第10話

 神子かみこ高校は小さな小川沿いに細々とのびる私道の途中に建てられている。ただでさえ四方を一面の木々に囲まれている校舎からはさらに文字通り山の中まで道が続いていて、その入り口は頼りない三角コーンで守られていた。


 鬱蒼と茂った木々に日光は遮られ、まだ日が沈むまで時間があるのにその道は薄暗い。その入り口に立った僕は覚悟を決めるように深呼吸をして、足を踏み出した。



 必要以上に用心深い太刀脇たちわきにとって、他の生徒もいる校舎で眠りにつくのは、スラム街の真ん中でどうぞいつでも襲ってくださいと看板を立てるようなものだという。


 だからといって山に野宿しなくてもいいだろう、と僕は思うのだけれど。


 山奥へと続く道は途中でアスファルトの舗装が途切れ、砂利道になる。さらに奥に進むと、もはや獣道と見分けがつかないような藪だらけの森の中をかきわけていくことになるのだ。


 ブンブンと周りを飛び回る蠅を手で追い払いながら、ほぼ垂直に反り立つ岩場まで辿り着く。ジャラリと降ろされた鎖を握りしめて足をかけた。


 僕が太刀脇たちわきの隠れ家を訪れるのを億劫に感じる最大の理由はこういった障害にこそある。いったい何が悲しくて友達に会いにいくだけにこんな登山めいたことをしなければいけないのか。


 ようやく岩を登り切り、振り返ると一面の緑が視界に映る。遠くには汚れきって廃墟みたいになった校舎が豆粒ほどに見えた。


 沈み始めた太陽が晴れ渡った青空を少しずつ茜色に染めあげていく。このままだと夜の山をさまよう羽目になるな、そう考えた僕が焦って足を早めた時だった。


 スカッ。


 前に出した足がなにもない中空を踏みしめる。マズイ、と気がつく間もなく僕は斜面を転がり落ちた。


 バシャッ。


 落ち葉と枝で覆われた土の上をひたすらに転がった僕は最終的に小川に落下する。川底の尖った石で切り傷をつくりながら、僕はなんとか起き上がった。


 濡れて全身に貼りつく制服のワイシャツが気持ち悪い。川底の泥でズボンはドロドロになっていた。


 どうやら道が水の浸食で一部削りとられて崩れていたらしい。慌てていた僕はそれに気がつかずに足を滑らせて、真っ逆さまに谷底まで落ちてしまったのだろう。


 そういえば、この前の休日にけっこう大ぶりの雨が降ってたな。


 今更になって思い出しながら、僕は谷の斜面を見あげる。複雑に絡みあって生い茂る木々で谷の上はまったく見えなかった。


 谷を冷たい風が吹き抜けて、びしょ濡れになった僕を撫でていく。突然の寒気に襲われた僕は二の腕をさすりながら辺りを見渡した。


 目に映るもの全てに見覚えがまったくない。僕はずいぶんと深いところまで落ちてしまったようだ。


 鳥肌のたった肌をさすりながら、僕は不安で顔を青ざめさせた。まずい、実にまずいぞ。このままだと山の中で遭難してしまう。


 ひとまず小川の岸に這い上がった僕はどうすべきか考えることにした。


 下手に動くよりもここに留まって誰かが僕の失踪に気がついてくれるのを待つべきだろうか? そうしたとして、僕が実際に助け出されるのはいつになるのだろう?


 体がブルブルと震える。秋が近づき、最近は夜も冷えるようになってきた。このままここにいたとして、一晩を無事に過ごすことはできるのだろうか?


