第15話

 太刀脇たちわきに続き梅小路うめこうじの去った後の旧図書室はどこか空虚だった。梅小路うめこうじが最後に扉を閉じた音はいまだに僕の耳に残っている。


 どうやら完全に覚醒したらしい数奇院すうきいんは僕の膝に頭を預けたまま思いっきりのびをした。静かに僕にもたれかかると、すこし嬉しそうに呟く。


「これで、この旧図書室もわたしとあなたの二人だけになったわね。」


 その言葉に僕はどう答えればよいのかわからなかった。



 その日の放課後、どこかご機嫌な様子の数奇院すうきいんは優雅に紅茶をすすりながら僕に告げた。


清流寺せいりゅうじくんにはもう十分に時間をあげたのだから、これぐらいで遊びは終わりにしましょう。わたしたちもしなければいけないことが残っているわ。」


「遊びってなんなんだよ。アブリルが裏切った今、もう僕たちも安全じゃいられないんだぞ。」


 いきりたつ僕を鎮めるように、数奇院すうきいんは唇にその真っ白な指をあてる。そして、そのまま脇の本棚から一冊の画集をとりだした。


 手渡された画集を僕はしげしげと見つめる。世界の野鳥を題材とした水彩画を集めているらしいその本は、金属のリングで綴じられていた。


 数奇院すうきいんが渡してくるからにはなにか秘密があるに違いないのだが、僕にはまったくわかる気がしない。


「まだ気がつかないのかしら。」


 僕が画集とにらめっこをしていると、呆れたようなため息をこぼした数奇院すうきいんが僕から画集を取り上げた。そのまま数奇院すうきいんは背表紙のリングを外して画集をばらばらに分解してしまう。


 いきなりの数奇院すうきいんの奇行に目を丸くしていた僕は、やがておかしなことに気がついた。綴じられていた画集のページが、よく見ると二つ折りになっているのだ。


 数奇院すうきいんの蟻を覗きこむような瞳に促されながら、僕はばらばらになったページの一つを手に取って開いた。左上から、数奇院すうきいんらしい几帳面でとげとげした字がびっしりと書きこまれている。


 その内容を読み進めるにしたがって、僕はこれがいったいなんなのかを理解した。


清流寺せいりゅうじ孝臣たかおみ――――。生まれは東京都世田谷区■■■、■■―■―■■。父親は企業法務を取り扱う顧問弁護士の事務所を経営しており、家庭は裕福であるが両親に家庭内暴力の疑惑あり。幼稚園、小学校を通じて内向的で無口であったが、私立中学校入学時から暴行や窃盗など非行に走り、一年足らずで退学処分となる………。」


 目の前に広がっていたのは、本人ですら知っているか疑わしい清流寺せいりゅうじの個人情報であった。友人関係から学業成績、さらにはパソコンの検索履歴までありとあらゆることが赤裸々に綴られている。


しずか、これはどうやって?」


神子かみこ高校は札つきの不良が集まる高校だもの、先生が事前に生徒の情報はなんでも集めようとするのは当然だわ。梅小路うめこうじ先生も悪趣味なこと。」


 僕は信じられなかった。梅小路うめこうじの父であるあの先生は、いつも好々爺としていて、語弊を恐れずに言えばこの高校の先生としては甘さが残っているようにみえたからだ。その先生がこれほどまでに生徒の尊厳を踏みにじるような真似をするとは到底考えられなかった。


「わたしはただ、職員室にお邪魔して先生のフォルダーを拝見させていただいただけよ。」


 数奇院すうきいんが首をすくめ、その手にあるページの内側を読みあげる。


二階堂にかいどういずみ。出身は京都府京都市左京区■■■■■■■■■■■■■。母親は代々受け継いできた家業である和菓子屋、二階堂の五代目。跡継ぎとして日々修行に没頭する姉とは異なり、普段は家事などをさせられている。神子かみこ高校への入学手続きがとられるに至った同級生の女子生徒の自殺未遂騒動への関与については、疑わしい点が多々見受けられる、だそうよ。」


 数奇院すうきいんからそのページを奪いとった僕は、唖然とするほかなかった。自分の知らないところで自分の秘密がこうもあからさまに暴かれているというのはあまりいい気分のするものではない。


「……それで、これはいったいなんなのかな。」


 気を取り直して、僕は数奇院すうきいんに尋ねた。別に清流寺せいりゅうじが中学校で数学が落第であったことを知っていたとしても、なんの役にも立たないのではないのだろうか。


