と共に穴が開いた。


 親指の爪をかじりながら桜木さくらぎは怒りを募らす。


 最近、清流寺せいりゅうじ桜木さくらぎを煙たがっていた。今まで清流寺せいりゅうじの実質の腹心として商売に関わってきた桜木さくらぎはやんわりと外され、その代わりに清流寺せいりゅうじお気に入りの子分が仕事をするようになっている。


 桜木さくらぎ清流寺せいりゅうじが自らを蔑ろにしていることを敏感に感じ取っていた。


 当然といえば当然だ。本来ならば桜木さくらぎのほうが力は強い。桜木さくらぎも自分が清流寺せいりゅうじにとって目の上のたんこぶであることは理解していた。


 あの太刀脇たちわきを味方につけ"銀行屋"からの干渉もない今、桜木さくらぎが反旗を翻してもすぐに潰されるのがオチだ。それを見透かしている清流寺せいりゅうじはここぞとばかりに桜木さくらぎを潰しにかかっている。


「クソがッ……。」


 桜木さくらぎはここで終わるわけにはいかなかった。


 いつだって昨日のように思い出せる、アスファルトの上を爆音で疾走した日々。一度味わえば病みつきになるあのエンジン音とバイクの振動を再び取り戻すまでは桜木さくらぎは"転売屋"として甘い汁をすすり続けていたいのだ。


 しかし、どうしようもない。桜木さくらぎは人を人とも思っていなさそうな太刀脇たちわきの冷たい視線を思い出して身震いした。


 桜木さくらぎも流石に命が惜しい。死ぬぐらいならば泥水を啜るほうがましである。


 行き場のない苛立ちをぶちまけるように、自分をこんな夜遅くに呼び出した"郵便屋"に心の中で罵詈雑言を浴びせかける。そもそもこんな深夜にあの"郵便屋"に呼び出されるなど初めてだ、面倒なことこの上ない。


 怒りに震えながら歩くこと数分。桜木さくらぎは待ち合わせの廃教室の前までやってきていた。


「ちっ、"郵便屋"のヤローをなんだってこんな辺鄙な教室で待たなたきゃいけねぇんだ。」


 脳裏に浮かぶ背丈の低い獅子王ししおうの後ろ姿に悪態をつきながら、桜木さくらぎが教室の扉を乱暴に開け放つ。


 暗闇に浮かびあがる窓際の人影に桜木さくらぎはどこか違和感を覚えるものの、もうもうとたちこめる埃に気を取られてすぐに忘れてしまう。


 新調したばかりの制服が白の埃にうっすらと汚されたのに気を悪くした桜木さくらぎは怒気をこめて遠方のシルエットを睨みつけた。


 "郵便屋"は一体全体どういうつもりで桜木さくらぎをこんな古い教室に呼び出したというのだろう、たかだかバイクの雑誌を数部受け渡すだけだというのに。


 もしかすると、獅子王ししおうは思いあがっているのではなかろうか。"郵便屋"などせいぜいが使い走りの大仰な言い換えに過ぎないのに、まるで自分がなにか特別な存在であるかのように勘違いしているのではないだろうか。


 そうでなければ、かつては愛知県一帯で悪名を轟かせた凶悪な走り屋であり今や"転売屋"として高校の裏を牛耳っている桜木さくらぎにこのような分不相応な態度をとるはずがない。


 肩を怒らせて今にも人影に掴みかかろうとした桜木さくらぎに、しかし今度こそ拭いきれない疑念が襲いかかる。ロングスカートをまとったその姿は明らかに獅子王ししおうなどではなかった。


 雲に覆われていた月がその顔を覗かせる。廃教室にさしこむ月光はその人影の正体を静かに照らし出した。


「初めましてかしら? 桜木さくらぎ 正人まさひとくん。」


 悪魔のような笑みを浮かべた怪物、数奇院すうきいんが静謐な夜に声をあげた。

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