第13話

数奇院すうきいん、なのか?」


「あら、わたし哀しいわ。わたしはあなたをかけがえのない友人だとばかり慕っていたのに、あなたはわたしの顔すら覚えていてくれなかったのね?」


 僕が半信半疑で口を開くと、数奇院すうきいんは心外だとばかりにうそぶいてみせる。その数奇院すうきいんのいつも通りの意地の悪い言葉が、どうしてか今はとても頼もしく思われた。


 しばらくその彫刻のように美しい笑みを呆然と眺めてから、正気を取り戻す。そういえば、僕は岩場の上から太刀脇たちわきに蹴り落されたのだった。


 慌てて体中をまさぐるも、どこにも傷はない。慌てて起きあがって初めて僕は自分が木の枝で作られたクッションの上に横たわっていることに気がついた。


「あなたが落ちてくるのを待つのは退屈だったもの。それにしても驚くぐらいにうまくいったわね。」


 数奇院すうきいん


 どうやら幸運なことに数奇院すうきいんが周りの生い茂った草木を集めて僕が転落しても大事にならないようにしてくれていたらしい。僕はちょうどそこに着地できたのだ。あともう少し落下地点がズレていれば冷たくて固い岩に打ちつけられていたのだと考えると心底ゾッとしたが、今は自分の悪運に感謝している場合ではなかった。


 慌てて自分の足で立とうとしてよろけてしまう。無言で支えてくれた数奇院すうきいんの頭上に影がさした。


 ナイフ片手に崖上から襲いかかってきた太刀脇たちわきに気がついた数奇院すうきいんは、僕を押し倒しながら後ろに飛びずさる。まるで猫のように軽やかに身を翻した太刀脇たちわきは先ほどまで僕が横たわっていた藪の上に降り立った。


 数奇院すうきいん太刀脇たちわき、かつての仲間同士が対峙する。


しずか、どうして、ここに?」


「別に、朝になっても帰ってこないいずみくんのことが気がかりになっただけのことよ。偶然、あなたの裏切りのことを知れたのは怪我の功名というものなのかしら?」


 どうやら岩場の上での僕と太刀脇たちわきとの会話を数奇院すうきいんも下で聞いていたらしい。裏切りを知られた太刀脇たちわきは苦々しげな表情を浮かべた。


 警戒を露わにする太刀脇たちわきと対照的に数奇院すうきいんは裏切りを知る前とまったく変わらない親しさを隠そうとしない。それは、激昂して怒鳴り散らしたり脅したりするよりもかえって恐ろしいものだった。


「それにしても、あの臆病な清流寺せいりゅうじくんがどうしてわたしに逆らったのかようやく分かったわ。あなたを寝返らせることができたから、愚かにもわたしを陥れようと思いあがってしまったのね。」


 あの日、卓球場で数奇院すうきいんが語っていた"銀行屋"を乗っ取るあて、それはどうやら太刀脇たちわきという内通者の存在だったらしい。確かに、僕が偶然封筒の中身を見ることがなければ僕たち"銀行屋"は最後の最後まで裏切り者の存在に気がつかなかったかも知れなかった。


「それにしても、わたしの"銀行屋"に虫けらが混ざっていることが分かったのだから清流寺せいりゅうじくんには感謝しないと。」


 全身に戦慄が走る。数奇院すうきいんのその冷たい笑みはなによりも恐ろしかった。


「………この、悪魔。殺せない、無念。」


 すこし怯えた様子の太刀脇たちわきはそれでもその仏頂面を崩すことなく言葉を吐き捨てる。そのまま後ろへと後ずさっていった太刀脇たちわきは、あっという間もなく身を翻すと背後の森に溶けこむように消えていった。


 数奇院すうきいんは遠ざかっていく太刀脇たちわきの姿をいつまでも見つめる。太刀脇たちわきの姿がもう見えなくなってからようやく、数奇院すうきいんは地面に倒れ伏す僕に手を差しのべるのだった。



 数奇院すうきいんの手を借りながら、高校まで無事に戻れた僕はひとまずシャワーを浴びる。綺麗な制服に着替えた後、僕は数奇院すうきいんに昨日あった出来事を話した。


「ふぅ~ん、そんなことがあったのね。」


 向かい側の椅子に座る数奇院すうきいんは退屈そうに僕の話を流す。そして大きな欠伸をした。


「わたし、あなたが帰ってこなかったせいで一晩中起きていたの。」


 "銀行屋"が寝ている間に襲撃をしかけてくる生徒がいるかもしれないということで、僕と数奇院すうきいんは毎晩交互に見張りについている。昨晩は僕が太刀脇たちわきのもとに泊まったせいで一睡もできなかったらしい。


「それは、ごめん。」


 謝罪の言葉を口にはしたが、僕は数奇院すうきいんの真剣味のなさにどこかイライラしていた。


 こと荒事に関して"銀行屋"で最も長けていたのは太刀脇たちわきである。その太刀脇たちわき清流寺せいりゅうじに寝返ったのというのに、数奇院すうきいんはまったく気にしていないようだった。