「あら、敵を知ることは勝利への最短経路よ?」


 数奇院すうきいんが肩をすくめ、一枚のページを差し出してくる。中身は太刀脇たちわきのことについてでも、清流寺せいりゅうじのことについてでもなかった。


桜木さくらぎ?」


 僕はどこか素っ頓狂な声をあげてしまう。桜木さくらぎといえば清流寺せいりゅうじの腰巾着筆頭で、いつも清流寺せいりゅうじのご機嫌取りをしている生徒だ。


 数奇院すうきいんの意図が読み取れない僕は説明を求めるように顔をあげる。どこか楽しげな様子の数奇院すうきいんは、にっこりとほほ笑んだ。


「簡単なことよ、太刀脇たちわきさんと同じことをするだけ。」



桜木さくらぎ正人まさひと。出身は愛知県名古屋市中区■■■■、■■―■■。自動車の整備士であった父親の影響で、小学校の頃からバイクに興味を持つ。中学生になると、窃盗したバイクで夜な夜な無免許運転を繰り返すようになった。神子かみこ高校への入学が決定的になったのは、近くの暴走族と抗争を繰り広げ、一般人にも犠牲者を出したから……。」


 桜木さくらぎのことはあまり知らなかったが、これは酷い。どうやら地元の愛知県では知らないものはいないほど暴れまわっており、小学生や一般人など見境なく襲いかかったそうだ。


 清流寺せいりゅうじに媚びを売ってこき使われている今の姿からは到底想像のつかない桜木さくらぎの過去に、僕は疑問が首をもたげるのを感じた。


しずか。これ読んでる限りだと、清流寺せいりゅうじよりも桜木さくらぎのほうがよっぽどおっかなくみえるんだけれど、どうして桜木さくらぎ清流寺せいりゅうじに従っているんだろう?」


 数奇院すうきいんがその笑みを深める。


桜木さくらぎくんは心の底から清流寺せいりゅうじくんに忠誠を誓っているわけじゃないわ。ただ単に、わたしが融資をするのが清流寺せいりゅうじくんだけだったから、清流寺せいりゅうじくんに従っているだけ。」


 だからこそ、と数奇院すうきいんは続けた。僕たち"銀行屋"にもつけ入る隙があるのだと。


桜木さくらぎくんは、今でもあの栄光の日々を忘れられていないもの。」


 数奇院すうきいんが机の上に雑誌を並べていく。そのすべてがバイクの特集を組んでいた。


桜木さくらぎくんが獅子王ししおうさんに頼んでいた雑誌からもわかるわ。桜木さくらぎくんは未だバイクに執着しているのよ。」


 数奇院すうきいんが指と指をあわせる。


「公然と反旗を翻すことはないものの、願望を備え不満も抱えている、実に桜木さくらぎくんは清流寺せいりゅうじくんの獅子身中の虫といったところかしら。わたしたちの操り人形にぴったりだわ。」


 底冷えのするような悪意を纏いながら、梅小路うめこうじは蠱惑的な笑みを浮かべてみせた。



いずみ、一昨日ぶりであるな! 吾輩の頼んだ封筒はキチンと太刀脇たちわきどのに届けてくれたか?」


「あ、うん。」


 朝礼前の教室に一歩足を踏み入れると、遠くから獅子王ししおうが無邪気な笑顔とともに駆け寄ってくるのがみえる。教室の扉で僕たちは話し始めた。


獅子王ししおうさん、ちょうどよかったわ。お話があるの、ついてきてくれるかしら。」


「む、数奇院すうきいんどの? 別に構わないのだが、いったいどういうことなのだ?」


「別にたいしたことじゃないの、いずみくんがこの前買っていた風邪薬、わたしも欲しくなっただけよ。」


 僕の目の前で数奇院すうきいん獅子王ししおうがまるで世間話でもしているかのように語らう。その様子からは、獅子王ししおう数奇院すうきいんの密偵だという素振りはいっさい窺うことはできなかった。


 教室から遠く離れた旧音楽室に、獅子王ししおうと僕たちはこっそりと忍びこむ。


 旧音楽室は防音設備もきちんとしているし、なにより今になっても鍵が機能している数少ない教室の一つだった。内緒話をするにはうってつけだ。


「それで、こんなところにまで吾輩を連れこんで一体どうしようというのだ? …はっ、もしかして一昨日の封筒の中身でも聞き出そうというのか! それは無理というものだ、あれは吾輩と太刀脇たちわきどのだけの秘密、」


 獅子王ししおうが"郵便屋"としての表を演じているのを数奇院すうきいんが手で制す。後ろ手にカーテンを閉じながら、数奇院すうきいんは不思議そうな獅子王ししおうに口を開いた。


いずみくんはもうあなたの正体を知っているの。だから、もうそんな三文芝居はしなくて結構よ。」


 途端、獅子王ししおうの表情から感情という感情が抜け落ちる。まるで人間ではないかのような無味乾燥とした顔の獅子王ししおうは、先程までの感情豊かな紅顔の少女とは別人としか思えなかった。


「…なんだ、いずみは吾輩が数奇院すうきいんどのの内通者であることを知っているのであるか。そうならば、もっと早くに伝えてくれればよいものを。」


「あら、ごめんなさいね。ここ数日はいろいろと忙しかったの。」


 抑揚のない機械のような声色で、獅子王ししおうは"郵便屋"として数奇院すうきいんの検閲に手を貸していることを認める。そのずっと背の低い少女に僕はどこか怖気を感じた。

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