第14話

 数奇院すうきいんは結局僕の膝を枕にしたまま、眠りについてしまった。


 なるべく起こさないように気をつけながら、僕は数奇院すうきいんの寝顔を覗きこむ。すぅすぅとかすかに寝息をたてるそのあどけない表情は、いつもの酷薄な笑みが浮かべられていないだけいっそう儚く感じられた。


 数奇院すうきいんの言葉を信じるのならば、数奇院すうきいんは昨日一晩中起きていたらしい。さしもの数奇院すうきいんといえどもそれなりに疲労が蓄積したのだろう。


 どうも、僕はこれからしばらくの間、数奇院すうきいん専用の寝具にならざるを得ないようだ。


 手持無沙汰な僕は、太刀脇たちわきが果たしてどれだけ僕たち"銀行屋"の秘密を清流寺せいりゅうじに漏らしたのだろうかと想像した。


 かつて数奇院すうきいんが指摘したように、清流寺せいりゅうじが自らの権力の基盤たる"銀行屋"の制度を手に入れるためには預金と帳簿が納められている金庫の中身を手に入れる必要がある。ならば、清流寺が僕たち"銀行屋"に反旗を翻した今、その金庫の情報は確実に太刀脇たちわきを通じて手に入れているだろう。


 僕は、首から下げられた数奇院すうきいんからの贈り物が冷たく肌に触れているのを感じていた。そっと胸元からひもを手繰り寄せ、それをとり出す。


 なんの変哲もない、ただの鍵だ。ただし、この鍵を清流寺せいりゅうじは今喉から手が出るほど欲している。


 数奇院すうきいんが用意した金庫は、その筋の人からすればとてつもなく頑丈な一品なのだそうだ。メキシコの麻薬カルテルにいた頃にその手の金庫を見慣れているだろう太刀脇たちわきですら目を見張っていた。


 いかなる衝撃や薬品にも耐えるその金庫を開けるには、ふたつの鍵が必要だ。そして、それらは"銀行屋"の各々に分散して預けられ、守られている。


 僕が数奇院すうきいんから預かり、肌身離さず持ち歩いている鍵は、ふたつの鍵のうちのひとつだ。僕の鍵と数奇院すうきいんが持つ鍵がそろって初めて金庫は開けられる。


 太刀脇たちわきが裏切った今、金庫を開ける唯一の方法であるこの二つの鍵についても清流寺せいりゅうじに知られるのは時間の問題だろう。そうなると、清流寺せいりゅうじは僕と数奇院すうきいん、二人から鍵を奪おうとしてくるはずだ。


 授業が始まって廊下の喧騒も遠のき、旧図書室はいつの間にか静寂に支配されていた。


 清流寺せいりゅうじはほぼ間違いなく僕たちの様子を四六時中窺うようになるだろう。ほんのわずかでも隙を見せた途端に襲撃できるように……。


 がらり。旧図書室の扉が音をたてて開かれる。心臓が飛び出るほど驚いた僕は、その突然の来訪者の正体を知って胸をなでおろした。


「なんだ、みやびさんか。」


「なんだとはなんやねん、うちは心配して来たったっちゅうのに。」


 頬を膨らませて不満を表明している梅小路うめこうじが、扉の先に立っていた。



「おっ、数奇院すうきいんはんはおねんねしとるんか。」


 ソファで僕の隣にどさっと座った梅小路うめこうじが、僕の膝元で安眠を貪る数奇院すうきいんを見つめる。と、その柔らかい頬を指でつつき始めた。


数奇院すうきいんはんもなぁ、起きとるときみたいにけったいな笑み浮かべとらんかったらどえらい可愛らしいのになあ。」


 えいえいと、どこか日頃の気苦労や恨みを晴らすように梅小路うめこうじが力を強めていく。数奇院すうきいんが眉間にしわを寄せて寝返りをうつまで梅小路うめこうじのちょっかいは続けられた。


「それで、昨晩はなにがあったん。数奇院すうきいんはんもこう見えて心配しとったし、うちも気が気でなかったんやで。」


 どうやら僕が昨日の晩に高校まで帰ってこなかったことについて梅小路うめこうじにも余計な心労をかけてしまっていたらしい。清流寺せいりゅうじとの確執や太刀脇たちわきの裏切りは隠しつつ僕は昨晩のあらましを語った。


 全てを聞き終えた梅小路うめこうじは顔をしかめながら僕を睨みつけた。たじろぐ僕に呆れたように梅小路うめこうじが耳の痛い言葉をぶつけてくる。


「アブリルはんが山の中に住んどることはいったん置いといてやな、そないな山ん中に一人で、それもなんの準備もせんと行くなんて自殺行為もええとこやろ。」


 梅小路うめこうじが指摘した通り、僕にも山に慣れて侮っていたところも少なからずあったかもしれない。しおらしくなった僕を一瞥した梅小路うめこうじはため息をついて深々とソファに座りこんだ。