 そもそも僕は裏切られたばかりか太刀脇たちわきに殺されかけたのである、落ち着いていられるはずがない。


 そんな僕の心境もいざ知らず、数奇院すうきいんは優雅にカップの紅茶を飲みきると、僕のいるソファに移ってきた。数奇院すうきいんが僕の膝に頭をのせていくのを、ただ眺める。


  なにかもの言いたげな僕の様子に気がついたのか、数奇院すうきいんがどうでもよさそうにその桜色の唇を開けた。


「わたし、疲れたの。早く眠りにつきたいから、質問があるなら手短にお願いするわ。」


「授業はどうするんだよ。もうすこしで朝礼が始まっちゃうぞ。」


「そんなもの休めばいいじゃない。中身なら後でわたしが教えてあげるから。」


 どうやら、数奇院すうきいんはこれから僕の膝を枕に安眠を貪るつもりらしい。数奇院すうきいんが前言を撤回することはないのだから、授業をサボることは確定事項のようだ。


 そんな数奇院すうきいんは、僕の不安をあまり真剣に受け取ってくれてはいないようだ。ちょっとムッとした僕は、意趣返しとばかりにちょっとした毒を吐いた。


「それでは、天才である数奇院すうきいん様はどうして自分の子分であるアブリルに裏切られたことを今の今まで見抜けなかったのでしょうかね?」


「あら、お言葉ですけれどわたしは太刀脇たちわきさんの裏切りをとっくのとうに知ってたわよ。」


 数奇院すうきいんが信じられないようなことを言いだす。いくらなんでもそれは嘘だ、いったいどうやって数奇院すうきいん太刀脇たちわきの背信に気がつけたというのだろう。


「べつに虚栄ではないわ、事実よ。だってわたしは獅子王ししおうくんを通じて太刀脇たちわきさんが受け取るすべての贈り物を検閲しているもの。」


「……は?」


 僕の膝に後頭部を埋めながら、数奇院すうきいんが薄く目を細める。それでは、獅子王ししおうが僕にお使いを頼んだ時すでに、数奇院すうきいんはその封筒の中身を知っていたのか?


「ええ。その封筒の中身が太刀脇たちわきさんと清流寺せいりゅうじくんとの裏切りに関する最後の確認だっていうことは知っていたわ。」


 それどころか、数奇院すうきいん清流寺せいりゅうじがいろいろな贈答品を通じて太刀脇たちわきに接近し裏切りを唆す一部始終を、完璧に把握していたのだとのたまう。


「このわたしが、自分の飼っている"銀行屋"をなんの首輪もつけずに信じていると思ったのかしら? あいにくとわたしはそこまで楽天的でも愚かでもないわ。」


 獅子王ししおうはある意味で数奇院すうきいんの私的な間諜としてこれまでも暗躍してきたらしい。僕にはその検閲に思い当たる節があった。


「もしかして例のあの漫画がバレたのも……。」


「そうよ、獅子王ししおうくんが密告してくれたの、あなたがあんな下劣な行いをするなんて、最初は信じられなかったわ。」


 あの家庭科室での一件はすべて僕に釘を刺すための三文芝居だったというわけだ。……ということは獅子王ししおうが結局一番悪いということではないか。


 内心で友情を裏切った獅子王ししおうへの怒りを燃やしながら、僕はそれでも納得のいかないことがあった。


「それならどうしてもっと早くに対処しなかったんだ。アブリルが寝返るのを止めさせることもできたし、僕にわざわざ手紙のお使いを頼むなんて遠回りに裏切りを公にする必要もなかったじゃないか。」


 そこまで全てを知っていながら、どうして太刀脇たちわきをむざむざ敵の手に渡したのか。それにどうしてあの封筒を運ばせてまで太刀脇たちわきの裏切りを僕に匂わせたのか。


「わたし言ったでしょう、わたしの"銀行屋"に虫けらが混ざっていることが分かったのだから清流寺せいりゅうじくんには感謝しないとって。」


 数奇院すうきいんが酷薄な笑みを浮かべる。それだけで僕は数奇院すうきいんの言葉が理解できた。


 違う、数奇院すうきいんはただ単に一度でも自分に逆らおうとした部下を許すつもりはないのだ。たとえ可能性だけであっても、あの手この手で炙り出した後に言い逃れができないよう決定的な瞬間まで泳がせておく。


「あなたにあの封筒を任せたのはね、試験だったの。」


――太刀脇たちわきの裏切りを数奇院すうきいんに知らせるならよし。しかし、もし僕も裏切りに加担したのなら、僕はいったいどうなっていたのだろう?


「気がつかなくてもそれはそれでよかったのだけれど。」


 数奇院すうきいんが妖艶に微笑む。


「あれはね、あなたが真に信ずるに足る従順な犬なのか確かめる儀式よ。」


僕は冷や汗を流しながら、やっぱり数奇院すうきいんは空恐ろしい友人であると切実に確信した。

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