 そもそも山奥で一晩越すとなると、イノシシとか熊に襲われるかもしれない。


 次々と湧き上がってくる不安に、頭がどうにかなってしまいそうだった。おりしも太陽が傾き、渓谷は次第にその影を濃くしていく。


 ゲェ、ゲェ、ゲェ。


 森の奥から突然聞こえてきたカケスの鳴き声にビクリと飛び跳ねてしまった。バクバクとなる心臓を押さえながら辺りを見渡す。


 今、こうやっている間にも木々の間からなにかが僕を覗いているかもしれない。


 山の独特な雰囲気にあてられた僕は冷静な判断ができそうになかった。とにかくこの谷からなんとしても脱出しよう、恐怖にかられた僕はそのことで頭がいっぱいだったのだ。


 落ち葉で足がずり落ちるなか、無理やりに斜面をよじ登っていく。木の幹に爪を食いこませ、体中を土で汚しながら這いあがるも、その歩みは遅々として苛立たしいものだった。


 太陽がどんどん傾き、空が鮮烈な赤に塗り替えられていく。


 眩しい西日に目を細めながら、僕は悪戦苦闘を続ける。まだまだ谷の上にはたどり着きそうになかった。



 ようやくもとの山道に手をかけられたのは、夕日がほとんど山際に消えかけた時であった。


 倦怠感に包まれた体を斜面から持ち上げる。ようやく平らな地面にありつけた僕は落ち葉の上に横たわりながら荒い息を整えた。


 次第に闇が深くなる山中で沈んでいく太陽を見つめる。我に返った僕はなんとか節々が痛む体を起こした。


 今、僕はちょうど高校と太刀脇たちわきの隠れ家との間にいる。なんとしてもどちらかに辿りつかなければ森の中で野宿しなければいけない。


 しばらく考えた後に僕は来た道を戻ることにした。太刀脇たちわきの隠れ家に続く山道はここからさらに険しくなる一方だ。夜中に山をさ迷うことになったとしても、高校のほうに戻るほうがまだましというものだろう。


 棒きれみたいな足を根性で動かし、牛よりも緩慢な動きで一歩ずつ進んでいく。木々に囲まれて明りを漏らしている校舎はまだまだ遠かった。



 夜が訪れるのはほんとうに早いもので、あっという間に一寸先も見通せないような暗黒が僕の周囲をつつむ。足元も見えないような有様ではこのまま山道を進むことも難しいだろう。


 結局、僕は今日のうちに高校に辿り着くことを諦めざるを得なかった。


 いつの間にか乾いていた制服をはたきながら、道の脇にうずくまる。空に瞬く星の光も、森の底に沈む僕には届きそうになかった。


 一晩を山で過ごすなんて思いもよらなかったものだから、食べ物も毛布もなにも持ってきていない。死んでしまいそうなほどの心細さに苛まれながら僕はぎゅっと体を縮こめた。


 そうやって月が照らす森の中で息を潜めていったいどれほどが経った頃だろうか。


 がさり、となにかが落ち葉の上を動く音が聞こえた。うとうとと瞼が閉じかけていた僕の眠気はどこかに飛んでいってしまう。身動ぎしないよう気をつけながら、僕はそっと目を開けた。


 さっきまでと何も変わらない、黒一色に塗りつぶされた森。その奥から、なにかが蠢く音が聞こえてくる。


 がさり、がさり。次第に近づいてくる音に、僕の神経は極限まで研ぎ澄まされた。


 僕がいないことに気がついて誰かが探しに来てくれたのだろうか? いやもしそうなら懐中電灯みたいな光源を持ってきていないのはおかしい。もしかすると、この森に住まう獣の類かもしれない。


 がさり、がさり、がさり。僕が訝しんでいる間も、その物音は聞こえ続けていた。


 疑心暗鬼に陥った僕はそっと後ろに後ずさっていく。しばらくの間、様子を伺っておこう、もし助けに来てくれた人なのならそうと確認した後に姿を現せばいい。


 藪の中で息を殺してじっと物音の主を待ち構える僕。ちょうど雲間に隠れていた月が顔を覗かせ、僕の目の前の山道を青白い光で満たした。



 月明かりに小さなトカゲが照らされる。



 茶褐色の斑点柄、どこにでもいるようなトカゲは周囲を警戒するように見渡すと、ガサガサと落ち葉をかきわけて道の脇へと遠ざかっていく。やがて、その迷彩色の小さな体は森の闇の中へと消えていった。


 ほっと一息つく。それと共に呆れたような笑いがこみあげてきた。


 トカゲなんかにビクビクしてこんなに怯えていたさっきまでの自分があまりにも滑稽で、顔を地面に埋めたいほど恥ずかしい。なんにしろ、あの物音をたてていたのはトカゲだったわけだ、これで一安心できる。


 そうして警戒を解いた僕に、背後から近寄っていた黒い影が襲いかかった。


 なにが起こっているかもわからないままに四肢を地面に抑えこまれ、首元に冷たい金属を突きつけられる。眩い光を顔に浴びせられた僕は、目を瞑るほかない。


 いったい誰に襲われた? もしかして清流寺せいりゅうじか? そんなふうに襲撃者の正体を探る僕の試みは、数瞬の後に無駄となった。


「…いずみか。」


 冷静で片言の、聞き覚えのある声。僕の顔にむけられた懐中電灯越しに見えたのは、太刀脇たちわきのボサボサの黒髪だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る