「……そういえば、みやびさんは授業はいいの?」


「ああ、そんなもんもうええわ。あんな教室で勉強なんかやってられんで、あんたらのほうが心配やったんや。」


 ふと、気になった疑問が口をついて出てくる。やさぐれた様子の梅小路うめこうじは真面目な性格からは考えられないような答えをぶっきらぼうに言い放ってみせた。


 おかしい、父親である先生を尊敬していた梅小路うめこうじがこんなことを口にするはずがない。なにか変なものでも食べたんじゃなかろうか。


「なんや、うちがこないなこと言うんがそんなにおかしいか。」


 僕が心配げな眼差しを送っていると、梅小路うめこうじは気まずげに目をそらす。


「簡単な話や、うちもこの神子かみこ高校に夢抱かんくなったっちゅうことやからな。」


 どこか遠くを見つめるような梅小路の目は、現実に疲れはてたような哀愁を漂わせていた。どうやら授業中は弩のつくほど真面目だった梅小路うめこうじももうさじを投げてしまったらしい。


「あとな、これはいずみはんに言っとかんとあかんと思ったんやけれどな、もうそろそろ旧図書室からは出ていくわ。」


 今更ながらつくづく我が母校の荒れ具合に戦慄を覚えていると、梅小路がぼそりと僕たち"銀行屋"に決別を告げた。


「そう、みやびさんも気をつけてね。」


 僕は別に驚くことはなかった。梅小路うめこうじが"銀行屋"、特に数奇院すうきいんとはうまく噛みあっていないことは傍から見ていても明白だったからだ。


 あの日、清流寺せいりゅうじとの食事で垣間見せたように、梅小路うめこうじは結局どこまでいっても根が優しい人なのだ。そんな良い人が、自分が言うのもなんだけれど、人を金のなる木としか考えていない"銀行屋"と仲良くできるはずがない。


「うちも心の中で割り切ろう思たんやけれどな、ごめんやけどもう限界やわ。」


 梅小路うめこうじがちらりと眠りについている数奇院すうきいんに目をむける。


 最近、梅小路うめこうじ数奇院すうきいんとの間でちょっとした言い争いめいたことが多かったのもこの前兆だったのだろう。二人とも表面上は和やかに、致命的にならないよう激化を避けていたけれど、性格の相性が最悪なのは火を見るよりも明らかだった。


「しばらくの間は化学室のあたりをウロチョロしとるつもりやから、よろしく頼むで。」


「うん、これからも教室ではよろしくね。」


 僕は梅小路うめこうじがなにか言いたげに唇をモゴモゴさせているのに気がついた。続きを促すようにむけられた僕の視線に、梅小路うめこうじがようやくその重い口を動かす。


「あのな、気悪くせんでほしいねんけれど、うちどうしても気になってしもてん。どうしていずみはんがこの高校に来ることになったんか。」


 いきなりプロのボクサーにアッパーを喰らわされたような気持ちだった。いったいどうして、そんなカビの生えたような昔の出来事を掘り返してきたのだろう。


「パパに聞いたらな、あんたが数奇院すうきいんはんと一緒になって同級生の女の子を自殺未遂まで追いこんだからやいうねん。」


 僕は苦々しいような、懐かしいような思いに襲われた。若さゆえの衝動に駆られ、僕が向う見ずに突っ走ったあの頃の記憶が堰を切ったように思い出される。


「でも、うちはそうやとは思えん。今の今まで見つめてきたうちにはいずみはんがそない酷いことするとはどうしても信じられんのや。」


 いつの間にか、梅小路うめこうじはソファから立ち上がっていた。そのまま僕の前でしゃがみ、その真紅の瞳で僕と目をあわせてくる。


「なあ、もしかしてなんやけどあんたは数奇院すうきいんはんに濡れ衣を着せられて道連れにされたんちゃうか。」


 目を逸らすことができない。それほど鮮烈な梅小路うめこうじの真っ赤な瞳孔は僕をがっしりとつかんで離さない。


 梅小路うめこうじがどれほど勘がいいのか僕は思い知らされた。なぜなら梅小路うめこうじの推論は限りなく真実に近かったからだ。


「なんでそんなやつと一緒におるん? 弱みでも握られとるんか?」


「やったらさ、数奇院すうきいんはんなんか捨てて、うちと――――――。」


 梅小路うめこうじのその血色の良い唇が破滅的な言葉を紡ごうとしている、そう僕は直感していた。ひとたびその言葉が放たれたならば、梅小路うめこうじも僕ももう二度と後戻りのできない、不可逆の反応を引き起こすだろう。


 しかし、その言葉が形になることは永久になかった。


 いつの間にか起きていた数奇院すうきいんが僕と梅小路うめこうじとの顔の間に本を挟みこんでいる。その表情からはごっそりと感情というものが抜け落ちていた。


「――――そこまでよ。これ以上は到底看過できないわ。」


 真の髄まで冷えるような、声。


梅小路うめこうじさん。悪いのだけれど荷物を纏めてすぐに旧図書室から出ていってくれないかしら。」


 それは、梅小路うめこうじ数奇院すうきいんの修復不可能な亀裂をさし示していた。


「っ、わかったわ。遅かれ早かれうちもここから引っ越すつもりやったし。」


 焦ったような、怯えたような梅小路うめこうじの声。


 対照的に一切の情を感じさせない無色透明な数奇院すうきいんの言葉の節々からは、しんしんと静かに燃え盛る炎のごとき怒りがひしひしと感じられた。


 僕と数奇院すうきいんとの関係はとても複雑で、梅小路うめこうじの考えるそれよりも遥かに深く悍ましいものだ。そして、数奇院すうきいんは誰であれ僕との関係に足を踏み入れるのを好んでいない。


 梅小路うめこうじはまるで夜逃げするかのように旧図書室を去っていった。

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